十五
こんなにさっさと帰って行くだなんて。一体なにをしにここまで来たのか。トオキョオを見る資格がない。私はぐちぐちと陽都に不満の声を漏らした。
「あの卵みたいな中に入るんだよね?」
陽都は流れてくる遙米球に目を奪われ、私の不満の声なんて聞こえていないようだった。
「そう。ほら、降りてくる人もいるでしょ。さっき流れてきた遙米球に乗ってたんだよ」
「柔らかいんだよね?」
柔らかくて、涼しくて、速い。私は乗り場までの道すがら説明した話を繰り返した。
遙米球が見えるところまで進むと私は鞄から乗球券を取り出し陽都に一枚渡した。六十三歳以上は一ヶ月に十五枚無料で乗球券がもらえる。おじいちゃんは仕事で風動船を利用することが多いから家の引き出しの中には乗球券が溢れるほど入っている。
「乗球券?」
球に乗るから乗球券だと私は言った。
「トオキョオだって電車とかタクシイに乗るときにこういうの必要になるでしょ?」
「タクシイは必要ないけど、そうだね、電車は切符が必要だね。でも、大きさも材質も全然違うよ」
電車に乗るのに必要となる切符とは硬い紙のような材質で、薄っぺらく小さいのだと陽都は言った。
薄っぺらくて小さいとなくしてしまわないかと訊くと、最近はスイカという名の電子マネエと呼ばれるカアドというものを利用しているから切符はあまり使われていないと、とても難しい答えが返ってきた。
聞けば、マネエというのはお金のことで、カアドというのは平たくて硬い札のことだそう。電子マネエというのは、そのカアドにあらかじめお金を入金しておくことでお金のように利用できるものらしい。難しい。考えをまとめただけで頭の中は煙まみれになった。
「スイカもこのくらいの大きさだよ。掌サイズ。あっ。サイズっていうのは、大きさってこと。掌に収まる大きさっていうこと」
サイズ。言葉の響きが格好良くて気に入った。
「掌サイズ」
言葉に出してみると、その響きの格好良さに少し恥ずかしさを感じた。
「そういえばさ、この乗球券の形って、遙米球だよね?」
「うん。そうだよ。遙米球だよ。というか、遙米餅。遙米球は遙米餅の形から作られた乗り物だから」
柔らかくて、よく伸びて、味の種類が多い、遙米で作る涙型の餅。遙米は数ある相原の米の種類の中でも歴史ある古代米の代表的な存在。そう遙米餅について説明しているところで陽都の順番がやって来た。
「前の人が乗るところ見たよね? 入ったらああやって横になれば後は勝手に蓋が閉じるから。それで、中に押鋲があるから梢町二丁目っていうところを押して。こういう字」
私は掌に指で梢と記した。
陽都は「オッケエ」とよくわからない言葉を言い残して、
* * *
ジェットコオスタア。
私は唐傘の下で筆記帳にそう記し、その隣に遊戯施設にある速度の速い乗り物と説明を加えた。
ジェットコオスタアみたいだった。それが陽都の遙米球についての第一声だった。
陽都は体を包む柔らかさを誉め、快適な送風装置を誉め、遙米球に乗ることができる相原区民を羨ましがった。トオキョオにはたくさんの乗り物があるのに、相原の庶民的な乗り物である遙米球をそんなにも気に入るだなんて意外も意外だった。お金持ちの子が
梢町に来たのは唐傘を買いに来て以来だったから、ちょうど二ヶ月ぶりだった。一番区の
トオキョオには商店街というものがないのか、陽都は歌観知らずな三番区民が一番区でそうするようにきょろきょろと落ち着きなく辺りを見回していた。
私はまず餅屋へと向かった。ちょうどお昼時だったし、なによりも遙米球を気に入った陽都にその原型となった餅を食べさせてあげたかった。
店の入り口の脇の足風洗場で足を吹かせていると陽都が物珍しそうに覗いてきた。女の子の足風洗を覗くだなんて……。なんて繊細さに欠けることをするのだろう。と、そう思ったのだけれど、すぐ隣でなんとも楽しげに菫簓を吹かせる陽都を見ていると、そんな気持ちもどこかに吹かれていった。
