第5話 押し入れの中から
「すっかり忘れてた…」
これが、その時の第一声であった。
ここ数日の春の陽気に誘われて、数年やってなかった部屋の模様替えをしようと思い、押し入れの中をひっくり返していた時のことである。
押し入れの奥から取り出したのは楽器ケースである。
アルトサックスの楽器ケース。
私の友人の置き土産。
友人は、私の大親友であり、一人の女性をめぐる恋のライバルであり、その勝者であった。
その恋とは…
元々、私と友人とその女性は、東京のとある音大の同級生であった。
私はピアノ。
友人はサックス。
女性はバイオリン。
そんな三人は妙に気が合い、いつもつるんでいた。
そして、音大を卒業した後も…
私はいつまでも三人のこの関係が続くだろうと思っていた…
そんなある日、二人が結婚することを聞かされた。
そして、その時初めて、私はその女性に恋をしていた自分に気付いたのであった…
全くバカげた話である。
それから、友人たちの結婚式が近づいて来るほど、その女性への想いは強くなっていってしまった。
そんな想いに耐え切れず、私は、とうとう二人の前から逃げ出した。
二人の結婚式当日、友人代表の挨拶をすっぽかして…
私が勝手に恋をして、勝手に失恋して、勝手に二人の前から逃げ出したのである。
友人たちにしてみれば、全く迷惑な話である。
逃げ出した私はこの街に流れ着き、この街で暮らし始めた。
それから時は流れた…
そんなある日、この街での友人との偶然の再会。
二人の結婚生活は長くは続かなかったと聞かされた。
そして、なぜかこのサックスを私に残して、南米へと旅立って行ったのである。
それはもう、十年程前のこと。
「すっかり忘れてた…」
もう一度、私は呟いた。
それ程完全に忘れていたのだった。
なんだか、本当に申し訳ないくらい完璧に、今の今まで忘れ切っていたのだった。
私はしばらく悩んだが、ケースを開けてみることにした。
友人のサックスケースを、ゆっくりと開けてみる。
懐かしさがこみ上げてきた。
紛れもなく友人のサックス。
いぶし銀の彼の相棒。
今までひとりぼっちで、ずっと、このケースの中にいたのかと思うと、少し、悪かったような、愛おしいような気になってしまった。
私はケースから、そのサックスを取り出した。
…取り出してしまった。
友人の、あのサウンドが、私の魂の中に響き始めた。
サックスは思ったより、少し、ずっしりときた。
ケースの中のほのかな友人の残り香が、より一層私の記憶を呼び覚ますのだった。
友人に対する、いろいろな感情も今はもう熟成され、全て懐かしさに変わってしまっていた。
私は急に音を出してみたくなった。
とはいえ、このバラバラの状態のサックス、どう組み立てていいのか?
なんとなくはわかる。
まず、本体にこの曲がったやつ(ネック)を差し込んで…このネジで締める。
それから、この黒いの(マウスピース)を、押し込むように入れてみた。
そして、ストラップを首にかけて、サックスを引っ掛ける。
出来たッ!
いや? 何かが違う…
何だ? 分からん!!
滅多に見ないPCを開く。
分かった、リードが無い。
こうなると我慢が出来なくなるのが、私の欠点である。
すぐに商店街の中にある楽器店に。
「エッ? サックス? マスターが?」
と、驚く常連客のオヤジさん。
「リードねえ…」
と、少し宛てがあるようで、店内を探し始めてくれた。
近くにある女子大の吹奏楽部の学生さんが何人か近くに下宿していて、その学生たちが、たまにここに来ているらしく、小さな楽器屋さんのわりには品揃えは豊富なのである。
アルトサックス用とソプラノサックス用のリードが見つかった。
「でも、これは少し硬いよ。初心者なら、もっと、柔らかめの方が…」
「いえ、これで十分です」
と、私はリードを手に戻る。
私の慌ただしい行動を、老犬は小首を傾げて見ている。
PCの動画『初心者でも吹けるサックス』等に合わせ、見よう見まねでやってみるが、音が出ない。
なかなか、難しい。
リードを震わせると音が出るという理屈はわかっているけど、上手くいかない。
全く、自分の不器用さに呆れる。
しばらく格闘してみたが、ちゃんとした音は出ない。
ちょっと休憩しようと思った時、辺りを見渡しハッとした。
「あッ、そうだ。部屋の模様替え…」
押し入れから引っ張り出した段ボールの箱などが、そのまんま。
陽はもう西へ傾きかけていた。
私は一人、また、呟いた。
「すっかり忘れてた…」
もう、部屋の模様替えをする気も失せてしまっていたので、溜息をつきながら、取り敢えず家具などを元の状態に戻した。
今朝と全く同じ部屋の出来上がりである。
ただ、ベットの脇に置かれた友人のサックスケースを除いては。
老犬は呆れたように大きな欠伸をしていた。
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