第80話 存在…
私は今、老犬の散歩がてら、夜明け前の商店街を駅の方へと歩いている。
今朝はなぜか早くに目が覚めてしまったのだ。
”春眠暁を覚えず”と言うのに…
あまりにも心地よく目覚めたので、老犬と共に早朝散歩に出掛けることにした。
あれだけ艶やかに咲いていた桜の花も散り、今はすでに葉桜になっている。
それでも老犬は鼻をクンクンさせて風の中の春の香りを楽しんでいる。
夜明け前の商店街は静けさが増している。
かつて程の賑わいは無いにしても、駅前という事もあり、何とか活気を保っている商店街であるが、やはり、夜明け前は寂し気である…
駅へ向かう人々はみんな無口で、俯き加減で歩いてゆく。
通勤の人、通学の生徒等が早足に私と老犬を追い抜いて行く。
私は気付く。
”なんだかちょっと、みんなの邪魔になってないか?”
そんな気がしてきた。
私と老犬の散歩の速度と、みんなの通勤・通学の速度が違う。
みんな少し迷惑そうに私と老犬を追い抜いて行く。
“これはどうやら、散歩のルートを間違えたなあ”
“もっと人通りの少ない方へ行った方が良かったかなあ”
そんな事を考えていた時である。
私の背後から“チリンチリン”と自転車のベルの音がする。
私は老犬を引っ張って端によける。
しかし、まだ“チリンチリン”と鳴る。
自転車が通り抜けるだけのスペースは十分ある筈なのに…
”おかしいな…”と思って振り返ってみると、自転車に乗った制服姿の彼女が悪戯っぽい顔をして笑っている。
私が目で“こいつッ”と、顔をすると、舌をペロッと出して、今度は大きく立ち漕ぎをして、
「行ってきますッ」
と、私と老犬の横をサッと通り抜けて行こうとする。
私が、
「早いねえ」
と、声を掛けると、
「朝練なの」
と、私達を追い越して行く。
老犬も”ワンワン”と、彼女に挨拶。
彼女は私たちに軽く手を振り、行ってしまう。
“そうか、もう学校、始まってるんだなあ”
と、改めて思う。
季節も、大きなカレンダーを一枚べりべりと剝がしたかの様に、暖かな季節へと変わっている様で…
私は、ふと思う。
駅へ急ぐ人の流れの中で。
私は、この、足早に歩いて行く通勤・通学の流れの中に居ない。
人々は私を追い越し、自分の存在を必要とし、必要とされる確かな場所へと向かっているというのに…
もしかすると、私を次々と追い越して行く人々は、私が今此処にいるということにすら気が付いていないのかもしれない…
ただ通勤・通学を邪魔する障害物ぐらいにしか思っていないかもしれない…
私は心細くなって来た…
私は世間の中では、別にあっても無くても構わない、シャツの三つ目のボタンみたいな存在なのかもしれない。
私が今この場でスッーと居なくなったとしても、誰も気づかず、私の事なんか一切構わず、みんな何もなかったように日々の生活を送っていくのだろう。
私は今更ながら自分の存在のはかなさを感じる。
一体このままで良いのだろうか…
そんなことを考えながら散歩を続けていたら、老犬のリードがクイッと私を後ろへ引っ張る。
何事かと思って老犬の方を見ると、老犬が石垣に片足を上げて…
気持ち良さそう放尿中…
全く吞気なものである。
私は天を仰ぐ。
夜明け前の春の空を。
さっきの彼女の顔が目に浮かぶ。
あの悪戯っぽい顔が目に浮かぶ。
老犬もスッキリした顔で私のことを見上げている。
私は微かに、私の存在を認識してくれている人たちがいることに気付く。
私は笑顔になる。
みんな生きているのだ。
みんなそれぞれの生活の中で、それぞれの存在を確認するために…歩いてゆくのだろう…きっと…
春の街の中を。
春の風の中を。
小さな公園の葉桜がサワサワと揺れていた…
店に帰り、カウンターから改めて店内を見渡してみる。
今日は店内がやたら広く見える。
私はコーヒーの豆を挽き…待つ。
店の扉がカランコロンと鳴り、お客が入って来る。
「いらしゃいませ」
お客は席に着くながら、
「マスター、コーヒー。いつものね」
と、笑顔で私に話し掛ける。
私は今日もコーヒーを作り続ける。
私の存在を確かなものにするために…
コーヒーの柔らかで優し気な香りが店の中を満たしていた…
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