アメコルが陽気な通知音と共に騒ぎ出したのは、トオキョオ消失の報道から三日後の朝のことだった。

 墜落しそうな重苦しい雲が空を塞ぎ、時折私を押し戻そうとするかのように勢いよく風が吹き抜けた。酷い天気になりそうな、なんとも胸が弾む空色と風だった。


 東屋には誰もいなかった。

 私は貸し切りの東屋で丸椅子と一つになるように膝を抱え、トオキョオが現れるその瞬間に目を細めていた。


 初めの一滴から五分も経たずに土砂降りとなった。

 雷音に着物の袖が震え、稲光に目が眩んだ。落下する無数の鋭い雨粒が映すトオキョオはこれまで見た中でも格別だった。

 トオキョオも雨のようでドグたちは唐傘を手にしていた。ドグたちが使う唐傘は私たちの使っている唐傘よりもずっと地味で似通っていた。柄のない黒や紺など暗めの単色の唐傘がほとんどで、中には柄どころか色さえ入っていない透明な唐傘もあった。もしかすると、ドグたちにとって唐傘は単なる雨除けでしかないのかもしれない。

 仕事場へと向かうのだろう。ワイシャツを着ているドグが多かった。ワイシャツというのは、ドグの定番の仕事着であるスウツの中に着る肌着のこと。ワイシャツも唐傘と同じで見た目が悪い。ただの白い布を合わせているだけにしか見えない。胸元にネクタイという巻物飾りがあるものの、それも胸元に手巾を挟んでいる程度の装飾でしかない。見た目が悪い分、ワイシャツになにか優れた機能があるのかというとそんなこともないようだった。『トオキョオ見聞録』によれば、ワイシャツに備わっている機能は若干の伸縮性と形状記憶程度のものしかないとのことだった。その程度の機能ならばあってもなくても変わらないだろう。それなのに、どうしてドグたちは仕事着にワイシャツを選択しているのだろうか。いつでもトオキョオはわからないことだらけで素敵だ。

 雨脚は時間と共に激しさを増していった。東屋を叩く雨音の威勢の良さは破壊的でさえあった。トオキョオもこちら側と同じく雨脚が強くなっているようで、逃げるようにトオキョオ駅に駆け込むドグの姿が目立った。私は手すりに当たり砕けた雨の滴の欠片に顔を濡らしながら、そんなトオキョオの様子にじっと目を凝らしていた。



     * * *



 雨が止むまでの一時間、東屋を訪れる人はいなかった。皆もうトオキョオに飽きてしまったのだろうか。と、そんな私の考えは的外れだった。東屋が私の貸し切りになっていたのは電映機で大雨注意の喚起がされていたからだったようだ。それを教えてくれたのは亜紀さんだった。亜紀さんの話では、川沿いでは昨夜のうちから豪雨に備え高台に避難した人たちもいたのことだった。


「今頃きっと、電映機でさっきの雨の被害報告が報道されてるはずよ。店が壊れてるんじゃないかって心配して急いできてみたら、心咲がいるんだもの。もう、まったく。重症よ。重症。どれだけ酷いトオキョオ病なのよ」

 もう。まったく。亜紀さんは繰り返した。


 引き戸を開け『開店中』の看板を外に出し、三羽草みつわそうを帳場に飾り、送風管を動かした。

 亜紀さんは手伝いのお礼にと苺味の冷玉ひえだまを三つと冷茶を出してくれた。お茶はほんのりとした甘さがあり、鼻の奥にまで茶葉の香りが広がった。冷玉も私がよく食べているただ甘いだけの苺味の冷玉とは違って、甘くて少し酸っぱい本物の苺の味がした。


「あれ?」


 亜紀さんの声に立ち上がり帳場を覗いてみると、亜紀さんは携帯用の小型電映機を眺めていた。どうしたのかと訊ねると、亜紀さんは「またカガナミ」と私に電映機の画面を見せた。壱から六までどの番組も同じ報道を流していた。


『今朝未明に発生した二番区登世淵町二九の二番区立美術館の美術品窃盗事件ですが、現場からカガナミが事件現場に残す暗号と思われる暗号が記された紙片が見つかりました。錠護守によると、紙片は一ヶ月前に五番区で起こった研究文書盗難事件で見つかった紙片と同じ紙材であることから、今回の事件もカガナミによる犯行である可能性が非常に高いとのことです。現在、錠護会は薫による追跡捜査を行っています』


