第百九十一話:踊るザイーツ・溺れるクローリクⅡ
じわじわと、足元から溢れてくる水の流れを見下ろして、雪花は深い溜息をついていた。ワワルネックが
今はまだ、薄く床に広がるだけの水。濁流でもない、奔流でもない、ただただ静かに、滔々と。透明な水は何にも混じらず広がっていく。
床を浸し、階段から階下へと流れ、地に吸われることなく広がっていく魔法由来の水もどき。けれど、性質自体は同じもの。それでいい。だからこそ扱える。だからこそ、意味がある。
まだ誰もそれを脅威には思っていない中、水は湧き出る。こんこんと。雪花は
水が溢れる。止まらない。街を覆いつくさんと縁を目指し、水はゆっくりと広がっていく。
その様子を眺めながら、雪花はふと昔聞いた、ある格言のことを思い出す。
――……思うに、人は誰も彼もが溺れているのだ。
欲に溺れ、悪に溺れ――人は信念も持たぬまま、容易く悪逆をなす生き物なのだ。だから人だけが、魔女と契約して
彼らは明確な信念を持たない。正しく言えば、明確な信念を持つ者は少ない。たかだか数十年、あるいは数年生きただけでも考えを変え、ころころとその言動は変化していく。
ゆえに、信念無く善悪を振りかざす者――それが人間と悪魔なのだと。人外はよく人間をそう決めつけたがる。
けれど、悔しいかな、そうではないのだ。それだけでは終わらないのだ。定義づけて、納得して、それで終わりの話ではない。
此処は、人と人外とが入り混じって暮らす世界なのだ。衝突もあるだろうが、人間なんてそんなものだと投げ捨ててしまっていい話ではない。
だが、同時に雪花は思う。やはり人間とは、そういう存在なのではないか、と。
榊のことだってそうだ。彼女は溺れている。欲に溺れ、悪逆に溺れ、そうしてその結果、雪花が大切に思う狛乃が傷ついている。
哀れむ気持ちがないわけではない。溺れる飼い兎。惨めで救いようがない行いの結末に、狛乃さえ絡んでいなければ――雪花も純粋に、榊を憐れむだけだっただろう。
……自分の大切なものを人間に踏み
ソロモンで、雪花はそういう話を何度も聞いた。
人外、その他が入り混じる。混沌を極めた地下世界では、人と人外は一見共に歩んでいるような気がするが、実際にはそうではない。
――踊る
一見、意味がわからないその格言の意味を、雪花が知ったのはソロモンでの初仕事の日。依頼受付のカウンターで、黒豹の魔獣にこう聞かれたのがきっかけだった。
『よう、坊主。小せぇなぁ……お前、人間か?』
初めてのソロモン、初めての仕事。まだ年若かった雪花にとって、何もかもが初めての体験だった中。日本語で喋る黒豹の魔獣というものを見て、ただそのぴこぴこと動く耳と尻尾をガン見するばかりだった雪花は、その問いに答えられなかった。
――人間だ、と。
雪花は自分のことをそう思っていた。けれど雪花は、優し気に金色の目を細める黒豹の考えを、〈発見〉してしまっていた。自分は人間だと言えば、きっとこの黒豹は二度と雪花と口を聞いてくれないだろうとわかってしまった。
それゆえに黙ってしまった雪花の代わりに、答えたのは雪花の師匠だった。
『こいつは魔術師だ』
短く、低い声でそう言いながら、師匠は手荒に雪花の髪をぐしゃぐしゃにした。師匠の顔を見て、それから雪花が小さな声で師匠、と呼んだのを見比べて、黒豹は驚いたようだった。
『
『ああ゛? あー……まあな。ソコルの野郎よか全然まともだな。名前は雪花だ、顔覚えといてやってくれ』
嫌そうな顔でソコルという名の兄弟子を引き合いに出し、黒豹と師匠は頷き合った。そのまま黒豹はそれなら、と言い、雪花に1枚のコインを渡してくれる。
『魔術師は
ようこそ、ソロモンへ、と。獣の顔でも微笑んだとわかる動きで、黒豹は雪花に優しくそう言った。よろしくお願いします、とか細い声で言えば、黒豹はこりゃ確かにあの
そのすぐ後だ。雪花は師匠に聞いたのだ。
『
師匠はちらり、と雪花を見下ろして、『善行だろうが悪行だろうが、テメェの信念を曲げられない――人外野郎をそう呼ぶんだ』とそっけなく言った。『対の言葉は
師匠は言う――踊るザイーツ・溺れるクローリク。もはや真の意味はわからないが、端的に言えば善でも悪でも、信念に基づき行動する人外と、何事にも信念無く行動する人間、悪魔の
勿論、人間にだってたまには
『人外はな、信念があるっつーより、信念に従ってしか動けねぇんだ。テメェの信じたことのためにしか生きられない。信念ってもんに踊らされてるような死に方をする奴も多い。人間はもっとこう……ファジーだよな。曖昧だ。奴ら、思いも覚悟もふわっふわしてっから、溺れるなんて言われるんだろ。馬鹿にしてるんだよ、揶揄だ、揶揄。でもな――』
――自嘲もまた
『踊らされてる人外と、何かにつけて溺れちまう人間と――まあ、どっちもどっちだ。ただ、忘れんなよ雪花。人外だろうが、人間だろうが……何か困ったらな、感情で動くとろくな目にあわねぇぞ』
どれだけ
鋼のような銀色の瞳を細め、お気に入りのライフルを担ぎ直しながら雪花をひょいと振り返り、
