十四
私の瞼を持ち上げたのはアメコルでも、夏空が見せた夢の終わりでもなく、電声の呼び音だった。
受話器を取った瞬間、おじいちゃんの声が飛び出してきた。
「仕事が長引きそうだ。まったく! 風量調節器がまともになったと思ったら、今度は送風管だ。どうやらここには手抜きが得意な送風管技師が大勢いるようだ。悪いが今晩も帰れそうにない。もしかすると明日も無理かもしれん。心配するようなことはないと思うが、なにかあったら武則のところにな。また明日にでも連絡する」
わかった、と言い切る前に電声が切れた。おじいちゃんはだいぶご立腹のようだ。朝の六時からそんなに怒れるだなんて、さすがは私のおじいちゃん。いつでだって溌剌だ。
おじいちゃんが用意してくれていた大入豆の佃煮と鶏肉の混ぜご飯を食べながら電映機で今日の天気を確認した。
『今日は一日雨となるでしょう。雨は明日の午前中まで続きそうです。トオキョオ消失まで残り四日。夏休みの思い出作りに、今日は三番区帷町へ足を運んでみてはいかがでしょうか』
笑顔の報道者の下には『トオキョオ消失まで残り四日』と陽気な色使いの文字が浮かんでいた。まったく。もっともっともっと悲しむべきことなのに。叩くように電映機を消すと、その時を見計らっていたかのようにアメコルが騒ぎ出した。
東屋に着くと特等席の丸椅子に陽都の姿が見えた。
「なにをしてたの?」
陽都は表紙に大きく『相原見聞録』と記された筆記帳を私に見せた。
「昨日心咲に言われて、タイトルを『相原見聞録』にしてみたんだ」
「タイトル? それってなに?」
「あっ、うん。タイトルっていうのは題名ってこと」
「それじゃ、本だけじゃなくて映画とかも題名のことをタイトルって言うの? タイトル五つ子の子ネズミとか?」
「子ネズミ? まあ、そうだね。そんな感じで使われるよ」
「やっぱりタイトルっていうのもエイゴなんだよね?」
「うん」
「だよね。やっぱりっていうか、私が訊ねる言葉の十中八九がエイゴだからね」
私は筆記帳を開きそこに『タイトル=題名』と記した。そして、題名の隣に括弧をつけて陽都に渡した。
タイトル=題名(TITLE)
今度のエイゴはこれまでよりも特別面白い形をしていた。
* * *
亜紀さんはあいざしの叢雨を口ずさみながら硯で墨を擦っていた。私たちを見つけると、亜紀さんは墨を置き両手を広げて迎えてくれた。
その上機嫌の理由を訊ねると亜紀さんは子供のように目を煌めかせた。
「新作の夢香が届くの。朝一番に
去年は
連続で金賞を取っている綾埜町の工房の新作と聞いて私の胸も大きく弾んだ。
『時綿 ときわた』
亜紀さんは筆を執り紙にそう大きく記し、その隣に『ゆるりと流れる時の川を楽しんでみませんか?』と筆の先を使ってするりと文字を添えた。
「
ゆるりとだなんて。それだけで朝倉系でないことがわかる。
「そうよ。去年、一昨年と朝倉系が続いたから三年ぶりね。なに? あっ。がっかりしたんでしょ? ほら。顔がそう言ってるわよ。朝倉系が良かったのになって」
心音系が嫌いというわけではない。たまに使うこともあるし、あのほのぼのとした雰囲気には確かに癒やされるものがある。それでもやっぱり私は朝倉系が好き。特に去年の待茜が見せてくれた硝子の街は本当に胸を躍らせてくれた。
「私もね、心咲くらいの齢の頃は朝倉系が好きだったわ。当時、
亜紀さんはその景色を思い出すように目を閉じ、胸元に手を置いた。
「今では朝倉系に手を伸ばすこともなくほとんどなくなっちゃったけどね。あっ。どうしてって訊かないでね。言いたくないし、言われたくもないから」
「亜紀さんみたいな美人がそんなことを言ったら駄目な気がする」
「十年後も同じ言葉を言ってくれたら嬉しいな」
