十一

 

 店の二階にある武清さんの部屋は遠い昔に一度上がった時となにも変わっていなかった。

 畳敷きの六畳間には勉強机と本棚と箪笥しかなく、風琴かざことが遠慮がちにころりと音を奏でていた。

 武清さんは蜜柑水を一息に飲み干すと、「心咲。彼氏できたんだ」と亜紀さんみたいなことを言った。


「トオキョオ友だちだよ」


「トオキョオ友だち? 心咲、トオキョオに夢中になってるの?」


「うん。トオキョオ病」


「自分で言うんだ」 


 武清さんは眼鏡の奥の目を細めて笑った。


「そういうところが心咲らしさっていうのかな。そう。トオキョオ病か。確かに、トオキョオは人の心を強く惹きつけるからね」


「陽都って言うの」


 初めまして、と陽都は頭を下げた。


「陽都くんか。珍しい名前だね。名字は?」


「美成です」


美成栄みなりさかえ


 私はすぐに訂正した。陽都も察してくれたようで、「美成栄陽都です」と改めてもう一度名乗った。

 武清さんは不思議そうに私と陽都を交互に眺め、それからにこりと微笑んだ。 


「二人はなんだかとても良い関係に見える。陽都くんが心咲の彼氏になる日が待ち遠しい」


「ずっと待ってればいいよ」


 私は頬を膨らませた。


「冗談だよ。冗談。久しぶりに心咲に会って嬉しくってね。ごめん。心咲」


「ごめんって言いながら、なんで陽都に片目を瞑って見せてるのよ」


 武清さんは私にも片目を瞑って見せた。


「っと。まあ、冗談はここまでにしておいて。僕に訊きたいことっていうのはなんだろう? 残念ながらちょっとした用事があって僕はもうまもなく出なければならないんだ。だから今はとりあえず、手短にお願いできるかな? 僕が教えられることはだいぶ少ないと思うけど」


 武清さんは居住まいを正し眼鏡の縁を指で押し上げた。


 私は荒木県武則さんから聞いた話を武清さんに話し、他にも吉野狭美南について知っていることはないだろうかと訊ね、自由課題を始業式までに間に合わせなければならないから急いでいると付け加えた。


「吉野狭美南は胡瓜が好きだった」


 武清さんは真面目な顔をして言った。


「美味しい胡瓜を見つけると、その胡瓜を作っている農家に直接交渉して必要な分を配達してもらっていたそうだ。胡瓜につけて食べる味噌も麹から自分で作っていて、独自に麹の研究まで行っていたというから、その胡瓜嗜好は相当なものだったみたいだよ」


 胡瓜好き……。面白い話だけれどそういうことを聞きたいのではない。そう伝えると、「それじゃ、どういうことを訊きたいの?」と逆に訊ねられた。


「心咲の訊きたいことというのは自分の口からじゃ訊きにくいことなのかな? 心咲を見ていると訊きたいことは初めから決まっているように見えるけど」


 武清さんには全てお見通しのようだった。私は両手を挙げた。武清さんには敵わない。私の降参の仕草に武清さんはにこりと嬉しそうな顔をした。


「『トオキョオ見聞録』は吉野狭美南が攫いに遭った人から話を聞いて記した本なんでしょ?」


「そう言われているね」


「でも、その攫いに遭ってトオキョオに行ってきた人の話は一つも出てこない」


「そうだね。出てこない。冒頭でちょっと触れているだけだね」


「その人はどうやってトオキョオに行って、また相原に戻って来ることができたんだろうって思って」


 武清さんは鼻の下に人差し指を当て、一人頷いたり唸ったり、天井を見上げたりした。


「攫いについての話はずっと昔からある。一番古いのは今昔物語の黒雨。目の前で恋人が大雨の中に消えてしまう、あの話。その黒雨から今日に至るまで攫いについての話は数え切れないほどある。だけれど、攫いに遭った人間が戻ってきたという話は一つもない。消えた人間は消えたまま。誰も戻ってきてはいない。もしも戻ってきた人間がいるなら、とっくに攫いという現象について解明されているだろうしね」


 私は頷いた武清さんに頷いた。


「だから、吉野狭美南は重度のトオキョオ病にかかっていて、『トオキョオ見聞録』は吉野狭美南の空想から生まれた小説だったと考える歴史研究家が多い。多いというか、そう考えない歴史研究家の方が珍しい」


 吉野狭美南がトオキョオ病だったのかどうかは別として、『トオキョオ見聞録』は空想科学小説なんかじゃない。陽都の存在が証明している。陽都の右腕には絆授創がない。陽都は酸塊水を知らなかった。陽都はエイゴという古代文字のような言語が記された肌着を着て、スニイカアという履き物を履いていた。陽都はニッポリ駅で電車に乗り、トオキョオ駅で降りたと言った。その陽都が『トオキョオ見聞録』に記されている話は本当のことだと言ったのだから。


「ということはさ、『トオキョオ見聞録』を信じている珍しい歴史研究家もいるってことなんだよね?」


「本当に少数だけどね。両手の指で数えられるくらいじゃないかな」


『トオキョオ見聞録』を信じているということは、信じるだけの根拠があるはずだ。


「『トオキョオ見聞録』を信じている歴史研究家の人に会うことってできるかな」


 私の言葉に武清さんは驚いたようだった。


「会う?」


「直接会って、『トオキョオ見聞録』について話を聞きたいの。武清さんの知り合いにそういう人がいるならお願いできないかな」


「僕には無理だよ。そういう知り合いはいないから」


 私はがくりと頭を落とした。


「そんなにわかりやすく落ち込まないでよ。心咲に落ち込まれるとこっちまで暗くなる。僕にはそういう知り合いは本当に一人もいないんだ。だからお願いすることはできない。心咲には悪いけど無理な相談だ。でも、協力することならできる」


 私は顔を上げた。

 武清さんは私に向かって二度小さく頷いた。


「なぜなら、僕は――――」



『トオキョオ見聞録』を信じている数少ない歴史研究家だからだ。



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