十
荒木県武則さんは忙しそうにしていた。
店の前には報せの購入に来た人たちが小さな列を作っていた。
「午後の報せの一番はカガナミ。一度は逃亡されてしまったものの、ついにその正体を
荒木県武則さんの仕事が一息つくまで、私たちは店の裏手にある陽除処で待つことにした。
竹の長椅子に腰を下ろすと目は自然と陽都の足下に向いた。亜紀さんが陽都のためにと用意してくれた化矛雪駄は最近流行りの
『軽くて、丈夫で、柔らかい。菫簓なら空までだって駆けられる』
電映機の広告放送で何度も繰り返されているこの夏一押しの化矛雪駄。松葉色と梔子色の縞模様の鼻緒がとにかく格好良い。陽都に履き心地を訊ねると、「軽いし、柔らかいし、すごく良い」と宣伝文句に沿った答えが返ってきた。やっぱり、菫簓工房の化矛雪駄は最高のようだ。私も男の子だったら、絶対菫簓工房の化矛雪駄が欲しくなるんだろう。
カガナミの顔も載ってるの?
捕まって、どうやって逃げたんだ? 仲間がいたのか?
答えは全部この報せに書いてある。
「さっきからずっと聞こえてくるカガナミって、なに?」
「奪えないものはない」
「うん?」
「って、言ってる窃盗団」
カガナミはどんなものでも奪っていく。人の命でさえも簡単に。
カガナミが登場したのは三年前のこと。悪事を重ね、また重ね、突然現れた窃盗団はあっという間に相原一の大悪党となった。カガナミについて知られているのは犯した犯罪の数だけ。私たちはなにも知らないまま、ただ奪われ続けている。
「じょうごしゅっていうのは?」
「錠護守っていうのは、相原を犯罪から守る仕事をしている人のこと」
「犯罪……。ああ。ケイサツのことかな」
「ケエサツ?」
「ケ、イ、サ、ツ。トオキョオではケイサツっていうんだ。それじゃ、かおるっていうのは?」
「薫は匂いで物事を解決する専門家。一度覚えた匂いは絶対に忘れないし、ほんのちょっとの匂いにも気づくことができるの。おじいちゃんが前に言ってたんだけど隣町にいても匂いを辿ることができるんだって」
「そんなに離れてても匂いがわかるなんて、犬よりもすごい鼻だね」
「ん? もちろんよ」
犬なんて全然、象よりも熊よりも優れている。
「人、なんだよね? 薫って」
「もちろん」
陽都は腕を組み超能力みたいだなと言った。訊くと超能力とは、人の心を読んだり、手を使わずに物を動かしたりする妖力のような力のことなのだそう。そういうのとは全然違うと私は言った。
「ただ、普通の人よりも嗅覚が優れているってこと。その能力を訓練で鍛えると、ずっと遠くの匂いだってわかるようになるの」
「それにしても……」
陽都はまだなにか続けたそうだったけれど、それ以上口にするのを止めたようだった。
「でも、まあ、そのカガナミはもうすぐ捕まるってことなんだよね? 顔も見られたし、匂いも知られちゃったんだから」
「そうだね。そうなるんじゃないかな、たぶん」
顔と匂いを知られたのだから捕まらないわけがない。誰でもそう考えるし、私だってそう考えたい。
* * *
荒木県武則さんは店の奥の休憩処で手製のかき氷をご馳走してくれた。桃の実をすり潰して作った果肉たっぷりの砂糖蜜はさっぱりとしていて定番の苺味とはまったく違った爽やかさを与えてくれた。
「うめえだろう? 息子以外の男にこの桃氷を食わせたのは初めてだ。ゆっくり味わって食えよ」
陽都もこの絶品かき氷に魅せられたようで匙を持つ手が止まらなかった。
お客さんはいなくなったものの、荒木県武則さんは残った報せを片付けたり印刷機械の手入れをしたりとまだまだ忙しそうだった。
「それにしても、もう後一週間もねえじゃねえか。間に合うのか?」
夏休みの自由課題の題材を『トオキョオ見聞録』にしたのだけれど肝心の吉野狭美南についてわからないことが多い。どんなことでもいいから吉野狭美南についての情報をもらえないだろうか。私はそう荒木県武則さんにお願いした。陽都のことはトオキョオが大好きなトオキョオ友だちなのだと紹介した。荒木県武則さんは「類は友を呼ぶって言うからな」と威勢よく笑った。
