第3話 一枚の絵
日々、少しずつではあるが春のぬくもりを感じられるようになってきている今日このごろ。
この季節になると、どうしても思い出してしまうのが先代のマスターとの別れである。
元画家であった先代のマスターが、どうしてこの店を始めたか? そして、どうして、この店を私に譲って去っていったのか?
彼はその理由を語ることなく、この店を私に託してこの街を去っていった。
『芸術家の気まぐれ』
と、言う人もいたが、せめて私だけにはその理由を教えて欲しかった…
今日は、なんだか、ゆっくりと、先代のマスターとの思い出に浸っていたい…
そんな早春の朝だった。
が、
今日は忙しかった。
嫌味か?って、言うくらい客が次々と入ってきた。全く忙しくて目が回った。
そんな中、一番奥の席に座った一人の青年が、何かを探しているのか、何かを見つけようとしているのか、店の中を眺めていた。
その視線は、決してキョロキョロといったものではなく、何か、今、青年の目に見えている物のその奥に潜む、何か、空気、気配、と、いったようなもの…それは、記憶? 思い出? 何か、そんな類のものを探している様であった。
そして、それを見つけた時、青年はひとつ小さく安堵のため息をついて、ゆっくりとコーヒーを飲み始めるのであった。
青年の見つめていたものは、小さな額の絵であった。
私はそんな青年には全く気付かず、やっと店が落ち着いたころ、ようやく私の意識の中に入ってきた。
店の中に冬の午後の優しい光が差し込んできていた。
私が水を替えに行った時に、その青年は私に問いかけてきた。
「あの…今日…マスターは?」
「エッ?」
「…この店のマスター…」
私はすぐに先代のマスターの事だと気付き、
「マスターはだいぶ以前にここを辞めて…」
「辞めたッ!?…辞めたって…いつですか?」
「もう、10年くらいになりますよ…」
青年は、この現実をなかなか受け入れられない様だった。
「…そうですか…」
青年は、すっかり落胆していた。
でも、なぜこの青年は先代のマスターのことを知っているんだろう?
と、私が不思議に思っていると、
青年は、
「あの絵、まだ、飾ってくれてたんですね」
「エッ?」
「あの絵ですよ」
「ああ、あれですか」
それは、店の片隅に掛けてある絵で、私がこの店に来た時から、先代のマスターが飾っていた絵であった。
どういう意図で飾っていたのか私は知らない。
たぶん水彩画だと思うたが、よく分からない。先代のマスターの絵にはそんな絵が多かった。
かつては画家であった先代のマスターが残していった絵。
明るい感じの絵なんだろうな、というのは分かるけど…絵心のない私には特に分からない絵である。
青年は、
「この絵、本当は僕のなんです」
「エッ? あ、あなたが描いたんですか」
「いや、そうじゃないんです。実は…」
と、青年は語りだした。
青年は以前、この店の近くに住んでいて、子どもの頃、よく、お父さんに連れられてこの店に来ていたそうだ。
マスターにも凄く可愛がられていたそうだ。
しかし、父親の転勤でこの町を出ていくことになった。
その時マスターが青年のために描いたのがこの絵だそうだ。
しかし、
「ぼく、まだ子供だったから、この絵、ピンと来なくて…この絵を忘れて家に帰っちゃって、そのまま、引越しちゃって…」
「あらら…」
まあ、でも無理はない。
いくら別れの餞別にと、この摩訶不思議な絵を渡されても子どもにはピンと来ないだろう。
「あなたが悪いわけじゃないですよ」
マスターらしい一面だなと思ってしまい私は苦笑した。
青年は、
「…私、引越した後になって思い出して、親父に話したら凄く怒られて。親父、すぐに店に電話して、マスターに謝ってましてねえ…それ見てて、何か、とんでもない事をしたんだなって気付きました…」
それから、そのことが気になっていた青年は、高校生の時に一度、この町に来たそうで。
懐かしい街並み、懐かしい店、そして、懐かしのマスターとの再会。
マスターもすごく喜んでくれたそうだ。
あの時の絵も壁に掛けてあり、青年は凄く感激したそうだ。
青年は、あの時の事を謝り、そして、思い出のこの絵を引き取って帰りたいと言うと、マスターに断られたそうだ。
「断った? 」
と、私は思わず聞き返した。
青年は、
「そうなんです。『この絵はもうこの店の一部だから、もう君には渡せない』って」
マスターが言うには、青年がこの絵を忘れていってから、青年がいつでも取りに来てもいいように壁に飾っていたそうだ。そして、この絵を見るたびに、マスターは青年の事を思い出していたそうだ。
やがて、この絵はマスターにとっては、青年そのものになってしまっていたのだ。
青年は、
「『だから、もう、渡せないんだ。あの頃の君に…いつまでも…この店にいて欲しいんだよ』って、マスターは言ってました」
「…そうですか…」
私はあの小さな額の絵に目をやる。
先代のマスターの笑顔が浮かんで…消えた…
「その代わりにって、マスターがこれをくれたんです」
と、青年は、小さな箱型の物を私に見せてくれた。
それは、マッチ箱であった。
かつて喫煙が主流だった頃、どこの店にもあった、店のロゴなんかが入ったオリジナルのマッチ箱。
たぶん、この店にはもう無いはずだ。
私は、思わず、
「懐かしいなぁ」
と、声を上げた。
古く、少し色褪せたマッチ箱。
青年は今でも大事にしてくれているそうだ。
青年は、レジで精算を済ますと、大きく息を吸った。
「やっぱり、懐かしい香りですね」
「そうですか…」
「マスターには会えなかったけど、この店が残ってて良かったです」
青年の笑顔が私は嬉しかった。
店を出て青年は、一度だけ振り返った。
しみじみと、この街の風景に目をやり…見送る私に軽く会釈して、青年は駅へと向かった。
やがて街並みも変わり、お客も変わってゆくだろう。
しかし、この店の先代のマスターが残していったこの『香り』だけは、なんとか、残していきたいものだ。
スーッと冷たい空気が。
私は体を震わせながら急いで店の中へ。
陽射しは暖かくなってきているが、外はまだ北風が吹いている。
街はまだ冬の眠りの中にいるが、通りの花壇の菜の花が一輪、陽射しを浴びて咲いていた。
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