アメガオチル サンジュウビョウマエ

  アメガオチル ニジュウキュウビョウマエ


   アメガクルヨ アメガクルヨ


 アメコルの秒読みに合わせ私たちは東屋へと出た。

 陽都がアメコルの通知音に気を取られていたので私は目の前の景色に集中するように言った。雨はとても細く、よくよく目を凝らしていても降っているのかどうか見定めるのは難しかった。


 トオキョオの姿を認識できるようになるまでにはずいぶんと時間がかかった。トオキョオは蜃気楼よりも曖昧にぼやけ、虹よりも色と色の境界が不鮮明だった。そんな弱々しいトオキョオの姿にがっかりしていた私と違って、陽都は目の前の景色に目を奪われていた。


「……本当にトウキョウだ。トウキョウ駅だ」


 陽都はトオキョオに引き寄せられるように前のめりになり、呆然とした表情で眺めていた。私は陽都が半ば開いた口を閉じ、再び口を開くまでその驚きに駆られた横顔を見つめていた。


「大丈夫かな」


 陽都はトオキョオに向かってそう呟いた。


「今日、家族で出かける予定だったんだ。親戚の家族と一緒に奥多摩っていう川が綺麗なところに。何ヶ月も前から計画を立ててたんだ」


「みんな心配してるよね」


 心配しているどころではないだろう。きっと大騒ぎになっているはずだ。


「陽都は、何人家族なの?」


「お父さんとお母さんと僕の三人。何人家族?」


「私はおじいちゃんと二人。お父さんとお母さんは私が生まれてすぐに死んじゃってるから」


「そう、なんだ。なんか、ごめん」


 私は首を振った。


「全然。おじいちゃんと二人でもそれなりに楽しく暮らせてるから」


 私はにこりと笑って見せた。



 塊となってトオキョオ駅に吸い込まれ、吐き出されていくワイシャツ姿のドグたち。連なり通りを疾走する自動車。朝の新しい陽の光を反射させる超高層ビル。被っていた靄の面紗をゆっくりと脱ぐようにトオキョオはその姿を曝け出していった。

 陽都はトオキョオ駅から伸びるオウダン歩道歩道という面白い名前の歩行者専用通路を指さし、そこを歩いていた時に相原に来たのだと言った。


「来たって言うのはなんか変だけど……。でも、とにかく、そこを歩いていた時だったんだ。前が見えなくなるくらい雨が強くなって」


 もしかすると私は陽都の姿をここから見ていたのかもしれない。白線を上手に跨ぎ、そして消えてしまった陽都の姿を。私がそう伝えると陽都は笑った。


「オウダン歩道は別に白線を跨いで歩かなくてもいいんだよ」


 言われてみれば確かにオウダン歩道を歩く人たちは白線に関係なく歩いている。では、どうして、なんのために、ああやって白線で区切りをつけているのだろうか。


「わかりやすいからじゃないかな。ただ、単に。目立つようにっていうか」


 なるほど。とてもわかりやすい答えだった。



 トオキョオの姿が鮮やかになるにつれ、雨音は足音と話し声によってかき消されていった。必死に働く天井の送風管も人いきれによって本来の力を出し切れずにいた。


「すごい人だね」


 陽都は小声で言った。


「もうすぐ終わっちゃうから。今月までなんだ、トオキョオが見られるのは」


「えっ。そうなの?」


 陽都の目がぱちりと大きく開いた。


「うん。一応そういうことになってる」


「消えちゃっうってこと? それじゃ、僕……」


「大丈夫」


 私は陽都の言葉を遮った。


「大丈夫よ。絶対、私がなんとかするから」


 根拠なんてどこにもなく、自信だって即席の作り物だった。

 私は自分自身にも言い聞かせるようにもう一度繰り返した。

 大丈夫、と。



     * * *



 私たちが恋標こいしるべを楽しんでいるように見えたから話しかけなかったと亜紀さんはわけのわからないことを言った。


「良い雰囲気を邪魔するような野暮な大人じゃないのよ、私は」


 私は顔をしかめ唇を突き出した。思い切り否定したかったけれどそれが私にできた精一杯の抵抗だった。そんな私を見て亜紀さんはくすくすと笑い、隣を見ると陽都もなんだか楽しそうに微笑んでいた。


