第23話 Fの壁


 ふう~と、ひとつ小さな溜息を付くと、彼女は首から下げてるサックスを重そうに取り、テーブルのソファーに立て掛けながら腰を下ろす。

 そして、頬杖をついて窓の外を眺めている。


 日曜日のサックスのレッスン。

 習いたての13歳にしては、かなり上達していると思うのだが、彼女にとっては、まだまだ納得がいかない事が多いようだ。

 

 特に高いF(ファ)の音である。


 サイドキーを使うこの音がなかなか出ない。

 音階を追いながら吹けば、なんとか出るのだが、一発でこの音を当てるのは、かなり難度が高い。

 しかも、この音が、一番肝心なサビの部分。

 歌詞でいうと(空を駆けてゆく~)のところ。

 この音でこけたら、演奏全てが水の泡。

 全てがこの音を出せるかどうかに掛かっている。

 

 私は音のキーを落とすことを薦めてみたが、彼女は、これを拒否。

 あくまでも、このキーでやりたいようだ。


 そんな彼女に私は少し呆れ顔。

 この頑固さは、正に彼女の両親そっくりであるからだ。


 それから、彼女の音は力が入りすぎている。

 欲しいのは、サックス特有の脱力感。

 しっかり音を出したいという気持ちはわかるが、もう少し肩の力を抜いた方が脱力感が出て良いのだが。

 力任せじゃなくてまろやかに。


 でも、下手にアドバイスすると、かえってムキになりそうなので…


 彼女は頬杖をついて、しばらく、外の景色を眺めていた。

 夏の日差しがまだ残っているこの季節、冷房の効いている店の中から見ていると、外の様子はキラキラ眩しい別の世界のようにも見える。


 彼女はまだなんとなく吹き足りないのか、サックスを膝に乗せて軽く吹いてみせた。

 すると、初めて心地良い響きが。

 私は思わずコーヒーカップを洗っている手を止め、彼女を見る。

 彼女の方も、”うひょっ” という顔をしてこっちを見ている。

 彼女はつかさず、吹き続ける。

 今までにない、まろやかな響きが店の中で共鳴した。

 彼女もその音色に乗せられる様に吹き続ける。

 そして、いよいよサビの部分へ。

 しかし、肝心の高いFでは、”ぷぺ~”というハズレ音。


 サックスはFを響かせてくれなかった。

 なかなかそう上手くはいかない。

 残念そうな彼女の顔。


 しかし、彼女は今の音色と響きを忘れないように、サビの部分の手前の所までを何度も繰り返して、この感覚を自分の物にしようとしていた。


 この粘りも両親そっくりである。

 私はまたまた呆れ顔。(いい意味で)


 彼女にとって、Fの壁はまだまだ厚いようだが、この壁を越えてくのもそう遠くは無いだろう。

 あの瞬間の ”うひょっ” の彼女の笑顔がそう思わせてくれた。


 彼女の、いい意味で力みの抜けたサックスの音が、店の中を満たしてゆく。


 彼女のサックスの演奏に合わせて落とすブレンドコーヒーの香りは、なんとなく心地の良いものだった。

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