送風管技師の夏はとにかく忙しい。

 六十三歳という年齢ながらもおじいちゃんはまだまだ現役で送風管の新設や修理に追われ続けている。この日も私が目覚めた時にはすでに家にいなかった。私は辺りを見回し誰にも見られていないことを確認してから、素早く、そっと家の中に滑り込み、手招きで彼を呼んだ。

 家の中に誰かを上げたのは初めてだった。しかも、事もあろうに相手は男の子。

 私がそんな大胆な行動に移れたのは彼の右腕に絆授創ばんじゅそうがなかったからだ。ドグには絆授創がない。『トオキョオ見聞録』にはそう記されている。そして、彼はバッグがなくなったとも言った。トオキョオでは鞄のことをバッグとも呼ぶのだと、それもまた『トオキョオ見聞録』から学んでいたことだった。


 おじいちゃんの甚兵衛羽織は少し大きかったけれど、彼をだいぶ三番区の男の子に近けてくれた。

 肌着も下履きもびっくりするくらい水を吸っていて、干す前に何度もきつく絞らなければならなかった。

 甚兵衛羽織の隙間から彼の腕が見え隠れする度に、私の目は針の先の餌を狙う魚のように彼の腕に引き寄せられた。黒子がいくつかあるだけで、本当につるりとして筆記用紙みたいな腕だった。

 私は水呑に酸塊水すぐりみずを注ぎ彼の前に置いた。客人に酸塊水を出すのはどうかと思ったけれど、他にはおじいちゃん特製の大葉と人参と蜂蜜で作った養力水しかなかった。

 彼は不思議そうに酸塊水を眺め、おそるおそるといった感じで水呑に口を付けた。


「おいしい」


 酸塊水にぱっと顔を輝かせた彼の反応は新鮮というか、驚きに近いものがあった。酸塊水を美味しいと感じて飲んでいたのはいつの頃だろう。きっと、まだ自分の名字名前も書けなかった頃だ。


「アセロラ?」


 私は首を傾げた。


「ん? このジュウス」


 ジュウス? 

 ああ。私は力強く頷いた。そう。ジュウス。味の付いた飲み物のことだ。


「酸塊水だよ」


「すぐりみず?」


 絹漉しした酸塊の実に砂糖を加えそれを水で割った飲み物。

 酸塊水について誰かに説明したのは初めてだった。彼は酸塊水は知らなくても酸塊の実のことは知っていた。どうやら加工しないでそのまま食べた経験があるようだった。想像するだけで頬がきゅっとすぼんでしまう。

 互いに酸塊水を飲み干し一息吐いたところで私は遅すぎた自己紹介をした。


静流彰心咲しずるあきらみさきと申します。三番区立桐野葵きりのあおい学校の八年生です。よわいは十四歳」


 私は自己紹介の作法に則り、一度小さく頭を下げ、それからももう一度今度は深く頭を下げた。


「きりのあおい? 八年生?」


 そうだと言うと、彼は「八年?」とまた聞き返した。


「そう。八年生」


 なにが気になるのだろうか。私が八年生に見えないとでも言うのだろうか。彼は眉間に皺を寄せたまま「初めまして」と算出学の問題に挨拶するように言った。


美成陽都みなりはると、と言います」


 どこまでが名字なのかわからなかった。みなりは? みなりはる? 失礼ながらも訊ねてみると、名字が美成で名前が陽都だった。それがわかるとますますよくわからなくなった。名字は短すぎるし、名前は電球みたいだ。


「北区立桐香とうか中学校の二年で、同じ十四歳」


「チュウガク? 二年? うん? 二年生? ってこと?」


 彼は頷いた。


「十四歳で二年生なの?」


 ということは、学校に通い始めるのは十三歳からということ? 十三歳から教育を受けるというのは遅すぎるような気がした。それに十三歳までの期間は一体なにをしているのだろうか。訊ねたいことは多くあったけれど、私はその幾つもの疑問を一旦飲み込み、家まで来る途中に彼が言った言葉を繰り返した。

