第92話 シナモンの香り

 お盆である。


 商店街もお盆休みで殆ど人通りは無い。

 私も例年、お盆の時期は店を閉めていたのだが、去年の事もあるので今年は店を開けることにした。

 とは言っても、やはり開店休業状態…


 今日のお客はおそらく一人だろう…

 その一人の客を私は待っている。


 夕暮れ時、ようやくそのお客はやって来た。

 お盆の終わり、みんなが送り火を焚く頃…

 去年と同様の黒っぽい服を着て…


 彼女は静かにカウンターに座る。


 カウンターに座った彼女の注文は、意外にもシナモンティーであった。

 ちょっと戸惑っている私に、

「あっ、温かいの下さい」

「温かいの?」

「うん、ホットで…」

「…」

 私は不思議に思ったが、ご注文の通りにシナモンティーを…


 お湯を沸かし…

 シナモンスティックの入っている缶のふたを開ける。

 シナモンの柔らかな香りが広がる…

 その瞬間、私はハッとして彼女を見た。

 彼女は優しくにっこり笑うと、

「そんな昔から好きだったの?」 

「うん…そう…好きだったねえ…」

 私の中に懐かしさが込み上げて来る。


 シナモンティー―

 それは、彼女の母親がよく好んで飲んでいた飲み物。


 コーヒーが苦手だった彼女の母親は、喫茶店に入ると、決まってシナモンティーを注文していた。


 私の心の中で記憶のひとつが蘇えって来た…

 彼女の母親がシナモンのスティックで紅茶にゆっくり、ゆっくりとシナモンの香りを溶け込ませてゆく…

 そんな光景がまざまざと蘇えって来た…

 懐かしさと共に…


 私はティープレスに紅茶の茶葉を入れ、お湯を注ぐ…

 ティープレスの中で茶葉が悪戯っ子の様に暴れだす…

 そのまま暫く…

 やがて…悪戯っ子達は静かに静かにティープレスの底へ…ゆっくりと落ち着いてゆく。

 それを見届けた後、静かにプランジャー(フィルター)を下ろしてゆく。

  

 そして、ティープレスと空のティーカップをカウンターの彼女の前に、シナモンスティックを添えて。


 彼女はカップに紅茶を注ぎ、シナモンスティックを手にして、紅茶をゆっくりとかき混ぜながら、

「あのね…母さんのお墓、ちょっぴり小っちゃくなってた…」

 と 、独り言の様に言った。

「エッ?」

 と、一瞬思ったが…

 ”彼女らしい”なと思って、

「そう」

 とだけ、言ってあげた。


 彼女はシナモンティーをひと口だけ飲み、

「…前はねえ、シナモンティーのこと…思い出すだけで、泣きそうになってたのに…今じゃもう平気で注文できるようになっちゃって…」

 彼女の言いたいことがよく分からなかった私は、つい、

「そんなの、普通な事だよ」

 と、言うと、

「そんなの、イヤダ!」

 思いっきり、ただの駄々っ子の様に彼女は言った。

 急に子供っぽく…

 私は彼女を慰めるつもりで、

「でも、もう、3年経つんだし…」

 彼女は私に嚙みつくかの様に、

「たった3年だよ。まだ3年しか経ってない!」

 ”しまった…”

 私は取り返しのつかないことを言ってしまったような気がした…


 そうだなあ…

 亡くなってしまった人との時間は、時の流れや歳月と言うものはでは計れない…

 

 私は暫く、彼女に掛けてあげる言葉が見つからずにいたが…

「…ゴメンね。そんなつもりじゃなかったんだけど…」

 彼女は黙って、首を横に振る。

「…私もね…私も、忘れちゃったりしてる日もあるんだ…薄情だよね。まだたった3年なのにね」

「…」


 日々の生活の中でその面影は徐々に薄れてゆく…

 それは、冷たい事とか、薄情な事なんかじゃなく、むしろ普通の事。

 それを彼女も感じ始めている…だからこそ、そういう自分が許せないでいるのかも…

 でもやっぱり、それは自然な事だと思う。


 忘れている訳では無いけど、思い出す機会が減ったり、思い出した時の心の痛みが  薄らいでいってしまう事も…自然な事だと…


 彼女は、ひと口シナモンティーを飲むと、気を取り直した様に、

「私とお茶する時、いつもこれだったなあ…マスターの時も?」

 私は少し戸惑いながら、

「…うん、そうだね…そうだったねえ」

 と、話を合わせて、

「少し砂糖を入れたりして」

 そう言うと、

「アラッ、私との時は、砂糖なんか入れなかったよ」

「へえ~」

「ダイエットかな?」

「そうだよ、きっと」

 ふたり、お互いの顔を見合わせ、なんとか笑った。

 なんとか、笑えた…


 それから二人は、また、無口になってしまい…

 それぞれに彼女の母親を想っていた…


 私はふと、

「今思っている自分の心に甘えていいんじゃないかな…」

 と、言った。

 彼女は私が何を言っているのか分からない様子だった。

「此処で泣いてもいいんだよ」

 と、言うと、彼女は、ウンと頷いたが涙はこらえていた。


 夏の西日が、店の中に差し込んで来た…


 彼女は、母親との思い出をひと口ひと口味わうと、静かに席を立ちレジへ。

 

 彼女が店を出ると、そこへちょうど帰省中らしき親子連れが店の前を通ってゆく。

 幸せそうに手をつないで通りゆく。

 私は、

 “なにも今、この店の前を通らなくても”

 と、思った。


 彼女は、暫くその親子を見ていたが、私の方へ振り返り、

「泣かないよ」

「…」

「今、泣いちゃうんじゃないかって思ったでしょう…でも、泣かないよ」

 と、ちょっと悪戯っぽく、ちょっと意地悪っぽく、彼女は私に笑って見せた。

 すごく無理した笑顔で笑っていた…


 そして、私に軽く手を振り帰って行った。


 少し陽が短くなって来た様で、西の空の雲が茜色に…

 夕暮れの陽が彼女を茜色の中へ包み込む様に…輝いていた。


 帰ってゆく彼女の後ろ姿を見送りながら、さっきの彼女の笑顔を思い出していた。

 ちょっぴり悪戯っぽく、ちょっぴり意地悪っぽい彼女の笑顔を…


 そして私は、彼女の両親のことを思わずにはいられなかった。

 “あんないい子、ひとりぽっちにしやがって”

 

 店の中に戻ると、ほのかにシナモンの香が…


 カウンターの上のシナモンティー…

 飲みかけのシナモンティー…


 そのシナモンティーを、彼女が飲み干すことの出来なかったシナモンティーを静かにシンクに流しながら、


 ”同じ味、出せたかなあ…”

 

 街路樹では、もう、ツクツクボウシが鳴き始めていた…

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