第32話 スイートメモリーズ

 晩秋から初冬にかけての昼下がりは、太陽が出ていて心地よいが、風はすでに北風で冷たく感じる。

 通りを歩く人々も首をすくめて俯いて歩いている。

 “カランコロン”となり、彼女の春の陽だまりの様な笑顔が入って来た。

「マスター、決まった?」

 と、言いながら、カウンターに座る。

 もう、そこが自分の指定席の様に。

 別に、彼女のために取っているのではなく、いつも、そこが空いているだけなのだが…


 私は、楽曲集を彼女に返しながら、

「いくつか候補挙げたけど、“スイートメモリーズ”なんかどうかなあ?」

「“スイートメモリーズ”?」

「ほら、松田聖子の」

「ああ、松田聖子ね」

「そう」

「松田聖子って、あのIMALUのお母さんでしょう」

 私は何も言えず、30秒以上、彼女の屈託ない瞳をじっと見つめていたような気がする。

 彼女は、時々こういう金縛り的魔法を私にかけてくる。

 私は、私の知っている限りの最新の情報を駆使して、ディズニーの”アナと雪の女王”のアナの役をしている神田沙也加のお母さんなんだよと、つい熱っぽく説明したりしたが、彼女の返答は、

「ふ~ん」

 だった。

「…他の曲にしようか?」

「ダメ~!!」

 と、強烈に拒否された。

「せっかくマスターが選んだ曲なんだから、絶対これやる!!」

 そう言って、私をすごい目で見る。

 まるで今貰ったプレゼントを取られそうになった子供のように。

 

 私はその時、先日のミス・モーニングの言葉が浮かんで来た。


”私が選んだらなんて、言わない方がいいわよ”

”エッ? どうしてですか?”

”だって、マスターに頼んだんでしょう?”

”エエ…まあ…”

”フフフ…女の子はねえ…”

 私も直感的に、この曲は私が選んだら曲ということにしておいた方がいいような気がした。

 事実、私も気に入っているし。


 彼女は、楽譜のリズムをカウンターを指で打ちながら、曲を口ずさみ始めた。

「こんな感じ?」

「そうだね」

「ふ~ん」

 ピアノがあったら、弾いてあげられるのだが…


「ヨシッ」

 と、彼女はカウンターから降りると、

「ねえ、マスター。ねえ、その子、散歩に連れてっていい?」

「その子?」

 彼女の指さす視線の先には老犬が、嬉しそうにシッポを振っている。

「その子?」

「そう、ねえ、いい?」

「ああ…あっ、いいよ」

「ありがとう」

 今まで老犬をその子と呼ばれたことが一度も無かったので、私は少し戸惑った。

 

 彼女はリードを受け取ると、老犬と一緒に、元気に初冬の街へ飛び出して行った。



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