 ニッポリ駅から電車に乗ってトオキョオ駅で降りた。突然の豪雨に走り出したら、次の瞬間見知らぬ広い公園のような場所にいた。


「そう。転校した友だちに会う予定だったんだ。コウキョマエ広場で会う約束をしてて」


 コウ、キョマエ、ヒロバ? 地名? なのだろう、たぶん。


「ここは? 三番区って、どこの?」


「相原」


「あいはら……?」


「うん。そう。ここは、相原」


「……あいはら」


 陽都はもう一度言った。


「そう。相原」


 だから私ももう一度同じ言葉を口にした。


「あいはら、って?」


 私は相原について説明した。相原は一番区から五番区までの五区で成り立っている。五つの区はそれぞれに特徴があり、区によって雰囲気はまったく違う。

 一番区は五区の中でも一番人口が多く三十八万人もの人たちが暮らしている。市場もたくさんあり、大型の複合市場もいくつもある。特に歌観町かみまち通りと呼ばれる繁華街は数え切れないほどの店が通りにひしめき二十四時間いつでも人で溢れている。

 次に二番区。二番区の特徴はなんといっても浅見丁あさみひのと海水浴場があること。夏になるとこぞって皆二番区に集まり海水浴を楽しむ。海沿いに続く白い砂浜は歩く隙間もないほど大きな日除傘でいっぱいになる。

 四番区は工場や製錬所、加工場などが多いことから相原の動力源と呼ばれている。暮らしているほとんどの人が職人仕事に携わっていて、夜になるとあちらこちらにある樽酒場から賑やかな声が聞こえてくる。枡目上に区画されているというのも四番区の特徴の一つ。住所版を見れば初めて訪れた人でも道に迷うことはない。

 五番区は中央と名の付く、政治、公的機関が集まっている。五区全てに共通する決まり事の制定をはじめ、各区の代表は中央裁定所に頻繁に足を運んでいる。研究機関も多くあり、様々な研究家たちが日夜研究塔にて研究に勤しんでいる。

 そして、最後にここ三番区。三番区は五区の中でも一番人口が少なくこれといった特徴がないことから凡区とも呼ばれている。確かに、人口は五万五千人しかいないし、大型の市場もない。けれど、毎年金賞を受賞する夢香を作っている工房はあるし、化矛の木の生産量も相原一だ。それになんといってもトオキョオを眺めることができる。


「眺める?」


「そう。さっきも私はトオキョオ観測をしていたの。あの竹がたくさん生えている坂の上から。その帰り道に君と出会ったの」


「……よくわからないんだけど」


「ん? なにが?」


「眺めるって、どういうこと?」


 トオキョオは雨に浮かんで見える町であること。雨の量によって見え方が変わること。出現に規則性はないこと。今年のトオキョオは前回から七年ぶりであること。

 私はトオキョオについて陽都に説明した。


「ということは、ここは別の……?」 


 陽都は難しそうな表情で天井を眺めた。


『トオキョオは相原と類似した部分を多く持ちながらも相原とはまったくもって別の町である』 


『トオキョオ見聞録』の第一章はこう始まっている。私は鞄の中から『トオキョオ見聞録』を取りだし陽都の前に置いた。


「これはね、トオキョオに行った人の話を聞いて記された本なの」


「『トオキョオ見聞録』?」


「そう。『トオキョオ見聞録』。四十二年前に吉野狭美南って人が記した本」


「トオキョオ?」


 陽都は頁をめくった。私は陽都が読んでいるであろう部分を目で追った。チヨダ区。エキ。ジドウシャ。スクランブル交差点。イザカ屋。ハチコウ前。チカテツ。テレビ。電話。ラジオ。ラアメン


「なんのことか、わかる? これって本当にトオキョオのことなの?」


「うん。そう、だね」


「本当に!?」


「ト、オ、キョオじゃなくて、ト、ウ、キョウだけどね」


「ト、ウ、キョウ?」


「そう。トウキョウだよ」


「トウキョウ? ト、オ、キョ、オはなくて、ト、ウ、キョ、ウなの!?」


 つい声が大きくなってしまった。トオキョオではなく、トウキョウだったなんて。トオキョオ研究史を覆すような事実だ。


「とにかく。本当なのよね。ここに記されていることは」


「あっ。うん」


「本当に、本当なのよね!?」


 迫る私の勢いに押され、陽都は体を仰け反らせ後ろ手をついた。

『トオキョオ見聞録』はやっぱり空想科学小説なんかではなかった。トオキョオは確かにここではないどこかに実在する。聳える建造物群も、自動車もネオンの輝きも。そして、絆授創のない人たちも。


「どうしたの?」


 どうしたのだろう。本当に。『トオキョオ見聞録』の五十三頁にできた黒い染みは一つまた一つと増えていった。それはまるで降り出したばかりの雨みたいだった。


「大丈夫? どうしたの?」


 私はこれ以上『トオキョオ見聞録』を濡らさないように後ろを向かなければならなかった。


 私は振り向かないで言った。


 嬉しいから、と。

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