第78話 赤い風船とタンポポと

 

 今日は土曜日―

 彼女の気まぐれ“練習?ライブ?”があった。


 今回は新入生の歓迎会に向けてのもので、チャップリン作曲の“スマイル”をジャズ風にアレンジしたものをブラスバンドで演奏するらしく、彼女はその曲のアドリブパートをソロで演奏する事になっているそうで…


 これは彼女にとってもプレッシャーの様で、かなり真剣に吹き込んでいた。


 そんな彼女の“練習?ライブ?”風景をカウンターから静かに、ある一人の常連客が見つめていた。


 その常連さんは、近くに住むごく普通のサラリーマンで、土曜日の朝食後、10時位に来ては、カウンターでコーヒーを飲みながら、私に家族の話などを聞かせてくれる。


 彼にとって、彼女の“練習?ライブ?”は初めてらしく、凄く感激していた。


 “練習?ライブ?”が終わり、カウンターの隅でサックスをケースに片付けいる彼女に、

「上手だったねえ」

 と、声を掛ける。

 彼女も少し照れたように、

「ありがとうございます…」

 と、応える。

 そして、彼女は自前のエプロンを付けると、カウンターの中に入って洗い物などを始めてくれた。

 

 常連さんは、私の“日替わりブレンド”を味わうと、ひとつ大きなため息を付いて、

「ウチの赤い風船さあ、やっぱり飛んでっちゃったよ」

 と、言った後、私に作り笑顔でほほ笑んだ。

「…そうですか…」

 と、言いながら、私は他の客へのコーヒーをカップに注いでいた。

 

 ”赤い風船”というのは、その常連さんの一人娘の事である。


 常連さんは、娘をなんとか地元で就職させたがっていたのだが、なかなか親の思う通りにはいかないらしく…


 一度膨らんでしまった風船は憧れという風に乗って、高く遠く、都会の方へと飛んで行ってしまったようだ…


 すっかり落ち込んでいる常連さんに私は、

「大丈夫ですよ。ちょっと萎んだり、風向きが変わったりしたら、またすぐに戻って来ますよ」

 と、言うと、

「そうかなあ」

 と、少し微笑み、コーヒーを飲んだ。


 その常連さんが帰った後、さっきの話を聞いていた彼女が、

「でも、その風船さ、もっと大きく膨らんで、高く高く登って…ジェット気流に乗って海外まで行ったりしてね」

 と、言うと、少し悪戯っぽく私を見て笑った。

 私はビックリして彼女を見た。

 “なんてことを…”

 もし、先程の常連さんが聞いたら間違いなく卒倒しただろう。


 何も言えず、彼女を見つめている私に、

「でも大丈夫よ、地球は丸いんだから。そんな事になっても一周してちゃんと此処に帰って来るよ」

 と、言い、他のテーブルの片付けに行った。

 私は、そんな彼女をただ見送るしかなかった…


 土曜日の午後はお客も少ない。

 特に彼女の“練習?ライブ?”があった日は、常連さん達も彼女の演奏に満足して帰って行ってしまうので、殆ど開店休業状態になる。


 そこで、”ちょっと留守してます”という看板を店の扉に掛けて、買い物がてら、久々に3人(2人と1匹)で河原へ行くことに。


 この提案に一番乗り気になったのが、言うまでも無く老犬である。


 河原は春の陽が注ぎ、風もやや暖か。

 青い空の下、黄色と緑の菜の花が美しい…

 もうすっかり春である。


 老犬は彼女の横に寝そべり、気持ち良さそう頭を撫でられている。 

「あらッ」

 と、彼女がタンポポの綿毛を見つける。

 彼女はちょいと摘み上げると、綿毛に、ふうーッと息を吹か掛ける。

 タンポポの種が春の空に放たれてゆく…

 ”赤い風船”のように…

 春の風に乗って…


 この小さな街からも、希望に胸を膨らませた幾つもの風船たちが春の風に乗って飛んで行ったことだろう。

 幾つもの風船が、高く、そして遠くへ…


 春の空…

 旅立ちの季節…

 

 彼女はそんな青い空をいつまでも見上げていた…

 


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