第二百七話:それは捨てられない悪意の性



第二百七話:それは捨てられない悪意のさが




 微笑みを浮かべようとして――微笑みを浮かべたつもりでいて、その実ちっとも自身の表情筋が動いていないことに気が付いたのは、蜜蜂が怪物たちの襲来を確認してからほんの5分ほど経った頃だった。


「……」


 南風を孕んで身体にまとわりつく青地のマントを振り払いながら、蜜蜂はふと無骨な手を口元にやる。不精髭はざらりとしていて、唇は乾ききっていた。情報を拾うために開きっぱなしだった掲示板を表示する青いスクリーンを覗き込めば、そこには幽鬼のような男の顔がある。


 強張る頬には無理に微笑もうとしたせいで小さな皺が寄っていて、全体的に顔色は悪い。土気色とまではいかないがほんのりと青褪めた顔の中で、藍色の瞳だけが異様な光をたたえて鬼火のように光っていた。


「……」


 そのままするりと周囲を見渡せば、蜜蜂の周囲には誰もいない。いや、違う。蜜蜂自身が遠ざけたのだ。

 近くにいると巻き添えにしてしまうからと尤もらしいことを言い、古株も新参も俺から離れろ、と言い渡した。


 だから蜜蜂の周りには誰もいない。蜜蜂が適応称号スキルで操っていることになっているドラゴン――フェルトダンパと共に陣取る中央広場のど真ん中で、蜜蜂と優美な竜だけが敵の訪れを待っている。


 散らしたケダモノ共は街の各地に散るかと思いきや、どうやら蜜蜂渾身の演説が効きすぎてしまったらしい。

 自らの悪辣さにどういうしっぺ返しが来るかも知らず、彼らは死んだら何度でも蘇れば良いとでもいうように、無謀にもほとんどの人数がログノートの街の北部に集まっていた。


 出島のように海に突き出すこの街は、南部は当然として東部も西部も深い海に囲まれている。だからこそ、もしもダッカスから敵がやってくるとしたら街の北部に広がる大草原からか、トルニトロイの翼でから来るしかない。

 あるいは蜜蜂も知らぬ手段で以て、南の海からでも上がって来るか……。

 実際に、蜜蜂の願い通りに狛犬は真っ直ぐに丘を駆け上がって来てくれた。だが、蜜蜂のところまで一心不乱に突っ込んできてくれる様子でもない。


「――真上から俺に炎弾……はセリア君の性格的に無いなぁ。フェルトダンパのスキルで打ち消せるし……北部から来るなら丸見えだけど、どうだろうねぇ……」


 後は……と、残りのパターンを精査しながら、蜜蜂は疲れた顔で溜息をつく。かさついた唇が独り言でも慰めになるからと、どうにか言葉を吐き出そうとするが、出てくるのは言葉よりも重たい溜息ばかりだった。


「…………どうせ、セリア君は正面衝突なんかしないしねぇ。の狛犬君だってどうだか……流石に俺の所までは走って来ないだろうし……あぁ、つまらない。死にそうだ」


 溜息の代わりに、蜜蜂がようやく吐き出せたのはそんな言葉だ。


 あまりにもつまらなくて死にそうだ、と。遠く、街の北部の城砦跡地の上でのたうち回るギルドメンバー達を見下ろしながら蜜蜂は言う。


 一番遠くに見えるのは、古株のギーアだろうかと蜜蜂は藍色の瞳をすがめてみせる。青黒い髪をひるがえし、彼は悪魔どころか醜い亡霊のごとく顔を歪ませて笑っていた。その横顔に道徳など欠片も残っていないし、きっと思い出しすらもしないのだろう。


 その隣にいる男も、女も、誰も彼も変わらない。どいつもこいつも仮想世界の中とはいえ悪逆非道のクズばかりだ。

 それも当然。蜜蜂自身が、そういう奴らをわざわざのだから、そうでなくてはおかしいのだが。


「……」


 乾ききった唇を噛みしめれば、前歯がぷつりと薄皮を破る。滲む赤い血がみるみる溢れぽつりと優美な竜の頭に落ちていき、鉄錆臭い雫を嫌がってか、ぎゅるんと薄明竜フェルトダンパが巨大な目玉を上に向けた。