 カガナミ。カガナミ。カガナミ。カガナミはそうやっていつでも報道を独占する。


 一年前に四番区の吾平踵橋あいらかかとばしが燃やされた時なんかは一週間もの間カガナミが電映機を独占していた。お陰でその間大好きな音友おんともも美味蒐集も見ることができなかった。事件はいつもカガナミから始まる。事件といえばカガナミ。カガナミといったら事件。カガナミはなにがしたいのか。本当にもう。まったく。さっぱりだ。

 結局、報道者はさっきの雨についてもトオキョオについても語ることはなかった。



     * * *



 竹ノ坂通りには小さな川ができていた。流れる雨水は速く、しゃばしゃばと涼しい音を立てながら坂下へと流れ込んでいた。この流れる雨水がトオキョオを映していたのだと考えると水の流れに足が濡れるのも嬉しく感じた。

 竹ノ坂通りを下り、射駒通りに出た私の目を釘付けにしたのは、流れ込んだ雨水で溢れてしまった水路ではなく、荷物の代わりに雨水を目一杯溜め込んだ荷置き場でもなく、通り向かいで外灯に寄りかかっていた男の子だった。


 私は何度も大きくゆっくりと目を瞬いた。

 瞬きをする度に胸の音は大きくなっていき、そのうるささは私は不安にした。


 男の子は頭から足先まで、まるで今し方川で泳いできたかのように濡れていた。

 男の子にしては髪の毛が長く、濡れた髪の毛は筋となり顔に張り付いていた。上着は脱いでしまったのか、古代文字のような模様が描かれた肌着を着ていた。肌着は水を吸ってずいぶん重そうに見えた。膝までの長さの下履きも深い皺を浮かび上がらせていた。

 そんなびしょ濡れの姿から足下だけが浮いていた。踝まですっぽりと包むように覆う履き物はこれまで見たことがない型だった。最新の履き物なのだろうか。眩しいほどに真っ白なその履き物は、陽の光を跳ね返し眩しく輝いていた。


 きっと、どこか別の区からやって来た男の子なのだろう。

 三番区には彼のような男の子はいない。夏は皆揃えるように五分刈りにし、甚兵衛羽織を着て、化矛雪駄を履く。たまに食事処をやっている家の子なんかは店の名前が入った印半纏を着て外を歩いているけれど、まあ、まず男の子の夏の出で立ちといったらやっぱり、五分刈り、甚兵衛羽織、化矛雪駄かむせっただ。それはある意味三番区の決まり事のようなものだから。


 男の子は外灯によりかかりながらきょろきょろと辺りを見回していた。待ち人がやってこないのだろうか。表情はとても不安そうだった。


「あっ!」


 後ろから聞こえた声に肩が跳ねた。

 そろりと振り返ると、通りを挟んで目がぶつかった。私は着物の袂をぎゅっと強く握った。

 男の子は濡れた髪の毛に指を入れ、頭を振ったり、髪の毛を引っ張ったりしながら、「え」と「あ」と「と」を組み合わせた言葉にならない声を零していた。


 私は唐傘を左手に持ち替えゆっくりと通りを渡った。

「どうした、の?」


 彼はまた、あとか、えとか、ととかを繰り返した後、私の問いかけには答えずこう訊いてきた。

「ここ。ここって、どこ?」


 やっぱり他区の子だったようだ。

 私は言葉を詰まらせながらも私なりに精一杯丁寧にここについて説明した。

 ここは竹ノ坂下。この通りは射駒通りで、通りを南に下ると風動船の三番区中央停車場があり、北にずっと上っていくと二番区に辿り着くと。


「――――じゃないの?」


 あまりにも小さな声だったのでよく聞こえなかった。


「ええと。三番区の人じゃ、ないでしょ?」


 彼は私の問いには答えなかった。

 というより、私の言葉が聞こえていないようだった。だから私は、今度は少し声を大きくして別の訊ね方をした。


「どこから来たの?」


 彼があまりにもじっと見つめてくるので、私は外灯に貼られた洗濯屋の広告に目を逃がした。

 彼はぼそりと呟くように言った。

 彼の目を覗くと今度は彼が目を逸らした。


 そして、地に話しかけるようにもう一度彼は言った。


 


 トオキョオ、と。



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