第52話クタシ
獣の
大猪は鼻息荒く、片足で土を
大猪の興奮の原因は明らかであった。
自らのように牙を持ち、四足で地を踏み締め、砕いていくモノではなく。――
立ち塞がる男は短い刀を口に咥え、肩幅より少し足を開け、膝を少しだけ曲げ、両手を胸の前で隙なく構えていた。
上半身を惜しみなく
――
その二本の牙を柔らかい肉に突き立て、ただの肉塊にせんと男に迫る大猪。
男は冷たい汗をかきながらも、一歩も引かずに
山野に響く衝突音。
その音の元から逃げるように鳥が羽根を残し、飛び立つ。
男は肉塊とならずに、二本の牙を押さえ、大猪の突進を押しとどめていた。
「ぐふー!」
男は口に
大猪はさらに四足で地を蹴り続け、男を押しつぶさんとする。
しかし、一瞬きの間に男の筋肉が
ゆっくりとであるが確実に、大猪の身体が持ち上がり始める。
――四足が空回りを始め。ただ空を蹴るのみとなる。
男は、そのまま大猪を真上に持ち上げながら口角を上げる。……持ち上げた大猪を地面に
一度ではなく、二度、三度、四度と。
大猪の四足は折れ曲がり、内臓が損傷したのか、口から血泡を噴き出している。
「今、楽にしてやる」
男は口の短刀を持ちながら手を合わせ。
動けなくなった大猪の首元を短刀で斬り裂く。
「うむ。……今日も
汗を拭い、快活に笑う。
その声は山野に良く響いていた。
男の名は
父親である、
「しかし。……でかいね」
あばら家の外で、
「おお! 大きいでしょう。この辺りの
振り向かずに大猪の解体を続ける貞盛の背を、稲は軽く叩く。
「なまっちょろかった、貞盛がこの一年でデカくなったもんだって言ってんだ」
山野を駆け回り、獣を狩り、そして食していた貞盛の身体は、将門の隣に並んでも見劣りしない程に鍛えられていた。
「ところで、貞盛。……都には帰らないのかい? 皆に都に帰って、出世の道を歩めと言われてるだろ」
貞盛は頭を掻く。
「……
「
皮を剥ぎ終わり、赤い肉が見える四足を丁寧に身体から取り外していく。
「都に帰らず。此方に残って、一族が争わずに済むように……説得して」
そこまで言いかけたところで、稲は強く貞盛の背を叩く。
「好きにしなさい」
その一言と貞盛の背に真っ赤な、季節外れの
貞盛は頬を掻き、溜息を吐きながら、大猪の解体を進める。
一族の長となった、
しかし、良兼の声に呼応した兵達は
「親戚に会いに来た。後生だ、通してくれ」
と、宣いながらも、武装したまま押し通っていく。
勇敢な関所の番人が押し留めようとするが、兵達の異様ともいえる気迫に気圧され押し黙り、頭を垂れてしまう。
誰もが、また戦さが始まる事を悟った。
集まった兵の前で良兼は神妙な面持ちで立つ。
「よくぞ!
声が遠くまで響く。
「これより我らは弟である、平良正の元へ、
集まった兵は皆、平良兼が
「
良兼の言葉に応じ、腕を上げ、雄叫びを上げる兵達。
「では、出陣!」
平良兼は一騎当千の兵を率い、隊列を組み、
平良兼の軍勢は北へと向かい、下総国
道中、予想された国庁による妨害も無く。
順調に進み、明朝には軍勢は水守営所へと到着した。
良兼は水守営所へと着くなり、外で野営の準備をするように軍勢に沙汰を下していた。
「良兼兄上! 御無沙汰しております!」
慌てた様子で営所内から飛び出してくる平良正。
「よい。……良正、此方は戦さの支度は出来ている。……そちらの支度はどうだ?」
平良正は、死ぬる前に会った平國香と同じように、顔色があまり良くない。
「はっ! もう一月の間に支度が整います」
報告を聞き、一先ず
「あいわかった。……では、それまで我らは水守営所の外で待とう。兵糧は頼んだぞ、此方の者にも運び出すのを手伝わせよう」
良正は勢いよく返事をし、水守営所へと戻って行く。
良正を見送った後に、良兼は信頼の置ける、四人の兵を呼ぶ。
「お前たち、兵糧を運ぶ手伝いの最中に抜け出し、中の様子を探ってこい。
良兼の、ひそりと呟くような声。
四人は「
「さて、これで痕跡の一つでも見つかれば良いが。……厳しいじゃろうな」
すでに過ぎ去りし事ではあるが……
恥じる事に良兼は平國香と直接に顔を合わしていても、化生の気配も痕跡も見抜けなかった。
もしかすれば、違和感を感じれなくするように、知らずのうちに術を掛けられていたのやも。と……独白しながら、水守営所を睨みつける。
「婿殿よ、将門よ。……やはり、都に助力を求めねばならんかもしれんぞ」
湿気た生温い風が吹き、良兼に纏わりつく。
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