第90話 今日という日は全く
夏、真っ盛り。
街路樹の蝉も短い生命を謳歌するかの様に力強く鳴いている。
私は今朝から時計を何となく気にしている。
今日は彼女が合宿から帰って来る日なのである。
今日の夕方、学校に着くらしい…
なのに、私は朝から何となくではあるが時計を気にしてる。
帰って来たからといって、ここに寄るかどうかも分からないのに…
そんな私の心を見透かしているのか、普段は夏の暑さでぐったりしているはずの老犬が、私を見てご機嫌そうにシッポを振っている。
それとも、老犬も彼女の帰りを待ちわびているのかもしれない。
しかし、こんな日に限って店は暇だったりする。
忙しければ、それなりに時間が経つのも早いのだが、今日に限ってお客様もまばら。
”今日という日は全く”
誰かがどこかで地球の自転を止めてるんじゃないのかと思ってしまいたくなる位時間が経たない。
ランチタイムになっても、それ程お客様達はいらっしゃれず、こんなに暇なら老犬を散歩させようかなと思って表に出てみる。
降り注ぐ陽射しの暑さと共に、焼けたアスファルトからの熱気。
恐る恐るアスファルトを触ってみる。
“こりゃダメだ”
きっと老犬の足は大やけどになる。
“老犬お散歩計画”もあえなくNG。
”今日という日は全く”
結局、老犬の散歩を諦めた私は、店の中に戻り、お客の“お冷”を注いで回ったり、テーブルを拭いて回ったり、普段はしない食器棚の掃除や片付けなどで時間を潰す。
事情を知らない常連客の1人が見かねて、
「マスターは、本当に、まめだねえ」
と、いい風に勘違いをしてくれた。
すると、別の常連さんが、
「違うよ。マスターもこの夏の暑さにやられちゃったんだよね」
と、からかってくる。
私は、“そんなんじゃありませんよ”と、心の中で呟く。
”今日という日は全く”
そうこうしているうちに、近所の帽子屋さんの奥さんが、
「マスター、今日出来る?」
と、店の扉を開けて、声を掛けてくる。
近頃は、別に申し合わせをした訳でも無いのだが、午後3時過ぎになると商店街の有志達が打ち水を行うようになった。
私も時間が合う時は参加する。
バケツに水を汲んで、各店の前で打ち水をする。
バケツの水を柄杓で撒く。
ほんの些細な事なのだが、これで多少の涼しさを味わうことができる。
少しスッキリした様な気になる。
が、それから、ほんの暫くした後…
いきなり、ゴーッという音がする。
“何事?”と、思ったら、お客の一人が、
「あ~あ、こりゃ、ひどいなあ~」
と、窓の外を見ている。
大粒の雨が乾いたアスファルトをたたきつけている。
物凄い夕立。
街全体が打ち水状態に…
一挙に涼しくなってきた。
天然の打ち水には敵わない。
暑い中、ちまちまバケツで水打ちしていた自分の姿を思い浮かべ…
”今日という日は全く”
その夕立も止み、再び、夏の陽射しが。
すると今度は蒸し返しで暑くなってくる。
”今日という日は全く”
そして、真夏の太陽が西に傾きだした頃、日焼けして、目をキラキラ輝かしたセーラー服姿の夏少女が飛び込んで来た。
彼女である。
吹奏楽部なのに、なぜそこまで日焼けしたのかと言いたくなるくらい真っ黒で、こちらを見つめた目と、笑った時の歯の白さが、やたらと印象に残る夏少女が元気に、
「ただいまー」
と、入って来た。
この時間帯は殆どが常連客達なので、みんなそれぞれに、
「お帰り~」
と、答える。
彼女は、持って行った時よりもさらに重くなった様子の大きなバッグをカウンターに降ろすと、
「フ~」
と、大きく息をつく。
そして、カウンターの奥の老犬に、
「ただいま!」
と、声を掛ける。
老犬はシッポを大きく振ってそれに答える。
彼女はバッグからお菓子のお土産を出して、
「これ、皆さんで」
と、カウンターに置くと、再び、バッグを重そうに担いだ。
私が、“アレ?”って顔をすると、
「今日はもう帰ります…また来ます」
と、すぐに店を出て行ってしまった。
私は拍子抜け。
きっと今からカウンターにでも座って、機関銃の様に合宿であったことなどを
喋り始まるんだろうな思っていたので、かなりの拍子抜けである。
しかし、考えてみれば、向こうのお家でもきっと、私以上に彼女の帰りを待ちわびているはずなのだ。
にも関わらず、わざわざ土産だけ渡しに寄ってくれた。
彼女の優しさを顧みた。
私は彼女を見送りに表に出た。
彼女はすでに行き交う人々の中で小さく見え隠れしている。
西日とはいえ、まだまだ暑い夏の太陽。
その陽射しを浴びながら、やがて彼女の姿は往来の中に消えて行った…
店に戻り、私は思う。
”今日という日は全く”
カウンターに置かれた彼女からのお土産を開け、店内のお客様にお裾分け。
夜になってようやく涼しくなったので、老犬と”お散歩”へ。
見上げた夜空には月がポッカリ。
ほぼほぼ満月のお月様がポッカリと、夏の夜空に浮かんでいた。
あれだけ雨を降らせた雨雲も、雨を全部この街に落としてスッキリしたのか、もう何処かへと去って行ったようだ。
散歩の途中、老犬が、甘えているのか、今日はやたらと私の足にスリスリしてくる。
やれやれと思いながら、私はしゃがんで、
「どうした~?」
と、老犬の頭を撫でてみる。
老犬は満足げにシッポを振っているだけで、他には何も答えてくれない。
暫く撫でてやると、満足したのかその後はスリスリしなくなった。
私も老犬の頭を撫でて、少し心が落ち着いた。
私は散歩を続けながら…
…ひょっとしたら、老犬は、”今日という日は全く”と、イライラしていた私の心をニュートラルな気持ちに落ち着かせるために、わざとスリスリしてきたのかもしれない…
そこまで出来た犬とは思えないが…
もしそうだとしたら、私が老犬に慰められたという事か…
老犬の方が人間の私よりも“大人”という事?…
ちょっと、複雑な心境になる…
でも…
“まあ、いいか…”
私はようやく、今日あった全ての出来事を許す気になった。
老犬のおかげで、散歩の帰り道は、ゆっくりとのんびり“お散歩”出来た。
老犬へのお礼に少し遠回りして帰ることに…
田園風景の残る田舎道へ…
さっきまで見ていた月も心なしか大きく見えた。
街灯の少ない田舎道―
振り返ると、月に照らされた私と老犬の影が、雨で冷やされた田舎道にクッキリと映し出されていた…
あまりにもクッキリと映し出されていたので、本当にこれが自分達の影なのか…
私はその月影に向かって手を振って確かめてみた。
月影は同じ仕草で応えてくれた。
老犬がそんな私の様子を不思議そうに見上げていた。
私はもう一度老犬の頭を撫でて、散歩を続けた。
私と老犬の月影が、私達と同じ歩調で、私達のほんの少し後ろをゆっくり、そして、のんびりと付いて来ていた…
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