さらば、故郷。

 「行ってきます」


 ぽつりと呟いて、部屋のドアを開けた。

 毎度のことだが、見送りの言葉など当然、聞こえてはこない。

 シーンと静まり返った部屋はどこか寂し気で、俺の旅立ちを悲しんでいるようにも思えた。


 扉を抜け、眼前に広がる光景はいつもと変わらない。

 小村の名の通り、目立った建造物などなにもなく、こじんまりとした道具屋や飯屋がある程度。途切れ途切れに立つ民家を数えるだけなら両手あれば事足りた。強いてこの村の良い所をあげろというのであれば、自然が多い。人が優しい。

これに尽きる。


 ただ、山を切り開いて作っただけの小規模な村だ、特記すべき点など一つもない。どこにでもある普通の田舎。それが俺が住んでいたアフラという村の説明……。


 『すまない、嘘だ』


 いや、厳密には嘘ではない。

 今日だけが違ったのだ。


 俺自身、かなり驚いている。

 いつもと同じと思っていた村の出入り口に、サラの姿があった。

 その隣に目をやると大きな看板が聳え立っている。

 そこに黒の文字で大きく書かれた一文に俺は視界を釘付けにされた。


 『ユリハス! いってらっしゃい! 頑張ってね!』


 ずっと欲しかったそれは、あまりにも突然にやってきて、驚きのあまりその場を動くことが出来なかった。


 旅立ちは一人だと思っていた。

 友人の姿も知人もそこにはなく、観客や声援もない。いつもと変わり映えのしない風景を眺めながら、兄の背中だけを追いかけ、新たなる一歩踏み出していく。

 旅立ちはそういうものだと勝手に決めつけ、俺もそんな旅立ちなのだろうと思い込んでいた。


 だが、俺が思っているよりも現実は優しく、温かさで溢れていた。

 俺の姿に気づいたのか、看板の柱に寄りかかっていたサラが手を振る。


 「あ、ユリハスー! こっちこっち!」


 無邪気に発せられた声は、突っかかるような足取りで次第に近づいてくる。


 「サラ、これは……」


 「えへへ、すごいでしょ! ユリハスには内緒で村のみんなと一緒に作ったんだー!」


 「ああ、驚いた」


 俺の驚きの表情にサラは、作戦成功! とでも言いたげにはにかんで見せた。

 村に住む若い女性というとサラを含む数人しか居ないが、それでも、サラの容姿がずば抜けていることは想像できた。


 栗色の長髪。吸い込まれそうな大きな瞳。肌は抜けるような白さで、シワやたるみは一つも見当たらない。中背ですらっとした体のつくりをしている。

 白のシャツにねずみ色のカーディガンというシンプルな服を着ているが、彼女が袖を通すと一気に爽やかさを醸し出す。

 小村の生まれだと一つも感じさせない程の可憐さをその身一つで物語っていた。


 長年、近くで見続けているが、彼女は美人。これ以外の言葉で彼女への表現方法が思いつかない。


 この笑顔も、この村を出てしまえば、しばらくは見れなくなってしまうだろう。

 そんなことを思いながら、青々と澄んだ空を眺めた。


 思えば、俺にとってサラの笑顔はこの快晴と同じような晴天、そのものだった。

幼い頃から、この笑顔に何度助けられただろう。

 うり坊を狩れずに悔し泣きをしていた時も、次は大丈夫だよ!と言って笑っていた。

失恋をした時も、自分が振られた訳でもないのに、俺以上に涙を流しながら、それでもその顔は、俺の雨を晴らすような笑顔で俺を見つめていた。

 何故だろう。サラの笑顔を見ると、次は出来る。大丈夫。そんな気分にさせられた。


 「ほら、みんな待ってるから、行こ!」


 そう言って思いにふけっていた俺の手を引いて、走り出す。


 「お、おい。わかったから、走るなって」


 さっきはサラに気を取られて、気づかなかったが、看板の下にはそれを取り囲むように、村の人たちが立っていた。


 「おお、ユリハス。参ったか」


 村長。早くに両親が死んだ俺たち兄弟を、息子のように育て、孫のように気にかけ、住んでいる家こそ違ったが、子供の頃は毎日のように俺たちと食卓を囲み、眠るまで傍についていてくれた。

 家族の愛を知らない俺たち兄弟に、家族というものを感じさせてくれた事は今でも大恩を感じている。


 「良いか、ユリハス。お前はこれから長い旅路を進む。この先、どんな困難が待ち受けておるかも知れぬ。普段の天真爛漫のお前ではいつ何時、身に危険を迫られるか分からん。そういう時でも柔軟に対処出来るように気をしっかり持ってだな、それに加え――」