「んで、あれだな。吉野狭美南な。『トオキョオ見聞録』愛好家にとっちゃまさに神様よな。そんな神様にな、俺の親父は一度会ったことがあるんだ」
荒木県武則さんは片付けの手を休めることなく話し始めた。
私は筆記帳を広げ鉛筆を握った。
吉野狭美南は右に並ぶ者がいないと言われた歴史地理学の権威だった。後ろで一本に結った白く長い髪の毛。黒一色の甚兵衛羽織。真っ白な化矛雪駄。今でも浮いてしまうであろうそんな風貌に加え、大が付くほどの人嫌いの性格から同じ歴史研究家たちからも奇異の目で見られ、煙たがられていた。
荒木県武則さんのお父さんは、当時四番区の主要通りであった
大井艾通りは四百年前から主要通りとして多くの人や物資が行き交ってきた。しかし、現在の四番区の中心にある電力供給所建設のためには大井艾通りの六割以上を廃止にする必要があった。そこで、代わって一本北を走る
その計画に意義を唱え、強く反対していたのが歴史研究家たちだった。相原で三番目に古いこの通りには先人たちの強い意思と思いがある。通りの周囲からは相原の歴史を辿ることができる歴史的価値の高い発掘品も多く発見されている。大井艾通りを廃止にするということは相原の歴史を消し去ることに等しい。電力供給所はどこか別の場所に建設すべきだ。歴史研究家たちの声は日増しに大きくなっていった。そうした同士たちの声が高まる中、吉野狭美南だけは賛成も反対もせずただ沈黙を守り続けていた。そんな黙する歴史地理学の権威の胸の内を訊くために荒木県武則さんのお父さんは約束も無しに吉野狭美南の研究塔を訪ねた。
「人嫌いって話だったのに、なんでかうちの親父には気さくに接してくれたみてえでな。まあ、うちの親父もだいぶ変わり者だったから、同じ匂いを感じたのかもしんねえな。んでな? うちの親父が大井艾通りの廃止についてどう思ってんのかって訊いたらよ」
吉野狭美南は大井艾通りの廃止に賛成だと言った。
歴史が未来の足枷になってはならない。それが吉野狭美南の歴史に対する価値観だった。吉野狭美南は来生丙通りを主要通りにすることで得られるいくつもの利点を荒木県武則さんのお父さんに語った。それは、中央裁定所で唱えられていた大井艾通り廃止案のどんな理由よりもわかりやすく魅力的だった。
翌日、吉野狭美南の話をまとめた荒木県武則さんのお父さんの報せは、歴史研究家たちを黙らせ、結果大井艾通りの廃止を早めることに一役買った。
この件によって吉野狭美南はいっそう歴史研究家たちから嫌われることとなり、本人も研究塔に籠もりっきりになった。
「その引き籠もり期間の間に『トオキョオ見聞録』を記してたんだな。『トオキョオ見聞録』が出たのはこの三年後のことだからな。その後吉野狭美南がなにをしてたのかはわからねえ。『トオキョオ見聞録』を最後になにも残してねえしな」
私は荒木県武則さんの真っ黒になった掌に向かって頷いた。
「うん? 心咲ちゃん、なんだか知り足りねえって顔してるな。知りたいこととは違ってたか?」
「そんなことない」
「そんなことないかあ。ってことは、やっぱり足りねえんだな。いつもの心咲ちゃんだったら、こう、ぱっと目を輝かせてありがとうって言うもんな。んじゃ、もう少し詳しく知りてえんなら専門家に訊くのが一番だ。忙しいのか、五番区の暮らしの方が肌に合うってのか最近さっぱり顔も見せねえ専門家様にな」
私は荒木県武則さんの声が飛んだ行方を追い振り返った。
一年ぶりくらいだろうか。相変わらず眼鏡がよく似合っていた。私は一つ息を吸い込んでから言った。
お帰りなさい、武清さん。
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