トオキョオの出現に合わせて町のいたるところでアメコルが販売されるようになった。驚くことに餅屋でも遙米餅はるめもちと胡麻団子の間でアメコルが販売されていた。

 初めのうちは一体誰が餅屋でアメコルを買うのだろうと不思議に思っていたのだけれど、時間と共にそれは不思議でもなんでもない当たり前のこととなっていった。遙米餅が売れればアメコルも売れる。ついでに胡麻団子も買われていく。三番区立図書館の脇の餅屋は大体いつも『アメコル 第二世代型』が『今日のおすすめ』だった。

 雨の訪れを予測するアメコルはトオキョオ観測には欠かせない必需品。この年の最新型のアメコルはその黄色く丸い見た目から蜜柑と呼ばれていた。四十五分前からしか通知することが第二世代型と違い、この蜜柑はなんと二時間前から雨の訪れをぴたりと当てることができた。

 私は蜜柑を手に入れるためにおじいちゃんに何度も必死に頼み込んだ。頭を下げ、涙を流し、また頭を下げ、最終的に苦手な算出学の試験で絶対に六十五点以下は取らないという条件でなんとか蜜柑を手にすることができた。私はおじいちゃんに抱きつき、「もう、やめろ!」と怒鳴られるまで「ありがとう」を繰り返した。



    *  *  *



 アメガクルヨ。


  アメガクルヨ。


 蜜柑のお陰でまずだいたい手すりに沿って並ぶ丸椅子を押さえることができた。私はその丸椅子を特等席と呼び、愛着を持ってお尻を預けていた。

『トオキョオ見聞録』を読みながらトオキョオが現れるのを待ち、終鼓が鳴るまでじっとトオキョオを眺め続けた。

 トオキョオ観測に東屋を訪れる人は多かったけれど私ほど居座っている人はいなかったと思う。だからきっと、そんな私のことが気になったのだろう。

「トオキョオ研究家にでもなりたいの?」

 ある日東屋の隣の夢殿ゆめどので働く亜紀さんがそう話しかけてきた。そんなことはないと答えると、亜紀さんは「じゃあ、トオキョオ病かな?」と笑った。

 透き通るような白い肌。切れ長の奥二重の目。すっと通った鼻筋。腰まで届く長い髪の毛。ほのかに香る月下美人の香り。柔らかく優しい物腰。亜紀さんは女の私から見ても惚れ惚れするくらいに素敵だった。


『トオキョオ見聞録』がトオキョオについての知識を与えてくれたように、亜紀さんも私に色々なことを教えてくれた。髪の結い方。着物の着こなし方。着物の柄に合わせた履き物の選び方。なくし物をした時のおまじない。遙米餅にぴったりの甘蜜。そして、亜紀さんの専業である夢香について。その夢香の話の中でも忘れられないのが初色だ。

 その日は弱々しい霧雨でトオキョオはどこかやる気なく見えた。鋭く直線的な線が魅力の建造物群は崩れた崩れた豆腐のようにぐにゃりとし、自動車の列は子供が作った首飾りのようだった。そんなトオキョオ観測には不向きな雨のせいで、東屋には一本の唐傘の中でお喋りする一組の男女しかいなかった。笑い声を残し二人が立ち去ると、月下美人の香りがふわりと私の鼻を撫でた。

 亜紀さんは私の隣に腰を下ろすと、「恋人いないの?」だなんて、当たり前で恥ずかしくなるような言葉を口にした。

「いない」と答えると、「いつから?」と亜紀さんは今度は囁くように訊いてきた。


「ずっと」


 私の言葉に亜紀さんは目を丸くし、まるで怪鳥媼羽かいちょうおうなうの瞳を覗いてしまったかのような表情を浮かべた。


「嘘でしょ。こんなに可愛いのに。なんで、なんで?」


 可愛い? 私が? 目をぱちくりさせると、亜紀さんもぱちりと大きく目を瞬かせた。

 なんでと訊きたいのは私の方だった。可愛い? 十五年間共に過ごしているおじいちゃんにだって言われたことがない。


「じゃあ、好きな子は?」


 私は大きくかぶりを振った。


「そうなの? いないんだ。もったいないな、本当に。でも、別に恋不知こいしらずっていうわけじゃないんでしょ?」 


 そう。亜紀さんの言ったとおり私は恋不知だった。けれど、だからといって、恋をしたいだなんて思ったことは一度もなかった。男の子はいつだって嫌がらせばかりしてくるし、どこでも大きな声を出してうるさいし。私がそう答えると、亜紀さんは「ちょっと待っててね」と唐傘も差さずに店へと駆けて行った。

 戻った亜紀さんの手には桃色の夢香が握られていた。亜紀さんが夢香を振ると鱗粉のようにきらきらと赤い輝きが舞った。それは私がこれまで見た夢香の中でもとびきり綺麗だった。


「どう? この夢香、素敵でしょ? これはね、初色っていうの。すごく稀少な商品で、すごい久しぶりに仕入れられたの」


 初色。

 初めて聞いた。ついこの間読んだ夢香五十選にもその名は載っていなかった。


「初色って、どういう意味かわかる?」


 私は首を傾げた。


「初色っていうのは初恋のこと。初色は夢の中で初恋を思い出させてくれる夢香なの。初恋の男の子を病気で亡くしてしまった夢香師が、その男の子への恋をいつまでも忘れないようにって作った夢香なの。だから夢香師の間では、忘れ形見とも呼ばれているの。これを作れるのは初恋をしている真っ最中の夢香師だけだから、とても稀少なの。十九歳を過ぎても恋不知の女の子なんてそういないでしょう?」


 亜紀さんは愛おしそうに赤い煌めきを振りまく初色を見つめていた。灯火か夢香かの違いだけでその姿はまるで錫音算七壱すずねかぞえなないちの絵の中でも有名な窓際の麗人のようだった。


「心咲に一本あげるわ」


 亜紀さんは私の手を取り初色を乗せた。

 私は、そんな稀少な夢香をもらうわけにはいかないと断った。


「心咲が大人になって初恋を忘れた頃に使って欲しいんじゃないの。今の心咲に贈りたいのよ。初色は心音系なんだけど、恋不知が初色を使うと、朝倉系に変わるの。そしてね、夢の中に未来の初恋の相手が現れることがあるの」


 私はもう一度断った。恋になんて興味のない私が受け取っていいわけがない、と。手の中の初色を返そうとすると、亜紀さんは両手を後ろで組み、くるりと後ろを向いた。


「初恋は、私たちが一生のうちに感じるどんな気持ちよりも素敵なのよ」


 亜紀さんはそう言い残し店へと戻っていった。月下美人の香りが遅れて私の鼻をくすぐり、立ち尽くす私を笑うように軒先の風言がころりと音を鳴らした。

 私は亜紀さんがさっきそうしたように初色を振り、その赤い煌めきに目を細めてから着物の内隠しに収めた。

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