 深い濃紺の瞳が頭の上に立っている蜜蜂を睨み上げ、彼女は『ちょっとぉ……』と不満たっぷりの声で唸る。

 ベースは美しいソプラノ。だが機嫌の悪さからわずかに低いその声は、ゴロゴロと小さな唸り声と混ざり合うことで妙な迫力を出していた。


『アタシ、わざわざアナタの計画に乗ってあげたのよぉ? なのにその辛気臭い顔は何なのよ……今更あんな奴らを死なせることに、後悔でもしてるのかしら?』


「あはぁ……それは後悔してないよぉ。彼らは今日、ここで、惨めに死ぬンだ。死ぬべきだ――っていうものがどういうものかを思い出してから」


 足場にしている優美な竜に、問われて蜜蜂はそう返す。声には迷いも戸惑いも無く、ましてや後悔の色も無い。


 ロージーの一件を反省し、ついでに手広くも兼ねてケダモノ共をひとまとめにし、より大きな力に上から叩き潰してもらう場を整えたことに後悔は無い。


『なら何の溜息よ。言っとくけどアタシ、トロイの坊やと遊ぶのなんか嫌よぉ?』


 あの子、ネロみたいにかっこよくないしぃ、おこちゃまだしぃ、とふすふすと小さく鼻を鳴らしながら、オパールのように淡い七色に輝くフェルトダンパが言い募る。


「だぁいじょうぶだよ、薄明竜様。俺らの取り決めはシンプルに。君は此処を動かない。誰にも、何にも加勢しないで、置物のフリをしてくれる――そぉだろぉ?」


『――アタシね、アンタのその喋り方が嫌いよ。曖昧で、気持ちの悪い生き方も。だから絶対に背中には乗せてあげない……でも、まあそうね。契約は契約だもの。アタシは此処を動かない』


 それでいいのよね? とフェルトダンパは身震いと共に言い、そして静かに息を吐いて沈黙した。巨大な瞳は閉じられ、置物のフリに戻った竜はもう蜜蜂と言葉を交わす気は無いようだった。

 蜜蜂は疲れた顔のまま視線を前に戻し、ふと視線の先で顔見知りの女性――クオンと目が合って苦笑する。


 どうやら彼女は蜜蜂の思惑をいち早く察したらしい。苦笑と共にお詫びのメッセージを送りながら、賠償金でも用意しようかと蜜蜂は静かに首を傾ける――が、考え込んでいる間に彼女は巨大な深紅の竜の影に呑まれてしまった。


 蜜蜂の視線の先、真上から急降下してきたトルニトロイは、とんでもない勢いで城壁跡に後脚をめり込ませ荒っぽい着地をこなす。石造りのそれを破砕しながら、周囲に炎弾を吐き散らしている様は、まさしく襲来するドラゴンといったところだ。


 ただでさえ謎の存在によって烏合の衆と化していた彼らは、これで完全に瓦解したようだった。さてここから一体、何人が教会より戻って来ることが出来るだろうか。


 心が折れてしまえばバフもデバフも関係ない。わざわざ戦線に戻るのは一割にも満たないだろうと蜜蜂は思い、そしてそれは事実だった。

 フェルトダンパの頭の上。他より高く、広くなった視界で見下ろせば教会から這い出てくる者は数少ない。


 ゾンビのようにふらつく彼らは、二度目の痛みも受け入れることが出来るだろうか。それがもし三度目なら? 四度目、五度目はどうだろうか。何回までなら割り切れるだろう。


(ありゃ……クオンちゃん、生き残ったかな?)


 遠く、視界の端でピンク色の髪が閃いたような気がして、それとなく周囲を警戒し続けていた蜜蜂の意識がほんのわずかにそちらにズレた。

 蜜蜂から見て、トルニトロイは間違いなくクオンの真上に襲来した。あの状況から生還を果たしたとすれば、とんでもない悪運と、類まれなプレイヤースキルの賜物たまものだろう。


