十三
竹ノ坂通りは音が抜き取られたようにしんとしていた。
足音は妖魔の這う音のようにずさりと大きく響き、誇張されすぎた鳥の鳴き声は妖魔の悲鳴のようだった。
そんな誰かが仕掛けた罠のような静寂に捕らわれてしまわないように、私はあいざしの叢雨を口ずさみながら歩いた。
雨の匂いに君を想う 月華草の夢立ち並ぶ
君の声は雨の滴り 君の想いが僕を濡らす
溢れる胸の痛みが願いに変わる
吸流黄土が舞う宵闇に 僕は君という名の想いを捧げる
石灰色の外灯が落とす竹林の影は、私の歌に文句をつけるようにざわざわと音を立て揺れていた。
「どうしたの!?」
窓を叩き名を呼ぶと、陽都は思っていたとおりに驚いてくれた。
もっと話をしたくて遊びに来たのだと素直に言うのはなんだか恥ずかしくて、私は鞄の中から涙の雫を取り出ししゃかしゃかと振って見せた。「これ、びっくりしちゃうくらい美味しいんだよ」
座卓の上には記しかけの筆記帳が置いてあった。なにが記されているのかと覗こうとすると、陽都は慌てて筆記帳を閉じ、隠すように自分の足下へと移した。その怪しい行動の理由を訊ねると、陽都は誤魔化すこともなくあっさりと告白した。
「亜紀さんにもらったんだ。ここに来てからのことを書いて残しておこうと思って」
「相原見聞録?」
私は笑って言った。
「まあ、そんな感じ、かな? トオキョオにはないものがたくさんあるから」
「たとえば?」
「たとえば……。そうだね、
「ええ!? トオキョオには風洗ないの!? それじゃ、どうやって体を綺麗にしてるの?」
トオキョオでは各家庭に浴室という湯場を小さくしたような部屋があり、そこでお湯につかったりシャワアという雨浴機でお湯を浴びたりして体を洗っているのだそう。体を洗うのにすごく時間がかかりそうだと言うと、「そりゃ風洗と比べたらね」と陽都は掌を広げて言った。あまりにもあっという間に終わってしまうので、陽都は三度も風洗したようだった。
「一度も三度も変わらないよ。だって、一度で体の汚れを全部綺麗に吹き飛ばせるんだから。どれだけ潔癖症の人でも三度も風洗しないよ」
「でも、本当に一瞬だったから。十秒くらいしかかかってないんじゃない?」
「十二秒ね」
「変わらないよ」
陽都は顔の前で手を振り笑った。
私は鞄の中から半球再生機とあいざしの音盤を取り出し、涙の雫と一緒に座卓の上に置いた。持ってきた音盤はあいざしの
「それ、なに? レコオド?」
そう。トオキョオでは音盤をレコオドと呼ぶ。
「うん。でも、相原では音盤って呼ぶんだけどね」
陽都は初めて見るように興味津々といった感じで音盤を手に取り眺めていた。
「レコオドあまり聴かないの?」
「レコオドは見たことないな。でも、たぶんレコオドはもっと大きいんだと思うよ」
「えっ? ということは、レコオドはもう使われてないの?」
「僕が生まれた時にはもうとっくになかったと思うよ」
「そうなんだ。びっくり。それじゃ、音楽はどうやって聴くの?」
「大体みんなシイディイで聴いているんじゃないかな。僕は欲しい曲をダウンロオドして買ってるから、シイディイは持ってないけど」
シイディイ? ダウンロオド?
「全然わからないんだけど……」
さっぱりだった。それもそのはず。シイディイもダウンロオドもエイゴだった。シイディイというのは光の反射を利用して情報を読みこんだり、記したりする記録盤のこと。ダウンロオドとは、インタアネットという電子通信網を利用して情報を手に入れること。トオキョオではインタアネットが広く普及していて、パソコンという個人用の電子情報処理機やスマアトフォンという電子情報処理機に近い性能を持つ携帯電声で色々な情報を手に入れているそうだ。
「それじゃ、今は陽都みたいにシイディイではなくて、そのインタアネットっていう電子通信網を使って曲をダウンロオドして聴いてる人が多くなってる、って、そんな感じでいいの?」
「そうそう。そのとおり。上手く説明できた気がしなかったから、心咲がすんなり理解してくれたことにびっくりした」
びっくりした、のは私の方だった。心咲? ……心咲? 男の子に名前で、しかも呼び捨てで呼ばれたのは初めてだった。
私は胸の震えに気づかれないように、ぱちぱちと大きな瞬きをしてふざけているふりをした。
陽都はあいざしを気に入ってくれた。あいざしの音楽はトオキョオではロックという音楽種類に属するようで、陽都もトオキョオではそのロックを好んでよく聴いているのだそう。
想奏の中で陽都が一番気に入ったのは想いだった。貴晴の篠笛が全面的に押し出された最後を飾るに相応しい壮大な曲。
切なくて綺麗な印象に残るメロディイ。陽都は想いをそう表現した。メロディイとはなにかと訊くとそれは旋律のことだった。切なくて綺麗な印象に残る旋律。正解。私は親指を立てて振った。
陽都はあいざしと同じく涙の雫も気に入ってくれた。同じ味の菓子はトオキョオにはないようだったけれど、柔らかく弾力のある食感はグミという名の菓子に似ていると陽都は言った。
私は嬉しくてたまらなかった。自分の好みを気に入ってもらえることほど嬉しいことはない。陽都が女の子だったら、抱きつき指を絡ませ親友の証を行っていたことだろう。