「あの、こいしるべって、どういう意味ですか?」


 もう。どうしてそんなことを訊いたりするのだろう。私は頭の中に大きな紙切れを思い浮かべそれをくしゃくしゃに丸めた。亜紀さんは思ったとおりとても嬉しそうな顔をした。


「恋標っていうのは、まだ恋人になっていない二人が恋に導かれていく様のこと。トオキョオではなんていうのかしら?」


 陽都は腕を組み俯いた。長い前髪が簾のように顔を覆った。


「たぶん、ないと思います。僕が知らないだけかもしれないけど」


「陽都くんは、恋人いるの?」


 陽都への問いかけなのにどうしてか私がはっとしてしまった。亜紀さんはそんな私の動きを見逃さず、にんまりと唇の片端を上げた。


「えっ。あっ。いない、ですけど」


「ええ! いないの? まさかのまさかだけど、恋不知じゃないでしょ? あっ。恋不知っていうのは、まだ初恋を経験していないって意味なんだけど」


 亜紀さんの大仰な驚きに気圧されたのか陽都は遠慮がちに頷いた。


「心咲もなのよ」


 そう来るだろうと思っていた。私は亜紀さんから顔を背け、壁に飾られている君影草の絵に目を投げた。


「綺麗な顔してるのに。もったいないわね。そう。陽都くんってよく見ると、あいざしの道哉に似てない? 色の白さとか髪の毛の長さとか。それに物静かな雰囲気とかも道哉に似てると思うんだけど」


 似ていると言われれば少し似ているかもしれない。けれど、私にそんなことを言う余裕はなかった。まだ自分の顔の熱さに胸が落ち着かなかった。


「あいざし?」


「そう。あいざしっていうのはね――――」


 相都翳楽団あいとかざしがくだんの略称。

 相原で今一番人気のある男性五人組の楽団。勢いのある楽曲からしっとりとした聴かせる楽曲まで幅広く演奏している。演奏力の高さも魅力だけれど、人気の理由は整った容貌と個性的な衣装。今の若い男の子たちのお洒落はあいざしが引っ張っている。公演の入場券は常に即日完売。先月から月に一度五区のどこかで告知無しに公演を行う紫窓公演を行っていて、その度に大きな混乱が起きている。


 亜紀さんの当を得た簡潔な解説に私は感心した。もしかすると亜紀さんは、私以上のあいざし愛好者なのかもしれない。


「そのあいざしの中でも特に人気なのが唄い手の道哉なの。陽都くん、トオキョオですごく人気あるでしょ」


あいざし愛好者の半分が道哉の愛好者だと聞いたことがある。学校でもあいざしの話が聞こえると、大体話はあいざしから道哉個人へと変わっていく。まあ、私は低音五弦琴の柚乃ゆずのがお気に入りだから、道哉の話が聞こえても特にどうこう思いはしないのだけれど。


 陽都は顔の前で大きく手を振った。


「きっと、陽都くんが気づいていないだけよ。自分の魅力にも、女の子の気持ちにもね」


「本当に、そんなことないです」


 陽都の言葉を聞き流すように、亜紀さんはあいざしの絆を口ずさみ、座卓の上に天麩羅とご飯を並べた。黄金色の衣に包まれた天麩羅は見た目どおり格別な味だった。特に海老の甘く濃厚な味わいには惚れ惚れとさせられた。陽都は天麩羅だけでなく、天麩羅にかける塩にも舌鼓を打った。トオキョオの塩はとにかくしょっぱいらしかった。それに塩の粒はもっと細かくさらさらとしているのだそう。私は忘れないように一度箸を置き、トオキョオの塩について筆記帳に記した。


 ご飯を食べ終わると私はこれからのことについて二人に話した。陽都をトオキョオに戻すには……。

 私が行き着いたのは吉野狭美南だった。

『トオキョオ見聞録』には攫いに遭った人物がどのようにしてトオキョオへ行き、相原に戻ってきたかは記されていない。けれど吉野狭美南は知っていたはずだ。もしかすると、吉野狭美南はそのことを誰かに話していたかもしれない。吉野狭美南を辿ることができればトオキョオに近づけるはずだ。きっと、……たぶん。


「どこでその情報を集めるの?」


和町なごみまちの触屋さん」


 荒木県武則さんなら吉野狭美南については知らなくても、吉野狭美南に近づける情報を提供してくれるはずだ。


「あの昔からやってる。荒木県さんの」


「知ってるの? 荒木県武則さんのこと」


「武則さんって、お父さん? 私が知ってるのはお父さんの方じゃなくて息子の方。学生時代同じ学級だったの。特別仲が良かったわけではないんだけどね」


 驚きだった。まさか、亜紀さんと武清さんが同級生だなんて。ということは、亜紀さんは二十四歳? 大人すぎる雰囲気からもう少し年上かと思っていた。

 武清さんは、がっしりとした体躯の荒木県武則さんとは違って、背が高くて、細くて、眼鏡がよく似合うお兄さん。武清さんは今五番区に住み歴史研究家として働いている。


「なんで、笑ってるのよ」


 そう言われると余計におかしくなって、私は顔を覆ってしまった。


「おかしな子ね」


 亜紀さんの声の後ろで陽都がくすくすと笑う声が聞こえた。

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