定番の小倉餡と干し柿、それに胡麻鰹握りと稲荷をそれぞれ二つずつ注文した。
店の奥の休憩処は狭くて、古くて、送風管の効きが悪かった。そのお陰で私たちは休憩処でゆっくりと体を伸ばすことができた。
この橙色の印がついたのが干し柿で、こっちの茶色い印が小倉餡。おにぎりの具は鰹節に胡麻をまぶしたもので、稲荷というのは甘い味付けの油揚げに酢飯を入れた食べ物。私は目の前の食べ物について説明した。
「うん。稲荷は知ってるよ。ただ……」
ただ、形が三角か四角でこんなにも丸くはないのだそう。丸くない稲荷を稲荷と呼ぶだなんてとても不思議な気がした。稲荷は丸いから稲荷と呼ぶのに。
遙米餅の感想は、私が欲しかったとおりのものだった。遙米餅が美味しくないわけがない。陽都はどこまでも伸びながらも弾力のあるその食感を誉め、手にくっつかないつるりとした触り心地を誉め、甘くも後味のすっきりしたその味を誉め、駄目押しに咲良の甘蜜をつけた時の味の変化を誉めた。
「これならいくつでも食べられそうだよ」
そう。そのとおり。遙米餅はいくつでも食べられるほど美味しい。私は眉を持ち上げ得意げに頷いて見せた。
『十四時まで時間限定割引中! 全品四割引』
「やった。思がけ!」
店の前に出された看板を見て私は思わず人差し指を握ってしまった。
「おもがけ?」
「全品四割引きよ。やった。本当に思がけ」
「おもがけって? どういうこと?」
「ん? そのままよ。思いがけない倖運」
「思いがけない倖運。へええ。その略なんだ」
「そうなんだ、って。ええ!? トオキョオでは使わないの思がけ」
使わないと陽都は言った。
トオキョオではこういう思いがけない倖運に出会った時はラッキイと言うのだそう。動物の鳴き声みたい。そう伝えると、陽都は「そうかな」と鼻に指をあてた。
店内は人で溢れに溢れていた。特に新作の秋着物を並べた帳場の前に置かれた陳列台は近づけないほど人でいっぱいだった。私はするりと人を避け、また避けて目的の品を探して回った。こっぽり下駄、目深帽、白粉、目張り、紅に頬紅、大人っぽい夏着物。時間限定割引のお陰で貯めていた小遣いの半分も使うことなく目的の品を買い揃えられそうだった。特に夏着物は夏も終わりということで定価の六割まで値下がりしていた。そこからさらに四割引き。一人くすりと笑ってしまうほど胸が躍り、気持ちが上がった。
私はこっぽり下駄から順に大人の雰囲気を感じる品を選び陽都に意見を求めた。
いいんじゃないかな、と、どうなんだろう。陽都の感想はわかりやすくてとても参考になった。
黒に赤い鼻緒のこっぽり下駄。紺色の目深帽、黒鳶の目張りに赤い紅。乙女色の頬紅。紫地に白い木槿が描かれた夏着物。私はいっぱいになった籠を抱え帳場に並ぶ列へと向かった。
列に並び会計を待っていると、店の外がざわめき始めた。大声を出している人もいれば、走っている人もいてなんだか随分と騒がしそうだった。そのざわめきに誘われるように帳場の前の陳列台から人がすっかりいなくなった。店員たちの中にも入り口から顔を出し通りを覗いている人がいた。一体なにが起こっているのか。帳台に品を置くと私は店のお姉さんに外の騒ぎについて訊ねた。
「もう、本当に信じられないわ。あなたも急いだ方がいいわよ。
あいざしが来てる!
本物だって。今、
そうだって! 道哉もう舞台に立ってるって!
本当!?
うそ!
急がなきゃ!
「あいざし、が? あいざしが来てるんですか!?」
声が裏返ってしまった。
「そうみたいなのよ。ほら、今紫窓公演やってるでしょ? その一つみたいよ」
驚きのせいなのか、興奮のせいなのか手が震えて財布から上手くお金を取り出せなかった。
会計を済ませると、私は陽都の袖を握り、通りを駆ける人たちを追いかけ、追われながら霞朝広場へと急いだ。
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