「――流石だ。ああ、悪いことしちゃったからねぇ……さて、どう詫びたものか……」


 乾ききり、噛みしめたせいで血の滲む唇から素直な感嘆と罪悪感が言葉になった。蜜蜂自身でも無意識だった。誰に聞かせるつもりもなく、誰の返事も想定していなかった。


「へぇ……詫びって誰にっスか?」


「そりゃ、巻き込んじゃったクオンちゃんに――」


 だからこそ、泡が浮かぶように溢れた声に、静かな合いの手が入れられても、すぐには誰が返事をしたのか分からなかった。

 分からなかったどころか、うっかりそのまま返事をしかけた。足場にされていたフェルトダンパが、戦いの場で気を抜いた間抜けを見物するためにゆっくりと薄眼を開く。


 濃い紺色の瞳に映るのは、驚きに目を見開く大柄な男――蜜蜂と、フェルトダンパの右前脚の爪の先で、静かに佇む黒ずくめの男――セリアの姿だ。


 蜜蜂は驚きに息を詰め、セリアはその様子にシニカルに笑って鼻を鳴らす。


「何を驚いてんだか知らねぇっスけど――俺の推測通りなら、大人しく死んでくれる可能性はあんのかな?」


「――」


 顔は笑っているが目は笑っていないセリアに問われ、蜜蜂は顎を引いて黙り込む。背は高いが、細身で筋肉の薄いセリアは見た目だけなら随分と柔な優男だ。


 対して、蜜蜂の身長は2メートル超え。着痩せする性質たちゆえにパッと見は分かりづらいが、全身にバランスよくつけられた筋肉は分厚い岩盤に似ている。


 背筋をまっすぐ伸ばして立っているだけでヒグマのような圧迫感があるが、蜜蜂はいつもそれを嫌って猫背がちの男だった。

 だが今は普段のそれ以上に背を丸め、半分はばつが悪そうに。もう半分は驚きを隠せないまま、武器すら手に取ることなく呻くように蜜蜂は言う。


「……そうすべきだ、とは思っていたよ」


 そうするべきだと思っていた――過去形を交えた含みのある蜜蜂の返答に、セリアは嫌そうに唇を曲げる。

 黒灰色の瞳は胡乱げに、薄眼を開けた竜とその頭上にいる蜜蜂を見やる。楽をしたけりゃ声をかけるべきじゃなかったな……と、諦めたように彼が言えば、蜜蜂もそれに同意する。


 太い喉から溢れるのは、飢えた獣のような声だ。元よりの猫背をさらに曲げ、跳躍寸前の獣のように身を丸めた蜜蜂は、押し殺した声で自身の心情を吐露とろしていく。


「――ずっと、ずっとずっとずっと退屈だった。身から出た錆? そうだ。その通り。俺が全部悪い。だから責任を取った。取っている。でもさ、でもだよ」


 でも、と大男が唸りを上げる。薄く発光する双剣の柄に手をかけて、男は獰猛な笑みと共に吐き零す。



 ――やっぱり俺は、善人ではないんだ、と。言った瞬間、彼は動いた。



「まともに戦ってくれるとは思ってなかったさァ! だけど来てくれたンなら、我慢する必要もないンじゃないかなァ!?」


 虹色に輝くフェルトダンパの頭を足場に、蜜蜂は双剣を抜き放ちながら弾丸のように走り出す。竜の太い首を蹴り、肩を蹴り、目指すは前脚の先でうんざりとした様子で溜息をつく優男だ。


 白く繊細な面貌には髪と同色の鱗が浮かんでいて、その瞳には竜のように縦長の瞳孔が浮かんでいる。冷たく細められたその瞳には、喜色を抑えきれない蜜蜂が映り込んでいた。

 金属質に光る黒灰色の虹彩に映り込む蜜蜂が、発光する双剣を振り上げる。腕を交差し、肩の筋肉を限界まで軋ませて放たれる――必殺の一撃。


 過去数か月に渡り、多くの被害者が最期に目にした光景だ。悪魔じみた笑みと共に、数瞬後には首と胴体が切り離され――実際には飛ばないが――首が飛んだという即死判定がかかって被害者は一瞬で地に伏すことになる。


 けれども、ここで簡単に死ぬようなプレイヤーでは、世界警察ヴァルカンでトップは名乗れない。


「罪状――正当な理由の無き他プレイヤーの殺害、強盗、暴行、犯罪教唆。及び多人数を組織した悪質なPKギルドの運営。並びに世界警察ヴァルカン幹部への直接攻撃」


 必殺の一撃を前にして、その男は片手を上げる――まるで、挨拶でもするかのような動きで軽やかに。


「以上の罪を以てして指定犯罪者と見做みなし――」


 上げられたのは、黒い革手袋に覆われた右手が一本。揃えた指先が翻り、指を鳴らせばそれは

 交差する対の剣を受け止めたのは、鋼鉄系の魔法【デミット】。範囲内に鋼の塊を生成するそれが無詠唱で現れ、甲高い音を立てながら二対の牙をせき止め――世界警察ヴァルカン最高戦力は静かな声で沙汰を下す。



「指名手配犯〝蜜蜂〟――『世界警察ヴァルカン:ユウリノ』として、討伐する」


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