『忘れんなよ、雪花』
師匠――
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「……忘れてませんよ」
思い出の中でさえ、師匠は雪花に釘をさす。
――感情のままに動くんじゃない、ただ目的のために行動しろ。
ソロモンで力を得たかった雪花が、魔術を使い自力で見つけ出した師匠だった。まるで氷雪に棲まう
その師匠から教えられた大切なものを、雪花もまた覚えている。忘れんなよ、と言った声に含まれた、優しさと厳しさの〈色〉も忘れていない。
だからこそ――雪花は道を間違えない。
『マスター――指定範囲、覆ったよ』
いつでもいける、とワワルネックは言い、雪花は静かに命令を下す。
「なら、やれ。――街ごと全部、水没させろ」
全ては、大切なものを守るために。
第百九十一話:踊る
被害は考えなくていい――その言葉を決定打にし、ワワルネックは動き出す。
水で出来た身体に新緑の蔦で即席の鞍を作り、そこに雪花を乗せてワワルネックは『
真夜中のダッカス――。冷たい大気に滲む幻月の下、海風がごうごうと吹き荒れる海辺の街。日々の静けさは切り伏せられ、今や喧騒と怒号、悲鳴と喝采の渦で満ちていた。
事情も知らずに野次馬達が騒ぎ出す――もっと派手に暴れろと喝采の声を受けるは、狛犬のサブアバター、
月光に輝く螺旋の角。深紅の瞳は見開かれ、巨大な牙は絶叫と共に夜空を噛み潰さんと幾度も天に向かって振り上げられている。全身のシルエットは巨大な狼――けれどその尾は巨大で長く、巻き角も相まって、誰がどう見たってただの狼ではありえない。
「――――ッ、狛乃っ」
聞く者がいないと知っていて、雪花の喉から悲痛な声で狛犬の本名が零れ落ちる。けれど叫んでも意味が無い。名を呼んでも聞こえるような状態ではない。
そも、今の狛乃に必要なのは――慰めでも、励ましでもない。
主人の悲痛な声を聞きながら、風を切り裂きワワルネックが夜空を駆ける。
眼下にレンガ造りの家々と、野次馬に来たプレイヤー達の姿を見据えながら、水冷系精霊王――『
『水位は?』
「ボスが呼吸できるように、ただ
ダッカス全域を水没させる目的はただ1つ。狛乃を落ち着かせてやるためだ。
混乱渦巻くこの状況で、ただ下がってくれと言われて下がるプレイヤーはいない。野次馬は
だが、それではいつまで経っても狛乃が落ち着けない。武器を見れば躍起になって暴れる相手に、雰囲気に酔った野次馬達は最悪の効果をもたらす。それに首を絞められた感触も、水で埋めてやれば少しは和らぐ可能性があると雪花はふんでいた。
「それに、あの状態のボスと戦うなら動きを鈍らせないと……」
雪花は、狛乃が錯乱した原因には見当がついている。昨日の夜、魔法使い法定監査部で、片付けるはずが散らかした罪でソロモン王に3時間ほど吊るされた時、雪花はセリアから狛乃の過去を教えられていた。
狛乃が抱える忌まわしい過去。目が覚めた時、本人が錯乱していたらしくそれはひどく断片的な情報だったが、それでもセリアは教えてくれた。
セリアは嫌な奴だ。手も早いし軽薄だし、おまけに性格がいけ好かない。けれど、彼は彼なりの信念を持っている。そしてその信念に基づいて、彼は雪花にこう告げた。
『アンタがそんなに狛乃にご執心ならぁ? 知っといた方が良いと思うんで言いますケド――』
…………本当に腹の立つ言い方だった。けれどその内容には価値があった。おかげで雪花は今、狛乃を助けるための行動に迷わずに済んでいる。
「……礼を……いややっぱいいわ。やめよう。死ね、セリア。あのクズ野郎……ッ」
ふ、と微笑みと共に礼をした方がいいかな、という思いが頭をよぎるが、セリアの顔を思い浮かべたらあっという間にそんな気持ちは流れて消えた。それにそんなことよりも、今はやるべきことがある。
『マスター――……【共同詠唱】』
「……ああ」
ワワルネックに言われ、雪花が柑子の瞳を緩く伏せる。頭上には幻月、眼下には黒の狼が荒れ狂う塩の街。
緩く薄い水面で満たされた四方半里の箱庭を、湖に見立てることで雪花はダッカスを透明な水槽に仕立て上げていた。
「〝――……此処は水の底 氷原に落ちる青の湖〟」
『〝冷たき流れに満ちる場所 骨身の沈む
そして、彼らは言う。此処は水の底。精霊王ワワルネックの、骨も身も沈めてみせた冷たき湖の底であるのだと。
「〝声に応えよ 叫びを聞け 水底に沈む者の遠吠えを〟――」
『〝孤独の声を聞き届けよ 遠く微かな掠れ声を〟――』
声に――正しく応えるように。街全体に薄く張られた水面がざわめいた。ゆらゆらと青く
『〝水の原色たる我が
「〝花を供えよ 地を満たせ〟――ッ」
夜空に浮かぶ水冷系精霊王――その背の上で、雪花は吼えた。
「〝契約精霊の名の下に 全てを沈めろ〟――【
そして――……ダッカスが沈みだす。
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