亜紀さんの真似をしたら鼻がうるさく鳴ってしまった。私も大人になったら、亜紀さんみたいにくすりと声を出さずに笑えるようになれるのだろうか。
「あっ。そうそう。心咲。明日、陽都くん借りてもいい? ちょっと手伝って欲しいことがあるのよ」
「ん?」
「そんなに寂しそうな顔しないでよ。大丈夫よ。心咲の大切な陽都くんを奪おうなんて思っていないから」
どう答えればいいのだろうか。どこに行くのと訊くのもどうかと思うし。なにを手伝うのかと訊くのも変な気がするし。私は、少し大きな声で「うん」と大袈裟に頷いて見せた。
「ありがとう。大切にするね」
亜紀さんの艶のある素敵な笑みに胸がどきりとした。
細く綿々と連なる雨はトオキョオの姿をちりちりと揺らすように映し出していた。その叙情的な景色にあちらこちらから感嘆の声が上がっていた。
陽都は筆記帳にトオキョオの様子を記していた。手元をちらりと覗かせてもらうとやっぱり私にはわからない言葉が並んでいた。
スリイディイ映画かホログラムでも見ているみたいだ――――
見ているみたい、ということは、トオキョオにもこんな景色が存在するということなのだろうか。
黄色や赤のタクシイという派手な色の自動車がトオキョオ駅の前に集まっていた。タクシイは形は違えど電車と同じくトオキョオではよく利用されている交通機関で、距離によって料金が変わる仕組みなのだそう。トオキョオにはその他にもバスという大型の自動車やモノレエルという一本の鉄の棒を挟むようにして走る交通機関もあるというから驚きだ。そんなにも多くの乗り物があるということはトオキョオは私が考えているよりももっとずっと広いのかもしれない。もしかすると、三番区と四番区を合わせたくらいの広さがあるのかもしれない。
ドグたちは今日も皆足早でだいぶ忙しそうに見えた。トオキョオでは仕事開始ぎりぎりに仕事場へ行くのだろうか。陽都が筆記帳を閉じたのでそのことを訊いてみると、そんなことはないとの返事が返ってきた。それなら、なぜ? なぜ、そんなに急いでいるのかと続け様に訊ねると、「きっと、みんないつも忙しいんだよ」と陽都は他人ごとのように言った。
「それじゃ、陽都もトオキョオではあんなに急いで歩いてるの?」
「ううん。どうなんだろう。僕は、もう少し遅いかな、たぶん」
「たぶん?」
「自分の歩く速さを気にしたことなんてないから」
そう言われれば、私も自分の歩く速さを気にしたことなんてない。
「でも、こうやって見ると、みんな本当に急いでるように見えるね。心咲が言ったみたいに遅刻しそうで焦ってるみたい」
「そうでしょ? ねっ?」
陽都は黙って頷くと目をくるくると回し、投げるようにトオキョオに目を移した。なにか変なことを言ったわけではないし。どうしたのだろう。まさか。
「陽都、私の顔になにかついてる?」
「ううん」
陽都は私を見ないで言った。
「あっ。じゃあ、髪の毛? 寝癖ついてる?」
私は髪の毛を撫でた。大丈夫と言いながらも陽都は笑いたいのを必死に堪えているようだった。その証拠に耳も頬もさっきより赤くなっていたた。
「私、なんか変なところある? 後になってからなんか言うのは無しだからね」
私は強引に陽都の手を取り掌を二度撫でた。
「はい。嘘つけなくなった」
「えっ? なに? 嘘?」
陽都は体を仰け反らせ驚いた。そんなに驚くだなんて。陽都の驚き方に私の方が驚かされた。トオキョオでは別の意味を持つ仕草だったのだろうか。嘘は駄目の仕草について訊ねようかと思ったけれど、それはまた今度にしておくことにした。私はなにか言いたそうな陽都の言葉を押し戻すように言った。
今から私に付き合ってくれない? と。
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