 恩を感じてはいるけど、話し出すと長いのだけは勘弁してほしい。


 「ユリハス、頑張れよ! うちの店のツケもちゃんと返せるようにしっかりと稼いで来い!」


 「あんた、そこは頑張れだけでいいでしょう!」


 ジルおじさんにココおばさん。この夫婦は本当に仲が良い。言い争いをしているところなど見たこともないし、いろいろな面で豪快なおじさんを常に支え、手綱を引いているおばさん。この二人の関係は素敵だと思える。

 前に酔ったおじさんから聞いたことがある。

 昔、おじさんが騎士団で働いていたころ、この村の近くまで任務で来ていた際、村の飯屋に立ち寄ったそうだ。

 おばさんはその頃から、今と同じ店で看板娘として働いており、その姿を一目見た時からおばさんに惚れ、口説き落とすために任務でもないのに、王都からだいぶ離れたこの村まで通いつめ、それでも足りないと騎士団を辞め、この村に住み始めたらしい。そのときから豪快だったのが伺える。

 その話をしていたときおばさんは、この人のしつこさに根負けしちゃったのよー。などと言いながら、その顔は照れで赤らんでいた。


 楽しそうに笑うおじさんとおばさんの横には、何か言いたげにこちらを覗くサラの姿があった。


 「ユリハス……」


 「サラ……」


 「あのね、言いたいこと沢山あるんだけど、全部言ったら日が暮れちゃうから、今日は一個だけ」


 「うん、なんだ?」


 「私ね、ユリハスのことずっと……」


 辺りは静寂に包まれる。周りの人もサラの気持ちを知ってか知らずか、言葉を発することを控えているようにも感じられた。


 長い沈黙の後、サラがゆっくりと口を開こうとした瞬間。

 大音声が全速力で割って入ってきた。


 「あああああ!! すまん! 寝過ごしたあああ!」


 大急ぎで走ってくるのは、サラと同じく幼馴染のカイン。

 時間に酷くルーズな所はあるが、その奔放さというか天然さというか、上手くは言えないが、気持ちのいい男ではある。

 それ以外、良い所は特にはないが、悪い所なら千個くらい言えそうだ。


 俺のそばまで来ると、ずっと走っていた為か、体はとても重そうで、膝に手をつく。それに呼吸は不規則で、ハアハアと肩で大きく息をする。


 「カインも来てくれたのか」


 「はあ、はあ。当たり前だろ……」


 膝から手を放し、上体を上げると、すうーっと深呼吸をし、続ける。


 「俺はお前の親友だからな!」



 ――ん? 今、語尾にキランってならなかったか?



 そんな爽やかなドヤ顔でガッツポーズをされても、なんて言ったらいいのか反応に困る。


 「そ、そうだな、ありがとう」


 「おう!」


 俺の呆れた反応に気づきもせずに、爽快な笑顔で答える。

 その一部始終を見ていた人らからもため息が零れた。カインの登場に呆気に取られていたが、ハッと我に返り、サラのほうに目をやると、同じく呆れたように笑っていた。


 「そういえばサラ、さっき言いかけてたことって?」

  

 サラは何事もなかったように首を横に振る。


 「ううん、なんでもない。頑張ってね」


 「? ああ、ありがとう」


 なにか大事なことだった気もするが、サラが何でもないというなら何でもないのだろう。また、この村に帰ってきた時にでも、改めて聞いてみることにしよう。


 懐かしき顔をゆっくりと眺めながら、今をしっかりとこの目に焼き付ける。

 旅立ちに鼓動が早くなるのを感じた。

 深く息を吸い呼吸を落ち着かせる。体中が酸素で満たされ充実した頃、声を上げた。



 「みんな、ありがとう! 行ってきます!」




  ――行ってきます。


  ――この言葉に、返事があるなんて考えもしなかった。


  ――俺は、この村で多くのものを学び、貰ってきた。


  ――それを今この瞬間に実感することが出来て、本当に良かったと思う。


 いってらっしゃいと、多くはないがこの背に伝わる力強い祝福の歓声は、先に待つ試練に怯える俺の足取りを軽くする。

 それと同時に、勇気すらも俺に与えてくれていた。

 

 これからの旅路は、おそらく長い道のりになることだろう。

 

 心が砕けるような出来事が待ち受けているかもしれない。

 自分よりも優秀な人間がいて、劣等感を感じることもきっとあるだろう。


 誰にも言えないような、聞くことの出来ないような運命に、果たして抗い続けることが出来るだろうか。


 などと考えれば考えるほど、余計不安になるが、決して悪い気分ではない。

 村長が最後に言っていた言葉。

 それがあるから、どんなことでも耐えきれるだろう。

 話半分に聞いていた話だが、その言葉だけはしっかりと聞こえた。



 『ユリハス。お前はこれから先、誰が何と言おうとワシだけはお前がツァイスを超え、この国の英雄になると信じておる。』


 

 

 心の中で何度もありがとうと繰り返し、歩みを進めた。

 王都までの道すがら、この村で起きたことを振り返ってみよう。

 

 

 

 すると次々と思い出が蘇ってくる。



 「ハハ、これは退屈せずに済みそうだ」

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