新たに得たトオキョオの情報を記そうと私が筆記帳を広げると陽都も足下の筆記帳を広げ鉛筆を握った。私たちはあいざしを背景音楽にしばらくの間筆記帳に鉛筆を走らせた。途中、ちらりと陽都の手元を覗くと再生機と思われる絵が見えた。私の視線に気づいた陽都は、「絵は苦手なんだけど、言葉だけじゃ上手く表現できなくて」と照れ笑いを浮かべた。
「こんな形のプレイヤアは見たことがないから」
プレイヤアとは再生機のことで、半球状の再生機はトオキョオにはないようだった。音盤を乗せて蓋を閉じる。蓋から音が鳴る。これが相原の一般的な再生機なのだと説明すると、陽都はへええと感心半分驚き半分といった様子で再生機を手に取り色々な角度から矯めつ眇めつ眺めた。トオキョオの再生機は大体が四角い箱のような形をしていて、材質は硬く、しっかりとしているのだそう。箱形で硬い材質の再生機。あまり良い音がしなさそうな気がした。
筆記帳を閉じると私は武清さんに聞いた話を持ち出した。あの一番区地下市場火災で見つかったという電車の印画のことだ。イケフクロ、マルノウチセン。
「イケフクロじゃなくてイケブクロって言うんだ。こう書くんだ」
陽都は筆記帳を裏から開き『池袋』と記した。
「池袋っていうのは駅の名前。トウキョウじゃ誰もが知ってる有名な駅だよ。で、丸の内線っていうのは池袋と荻窪っていう駅の間を走ってる地下鉄のこと。東京メトロ丸の内線っていうのが正式な名前」
メ、トロ?
「メ、トロはなに? どういう意味?」
「地下鉄っていう意味」
「ん? よくわかんないんだけど、どうしてわざわざメ、トロって言い換えて言うの? 地下鉄でいいんじゃない?」
「ああ。メトロっていうのはエイゴなんだ」
また出た、エイゴ。メトロについて筆記帳に記すかどうか迷ったけれど一応記しておくことにした。
「それじゃ、武清さんのあの話は本当だったってことだよね?」
「そうだね」
「一番区の地下市場か」
トオキョオへの鍵となる手がかりは一番区の地下市場にある、かもしれない。そこが一番区の地下市場ではなく、二番区の浅見丁海水浴場だったならなにも迷うことなく明日にでも風動船か遙米球に乗って向かうところなのだけれど。それが一番区の地下市場となるとそうはいかない。一番区の地下市場は闇市とも呼ばれ、私たち子供は絶対に近づいてはいけないと幼い頃から教えられている。
遙米餅の代わりに人の指が並んでいる。狂香の匂いが充満し皆正気を失っている。陽の光を浴びないので皆青白い肌をしている。五区の様々な場所に繋がっている秘密の地下通路がある。顔を別人に変えてくれる闇医者がいる。独自の通貨が利用されていてその通貨は硝子でできている。一番区の地下市場には数え切れないほどの噂話がある。
私の話し方が嘘っぽかったのか、それとも言霊がやる気を失っていたのか。陽都は驚くこともせず至って平然と私の話を聞いていた。
「でも」
陽都は首を傾けて言った。
「亜紀さんは一番区の地下市場は噂ほど危なくないって言ってたよ。たまに夢香を仕入れに行くことがあるんだって」
地下市場の通りはとにかく複雑で、一度入ったら出られなくなる迷路のような路地もたくさんある。けれど、地下市場として一般的に知られている場所は地下とは思えないくらい明るく、いつでも活気に溢れている。合法、非合法は別として他では手に入らない珍しい商品がたくさんあるので、大きな袋を背負った商売人たちがあちらこちらを忙しそうに行き来している。と、そう亜紀さんが言っていたと陽都は言った。
「そうなの!?」
驚かずにはいられなかった。地下市場がそんなに活気溢れる場所だということにも、亜紀さんが利用しているということにも。
「うん。亜紀さん、明後日に地下市場に行くからその時僕も連れて行こうかって、言って……」
陽都は続きの言葉を濁すように黙った。
「ん? って、言ってたの?」
「ううん。言って、なかったかな」
陽都は私から顔を背けた。
「言ってたのね。明後日ね」
聞こえていないふりをする陽都に私はもう一度言った。
「明後日ね」
陽都は目を閉じ唸り、それから溜息を吐いた。
私にはこのことを言ってはいけないと亜紀さんに口止めされたのだろう。その理由はよくわかる。
「亜紀さんには頼めないな。どうしようかな」
亜紀さんに見つからないようにどうやって後をつけようか。地下市場に入るにはなにか確認や認証が必要なのだろうか。まだ見ぬ地下市場に私はううんと唸り声をあげた。
「心咲……?」
困り顔の陽都に私は意地悪に笑って見せた。
「亜紀さんには、言わないでよね。絶対に心咲には言うなって言われてるから。お願い」
陽都は両手を合わせ頭を下げた。
何事も懐に入らなければ多くを知ることはできない。知るならば懐へだ。
「わかった。でも、それじゃ、私からのお願いも聞いてくれる?」
私は両手をきつく組み陽都の返事を待たずに言った。
こっそりついて行くけど、私のこと絶対に亜紀さんに言わないでね。
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