第68話宮中の守護者


 延長えんちょう三年、二月二十五日。

 丑三つ刻近く。――春は目前といえども、よく冷えた夜であった。

 そんな夜に清涼殿の東庭北東に位置する滝口の陣には、当時は滝口たきぐちの小次郎こじろうと名乗っていた平将門が務めていた。


 滝口の陣の仲間に軽く会釈をしてから、見回りの為に東庭へと歩く将門。

 寒風が吹いた瞬間。将門の鼻をくすぐるように、甘く気分が落ち着く香りが届く。


「む。……この香りはどこから」


 将門は獣のように鼻をひくつかせながら、香りを辿り御溝水みかわみず沿いを歩く。

 すると清涼殿の簀子すのこに空を見上げながら座る人影を見つける。


「帝。今宵はよく冷えております故、お早目にお休みください」


 将門は跪きながら言葉を発する。


「おや、小次郎か。沈香じんこうの香りに目白めじろのように誘われてきたか? しかし、今宵こよいは許せよ」


 軽く咳をしながら、柔らかく笑う。――後に醍醐だいごと追号される、朱雀帝の父である。


「それは何故でございますか?」


 将門の純粋な疑問に対して、醍醐帝は月と幾万の星が輝く夜空を見上げる。


道真みちざねの命日なのだ。……時が経てば、謹慎を解き、戻ってもらう筈であった」


 醍醐帝は溜息を吐きながら、そばに置いてある香炉の煙を眺める。


まつりごとというものは嫌なものでな。忠臣に対して、本意で無いとしても沙汰を下さねばならん時がある」


 醍醐帝は香炉を手に持ち、立ち上がる。


「すでに本人の口から聞く事もできんが、余の事を恨んだやもし――」


 醍醐帝は、そこまで言いかけて尋常でないほどに咳き込み、香炉を手から落とし、うずくまるる。

 香炉は灰と沈香を飛散させながら、五級ごしなきざはしを甲高い音と共に跳ね落ちる。


「こじ……ろう、結界が――」


 咳き込みながらも何かを伝えようとする醍醐帝。


「みか――」


 将門が醍醐帝の無事を確認しようと顔を上げる。

 ――と、そこには帝の前に立ち、今にも汚い爪と汚い牙で貪ろうとするが、いつの間にか居た。


 その鬼は筋骨隆々であるが、股座を隠す布も無く、生物であればあるはずの魔羅まらは無く。

 額には二本の螺旋状にねじくれたれた狂気的な角を持ち、落ちくぼんだ眼窩がんかには赤い火が灯っていた。


「帝! そのまま、お伏せになられませい!」


 大声を発しながらの将門の荒々しき踏み込み。

 それは東庭の一部を抉り、きざはしに足を一歩も着く事なく、鬼へと肉薄する。

 いていた小烏丸の抜刀による雷鳴の如き一撃。――鬼の首を胴体から斬り飛ばす。


 鬼の首は宙空で黒いもやを放ちながら、土塊つちくれへと変わる。

 しかし、胴の方は帝へと爪を突き立てようと動き続ける。

 将門は簀子すのこに左足で着地し、そのまま左足を軸足に鬼の背部へと回し蹴りを食らわせ東庭へと飛ばす。


 ――と、そこには騒ぎを聞き及び、三人ほどの滝口武者が陣より、のそりと出てきていた。

 彼らは鬼の胴が飛んでくるのを確認すると手早く抜刀し、直刀で下から突き上げ止めを刺す。


 将門は遠目に鬼の胴が土塊に変わったのを確認すると、醍醐帝の身体を起こそうと屈む。


「余はよい。……小次郎、弘徽殿こきでんへと向かってくれ、中宮達を守ってくれ」


 将門はしっかりと頷く。

 滝口武者達に手で合図を送り、事後の処理を任せ、清涼殿の北に位置する弘徽殿こきでんへと走り向かう。


 醍醐帝は将門の姿を見送り、口元をそでで拭いながら、なんとか立ち上がる。


「陽成院様の所に向かわねば。……」


 其処彼処そこかしこから唸り声と男達の怒声が、風に乗って醍醐帝の耳に届く。

 東庭の地面から染みのように鬼が出てくる。――滝口武者達は気炎を揚げながら刀を何度も、何度も振るい、鬼の頭を割る。


「ふむ、それには及ばないよ。……今上帝よ、結界を張り直す為に大極殿たいごくでんに行こうか」


 血と死の臭いが俄かに漂い始めた頃、醍醐帝は背後より近づいて来た、陽成院に話しかけられる。


「経基よ、少し手助けしてあげなさい。終わったら、君の息子と一緒に東の鴨川沿いを防衛を。……虫けら一匹、通すな」


 陽成院が鷹匠たかじょうの様に手を東庭に向ける。

 するとみなもとの経基つねもとは颯爽と飛び、鷹の鋭きくちばしの如き一撃を鬼に見舞い、次々と滅していく。

 滝口武者達は、その姿に呆気に取られてしまう。


「其処な滝口よ。先程、弘徽殿こきでんに向かった者が戻ったら、洛中の鬼を殲滅し、南の羅城門の防衛に。……此れは勅命ぞ」


 陽成院の口より発せられた、言の葉の重みのせいか。……滝口武者達は口を開け閉めしながら、深くこうべを垂れるのみであった。





 醍醐帝が鬼により襲撃された直後。――弘徽殿こきでん

 幾重にも張られた几帳きちょうと結界の中にて、中宮である藤原ふじわらの穏子やすこは険しい顔で座している。

 中宮の脇には東宮である慶頼よしより王と、後の朱雀帝である寛明ゆたあきらまなこをきつく瞑りながら、しがみついていた。


「眼を閉じてはなりませぬ。その眼に焼き付けなさい、我々はあれを祓い、清め、時には滅せねばなりませぬ。人の為に……」


 そう中宮が語った瞬間。――五匹の鬼が几帳を抜け、三人の目の前に達する。

 鬼達は、ご馳走・・・を眼前にしながらも多少の自制心があるのか。……よだれを垂らし唸りながら、ゆっくりと近づく。


「大丈夫。……結界があれの侵入を防いでくれます。我々には指一本――」


 鬼が岩石の様な拳で半透明の結界を殴る。

 ――その拳が灼かれたように爛れても、殴る。

 ――拳が砕け、土塊に戻ろうとも殴る。

 ――両腕が土塊に戻れば、体で当たる。


 徐々にその執念が実るように、結界にひびが入りはじめ、結界が軋む音が三人の耳に入る。

 すわ、ここまでかと。――中宮は諦め目を瞑った時に、大きな音が鬼達の背後からする。


 それ・・は縄張りを荒らされ、怒りに満ちた熊のように獰猛であった。


 将門は几帳を吹き飛ばし、一足で五匹の鬼へと迫る。

 ――鬼達が振り向いた頃には、二尺ほどの刃が縦に横にと振るわれ、さい程の大きさに寸断される。

 五匹全てが土塊となったのを確認すると、太刀を納め、中宮に恭しく頭を下げる。


「滝口小次郎。帝の命により、中宮様と皇太子殿下をお守りに参りました」


 中宮は目を開き安堵し、泣きべそをかきながら中宮の腕に顔を埋めていた慶頼王は鼻をすすっていた。

 ただ一人、寛明だけは中宮の言いつけを守り。将門の荒々しい戦いを見ていた為か、じっと将門を見つめ続ける。

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