第60話 十三夜
秋の夕暮れ時、私と老犬の長い影が私たちの前を歩いている。
今日は、いつも行く河原への散歩道とは違う道を歩いている。
こちらの道には田んぼなどが多く、田舎の風情を残している。
その一角で初老の男性がスケッチブックを立て掛けて絵を描いている。
彼は私の店の常連さんで、ここでよく水彩画を描いている。
彼が描いているのはいつも夕景。
天気の良い日も悪い日も…
さすがに雨の日は無いが、彼はひたすら夕暮れ時の景色だけを描いている。
以前、店に来た時、その理由を尋ねてみると、
夕日が沈む時の雲の形、光の色…
それは毎日、全く別物なのだそうだ。
刻一刻と変わってゆく夕方の景色の中で一番美しい瞬間。
彼はその一瞬を描きたいそうだ。
毎日は来れないが、彼は時間の許す限りこの場所に来て、その一瞬を一枚の絵に収めようとしている。
だから、彼の作品に一枚たりとも同じ絵は無い。
今日も彼は時を惜しむかのように筆を走らせている。
私はいつも軽く会釈して、邪魔にならない様に少し彼の作品を覗かせてもらい、声はかけず通り過ぎることにしている。
水彩画でしか出来ない独特のグラデーションが、何とも言えない情景を醸し出している…
どうして彼が夕景にこだわるのかは分からない。
夕暮れ時の美しさに魅せられたのだろうか…
それとも何か淡く切ない思い出でもあるのだろうか…
私も時々、特に忙しかった日などは、(滅多にないけれども)ふと、夕暮れ時の美しさに救われる。
“ああ、こういう夕陽を見るために今日一日頑張って働いたのかなあ…”
なんて思う時もある。
美しい夕陽を見ていると、なんだかご褒美をもらったような気がしてしまう…
散歩の帰り、さっきの場所に戻ってみると、彼の姿はもうそこには無かった…
私と老犬の長い影を作っていた夕陽も、吸い込まれるように山の向こうに去ってしまっていて…
辺りは西の空に少し赤みがかった色を残し、あとは全て藍色の世界に変わっていて…
そして、東の空に白い十三夜の月が。
沈む太陽…
昇り来る月…
この星は本当に不思議な星だなあ…
あぜ道の奥にある茂みのススキが少し冷めたくなった秋風に揺られてサラサラ鳴っていた…
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