第44話 再出発

「なんやねん、急に改まって」


 足早に夏が過ぎ、次の季節がアキアカネとヒガンバナを連れてやってくるころに、母は久しぶりに響の部屋を訪れた。

 厳密に言えばそれまで何度かここに立ち寄ってはいたのだが、響が仕事に出かけていたり、詩音の家に行っていたりして留守にしていることが多かったのだ。

 前以てメールでもすればいいのだろうが、ご近所だといつでも会えるという安心感からか、買い物帰りや仕事の帰りなどにチラッと寄り道する程度になってしまう。わざわざメールしてまで会うほどの用事があるわけでもないのだ。それが今日はたまたま運良く響が家に居た、それだけの事だったというわけだ。


「あのね。あの家、もともとあんたと一緒に住む予定やったから、私にはちょっと広すぎるし、もっと狭いところに引っ越そうかなって思うとったんよ」


 そうだ。そもそもその予定であの家を決めたのに、響がいつまでもこのワンルームに住み続けていたのだ。知らない土地へ引っ越してきて、言葉も全然違うし知り合いもいない。響も一緒に住んでくれるわけでもなく、母は一人で寂しい想いをしていたのかもしれない。今更のように響は母に申し訳ない事をしたと後悔した。

 だが、母の口から出た言葉は、まるで予想外のものだった。


「よう考えたら、あんたもいい歳なんやし、好きな女の子の一人や二人いても不思議やないもんね。お母さんと一緒に住んどったら、いろいろねぇ」

「そないな女の子とかおらんし」

「こないだの花音さん、えらい美人さんやったねぇ。詩音君のお姉さんて言うとったっけ、姉弟揃って美形やね」

「そやな。めっちゃ美人やと思うわ」


 何が言いたいのだろう。母は花音が気に入ったのだろうか。


「あのね。笑わんといてね」

「どないしたん?」

「お母さんね、再婚しようかと思うの」


 響はいつもの安い粉のインスタントコーヒーを吹き出しそうになった。


「は?」

「笑わんといてって言うたやん」

「笑ろてへんて。誰と? いつの間に? まだこっち来てから半年経ってへんやん」

「こっちの人ちゃうくって。岩崎さんと」

「はあああああ? あのお隣の? 美術の先生の? 岩崎弁護士のお父さんの?」

「うん」


 言われてみれば、お似合いかもしれない。物静かであまり主張しない岩崎さん。だが、父が来た日も近所ですれ違ったと言って、息を切らして走って来てくれたではないか。

 彼も息子が独立して家庭を持ち、今は一人で生活している。母と同じ立場なのだ。


「あんたがせっかく見つけてくれた家やしね、岩崎さんがこっちに来たら、息子さん夫婦とも会いやすくなるからって、東京に引っ越そうかって言うてくれてるの。あんたどう思う? お父さんと離婚してあんまり日が経ってへんし、すぐにとは言わへんけど」

「いや、ええのんちゃうか? ほんなら俺と岩崎弁護士は兄弟になるんか?」

「そうなるねぇ」


 照れを隠すようにカップを弄ぶ母が可愛らしい。


「熟年離婚はよう聞くけど……熟年再婚か。岩崎弁護士はなんて?」

「あの『大神響』の兄になるのかって喜んでくれてね。『よんよんまる』関連の訴訟は全部引き受けるって張り切ってくれててん。まだ響に話してへんのよって言うたら、早よ話してくれって催促されたんよ」

「なんや、俺は最後やったんか」

「ごめんねぇ」

「いや、俺が家におらへんかったから。せやけど母さんが岩崎さんと再婚するんやったらめっちゃ安心やわ」

「これであんたも自分の家庭のこと考えられるよねぇ。ごめんね、お母さん気ぃ付かんと」


 響自身、自分の家庭のことなど考えたこともなかったので、母の話に少なからず驚いたのは確かだ。だが母を守って行かなければならないという重荷は岩崎さんにバトンタッチできる。これからは自分と『よんよんまる』だけを守って行けばいい。岩崎さんなら息子さんもいるし、安心できるではないか。


「なぁ、今度こそ結婚式挙げたらどうや?」

「いややわ、この歳で。孫が居ても不思議やない歳なんよ? こんなオバちゃんが恥ずかしいわ」


 歳なんか関係あらへんやん、と言おうとして、響は口を噤んだ。母だって若くて綺麗な頃にドレスを着たかったのかもしれない。この歳になってから着ることを惨めに感じているのだとしたら、それも尊重すべきだ。


「それより、お母さん、あんたのお嫁さんと孫が早く見たいわ。今までそんなこと、全く頭になかったんよね。普通この歳になったら、みんな息子の結婚心配して、結婚したら孫の顔が見たいと言って……お母さん、そんな余裕もなくてあんたに苦労かけちゃったね。ごめんねぇ」

「母さんはもう苦労しすぎたやん。岩崎さんとゆっくりしたらええねん」


 その時、響のスマートフォンのバイブレーションがFisで振動した。


「ごめん、ちょっと電話。……もしもし、俺や。……うん。……そうなんや、わかった、行く」


 通話を終えると、母が「私帰るね」と言った。気を利かせてくれたのだろう。

 電話は花音からだった。衣装が上がったから衣装合わせに来てくれというものだった。

 響は母を見送ると、成城に向かってペダルを漕いだ。

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