第30話 なぜか、楽曲集を…
秋の風が少し冷たく吹く午後、彼女が少し照れくさそうに店に入って来た。
「この前は失礼なことをしてごめんなさい。叔母さんにしっかり叱られました」
と、ペコリと頭を下げた。
そんな大反省な彼女を大歓迎したのは老犬である。
カウンターの奥からシッポを振っている。
彼女は、そんな老犬に軽く手を振って挨拶すると、カウンターに座る。
今日は、楽器屋さんに、約束通り、借りていたサックスを返しに行った帰りだったそうなのだが…
何故かサックスを持っている。
何故かと問うと、楽器屋さんでは、
「まだ持ってていいよ」
と、言われたらしい。
「楽器もただ飾られているより、吹いてもらっている方が幸せだからね。その代わりさ、せっかく覚えたサックスなんだからさ。時々でいいからマスターの店で聞かせて欲しいなあ」
彼女もこの提案を快く受け入れて、私の全く知らないところで、なんだかわからない交渉が成立してしっまた。
“全くもう‼”
そう言った訳で、彼女はサックスを持ち帰ることとなり、おまけに新しい曲を憶えるために、サックスの楽曲集を買わされたようだ。
さすが、楽器屋さんは商売人である。
「また、𠮟られるかな?」
と、不安げに言う彼女。
「大丈夫。ちゃんと説明したら分かってもらえるよ、きっと…たぶん…」
彼女は少し安心したような笑顔になる。
「そうだ。ねえ、マスター、どの曲がいい?」
と、楽曲集を広げる。
その楽曲集は、ジャズのスタンダードから最近のJ-POPまで、載っている楽曲集である。
「何か、好きなの選んで。”ひこうき雲”のお礼にマスターの好きな曲、やってあげる」
「エッ?いや、いいよ別に…」
「そんなこと言わないで」
「だって…」
思いもかけない彼女の要求に私は戸惑う。
本当に戸惑ってしまっている私をよそに、彼女は、さっとカウンターから降りると、
「この本貸しとくから選んでくださいね」
と、また軽く老犬に手を振って帰っていった。
カウンターに残されたサックスの楽曲集。
その日の夕方、入って来たのは楽器屋さん。
少しいたずらぽく笑いながら、
「あの子来た?」
「来ましたよ。勝手な約束して」
「いやいや、ごめんね。ふとね、思っちゃって。このまま、辞めさせるの勿体無いなって」
「彼女の音、聞いたことも無いくせに」
「下手なの?」
「いえ…上手いですよ…」
「だろう。そんな気がしたんだよ」
「また、いい加減な」
「それにね、前々から思ってたんだけど、この店もね、なんかねえ、楽器みたいな物、あった方がいいって」
「楽器ですか?」
「そう。マスターもピアノか何かやってたんでしょ?」
「エエ、まあ…」
「ほらねえ、グランドピアノとまではいかないけど、ライブハウスとまではいかないけど、生音があった方がいいんだよ、この店。この店はねえ、不思議とそういう雰囲気を持ってんだよね」
「そうですか?…」
私はコーヒーを入れながら、言葉を濁す。
その後も楽器屋さんは、熱く熱く、語って、冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干して帰っていった。
今日最後の客となった楽器屋さんを見送って、改めて店の中を見回して見る。
確かに、昭和から平成跨ぎで令和と受け継がれて来てしまったこの店。
それなりの趣はあると思う。
しかし、グランドピアノなんかを入れたら、客はみんな、立ってなきゃいけなくなってしまう。
よくて、アコースティックギターの弾き語り、といったところかな?
楽器屋さんの話もある程度は的を得ている。
語らせると熱くなる。
”あの人も音楽が好きなんだな…”
私は彼女が置いて行った楽曲集をカウンターの隅に立て掛けて、店の明かりを消す。
さて、どんな曲を選んだら良いものか…
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