第29話 茜色の“ひこうき雲”
突然の“レッスン、もう来ません”宣言から一週間。
私はまだ、彼女の宣言が信じられず、日曜日にもかかわらず店の扉の鍵を開け、彼女が来るのを待っていた。
そんな私を老犬は、憐れむかのように見守ってくれていた。
そんな午後のことだった。
もう、彼女は来ないなとあきらめかけた時、店の扉が“カラン”と鳴った。
入って来たのは、彼女の叔母さんであった。
「ご無沙汰しています」
彼女の叔母さん、つまりは、私の片想いの女性、彼女の母親の妹さんが入って来た。
「この度は、あの子がいろいろとお世話になりまして、ありがとうございました」
「いえ、でも、突然のレッスン終了には、ビックリしましたけど」
「突然?」
と、驚いた顔。
私が、先週の日曜日のいきさつを話すと、
「呆れた。あの子ったら! 私達には、もうレッスンには行かないと。マスターにもちゃんとお礼を言って来たと」
「アハハ…まだ、13歳ですからねえ」
「でも…」
「まあ、それはいいんですけどね。何かあったのかなと思って」
「…実は…先日の木曜日、あの子の母親の命日で…」
と、話を切り出す妹さんの表情は、少し重いような、困ったような表情だった。
話を聞くと―
木曜日は彼女の母親の命日にあたり、無事に法事を済ませた後、お墓参りの際、彼女は持って来ていたサックスを取り出すと、母親のお墓の前で“ひこうき雲”を奏でたそうなのだ。
「姉さんのお墓の前で吹き始めたんです。マスターから教わった曲を」
”いや、別に私が教えたって訳ではないんですけど…”
「初めは驚いたんですけど、あの子なりの供養のつもりなのかなあって…」
「…そうですか…」
私は、そう答えるのがやっとだった。
そうか、彼女なりの供養か…
私は、高らかにサックスで“ひこうき雲”を吹き上げる彼女の姿が目に浮かんだ。
なんだか、そこに、彼女の母親が、もう居ない彼女の母親が寄り添って聞いてくれていたような気がした。
そうか。
それで、何となく全ての事に納得がいく。
父親と勘違いして、私に無理矢理レッスンを申し込んだこと。
期間限定で楽器屋さんからサックスを借りたこと。
学校のクラブにも入らず、ひとり、“ひこうき雲”にこだわって吹いていたこと。
全ては、母親の一周忌の命日に合わせての事だったのだ。
妹さんは、改めて、
「本当に、お世話になりました」
「いいえ。彼女には、また来るように言ってください」
「でも…いいんですか?」
「ええ、もちろん」
と、私は微笑み返した。
妹さんを見送った後、私は老犬と共に散歩に出た。
気づくと、河原の土手の方へ向かっていた。
そう、彼女と初めて出会った、あの河原の土手へ。
少し期待したが…やはり、彼女の姿はそこにはなかった。
私の心に、彼女の母親の笑顔が浮かんだ。
そうか、一年経つのか。
一年前に貴方はもう…
もう…居ないんだなあ…
私の目に、ふと、涙が…
涙を堪えて見上げた空に、ひこうき雲…は、無いけれども、そんなにドラマチックにはいかないけれど…西の空に夕焼けが…秋の美しい茜色の空が輝いていた。
まるで私の知らない世界が、あの茜色の空の向こうにあるような…
そんな、幻想的な夕焼けを私は見上げていた。
きっと、彼女も、その世界にいるかもしれない母親に想いを込めて、思いっ切り“ひこうき雲”を吹き上げたのだろう…
私の心の中に、彼女のサックスの音と共に、彼女の母親の優しい笑顔が甦って来た…
「お~い! 聞こえていたか! オーイ!!」
私は西の空に向かって叫んでいた。
老犬が“ク~ン”と、私を慰めるようにひと鳴きしてくれた。
私はそんな老犬が愛おしくなり、老犬の頭をひと撫ですると、家路へ向かうことに。
秋の夕陽が作る私と老犬の長い影。
私はそれを見ながら歩いてゆく。
そんな私たちの遥か上を、音も無くスーッと一筋のひこうき雲が…
茜色に輝くひこうき雲が…
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