第百九十話:走れ、信念のためだけに



第百九十話:走れ、信念のためだけに




 一説によると、攻撃とは恐怖の裏返しであるのだという。


 振り上げられた手に叩かれる様を想像し、痛みへの恐怖に牙を剥く。批判を受け、自身を否定される恐怖に反駁はんばくする。


 肉体的にも、精神的にも。生き物とは攻撃を受けそうになれば恐怖する。そして、攻撃される前に攻撃するのだとその説はいう。


 ある意味では、その説も間違いというわけではないのだろう。現に、今この瞬間。〝塩の街、ダッカス〟で暴れ回る黒い狼は、あらゆることに恐怖を抱き、それゆえに辺りに破壊を撒き散らしていた。


 事情を知らない者は武器を構え、獣はその鈍い光を見るだけで狂乱に拍車をかける。自身の首を何度も壁に、地面に、尖塔に叩きつけながらも。街のどこかで、見える範囲に鋼が抜かれる気配があれば、黒の狼は迷いなくそれを叩き潰した。


 腕を振り下ろすだけで鉄槌めいた攻撃となるのは、偏にその身体が巨大だからだ。家数軒分の体長に、3階建てと同じ体高。アビリティレベルは148――竜種を除いたログノート大陸のボスモンスターの平均レベルが150とくれば、それがどれだけの脅威かわかるだろう。



 ――キュォォオオオオオオオオンン!!



 巨狼は暴れながらも悲鳴を上げる。言葉にならない声で叫びながら、執拗に自身の首を何かしらに叩きつける。空を裂くような絶叫と共に繰り返されるその行為が、何を意味しているのかを――自身の掲示板を眺めていたがゆえに誰よりも早く気が付いた者は、絶句していた。


「狛犬君――ッ」


 教会の前。ギリギリセーフティーエリアに含まれる地に立って、焦りと哀れみにやるせない声を上げたのは、銀髪銀瞳ぎんとうの初老の男だった。


 プレイヤーネームは〝ポム〟。小さな考察ギルド〝あんぐら友の会〟のギルドマスターをやっている男だ。


 あまり知られていないことだが、狛犬とポムはフレンド同士だ。彼はかつて、竜爪草原でギルドメンバーが契約しかけていたモンスターを質に取られ、PKギルドに脅されていた事件で、狛犬に助けられたことがある。


 ギルドマスターなのに戦闘はからっきしな自分を不甲斐ないと嘆くポムに、あの日、狛犬はこう言った。〝リーダーに必要なのは、力じゃない。あなたはギルドメンバーに諦めろとは言わなかったし、仲間のためならとクズ共の要求を飲んだ。だから自分は助けたんです〟と。


 ポムは今でも、あの日のことを覚えている。PKギルドの要求を飲み、大金を払い、苦労して得た特殊武器も差し出して――それでもなお約束は守られなかった。


 必死に叫ぶギルドメンバーの隣で、無力を噛みしめるばかりだった自分の目の前で。要求を飲んだのに、遊び半分で殺されようとしていたモンスターを、狛犬は目にもとまらぬ速さで助け出した。


 力があった、だから助けた。それだけのことだったなら、ポムはその日、狛犬に礼をするだけで関係を終えていただろう。


 でも違った。狛犬には狛犬の信念があり、それゆえにポムは助けられた。それは狛犬にとっては当然のことで、恩を着せて誇る様子もなく、自身の行いを触れ回ることもなかった。


 だからポムは、狛犬にフレンド登録を申し込んだのだ。



「――……正気じゃない、誰か……そうだ、雪花君とルドルフ君がいるはず!」


 縋るような思いで、『世界警察ヴァルカン』ダッカス支部にいるはずの雪花とルドルフを探して走り出す。

 危険はあった。世界警察ヴァルカンの職員は街がこんな事態になっていても、ゾンビアタックの手を止めることは無い。


 それだけが存在意義、ゲーム内なのに――いいや、ゲーム内だからこそ。代表に命じられたことのみを遂行する、MMO廃人という名の歪な猟犬達。


 見覚えのない巨大モンスターは襲撃者の手先かもしれない、くらいにしか考えず、彼らは何度でもダッカスの教会に死に戻り、何度でも自身の職場に向かって走っていく。


 そんな歪な猟犬の群れに混じり、世界警察ヴァルカン目指して踏み込めば、運が悪ければ流れ弾で伝えたいことも伝えられずに死ぬだろう。そしてその分だけ、狛犬の苦しみが続くのだ。


 きっと、『世界警察ヴァルカン』の内部でゾンビアタックに対応し続けている限り、誰かが伝えなければ雪花もルドルフも、狛犬の異変に気が付けない。


 彼らは外の騒ぎを聞きつけても、目的のために持ち場を離れたりはしない。世界警察ヴァルカンに窓など無く、正義の根城に開いた穴からは、ちょうど狛犬の姿は見えない位置にいる。


 着の身着のまま――高価な装備は解除していない。特殊武器も装備したまま。自身の掲示板の危険レベルがポムの頭をよぎるが、走り出した彼の足は止まらない。


 明確な理由など無い。ただ、ポムは己が信じるもののためだけに走っていた。

 2軒隣の世界警察ヴァルカンは、プレイヤースキルに自信が無いポムにとっては、果てしないまでに近くて遠い。


「ッッ……!」


 短く、遠い道のりの中で――思い出すのは掲示板に上げられた榊の動画。それを見て、走り出した時の自分だった。


 ――……少なからず狛犬に恩義を感じているポムが、自身の掲示板に上げられた動画を見て、慌てて教会の外に走り出るのは当然の流れだ。動画の中で、幾度も尾を切り落とされ、その手で絞め殺されているフレンドを見て、血の気の引かない者がいるだろうか。


 混乱を引きずったまま教会から飛び出して、ポムが目にしたのは巨大な狼に似た獣だった。硬く、重そうな螺旋の角を支える首の筋肉は隆々として、けれどその太い首は鈍い音を立てて何度も家屋や大岩に叩きつけられている。


 首を絞められる感触が消えず、それを嫌がって錯乱状態になっているのは明らかだった。


 明らかに、運営の不祥事だ。ゲーム内での諍いに、性暴力以外にはGMゲームマスターを出動させないという運営の強硬な姿勢が、こんな事態を引き起こしたに違いない。


 けれど同時に、運営が責任を投げ出しきっているわけではないこともポムには分かっていた。

 ゲーム内での問題にしたくないのならば、強制ログアウトという手もあったはずだ。あるいは、此処ではない何処か。何も無い場所に移動させることなど、仮想世界では容易いこと。


 けれど、それをしないのは狛犬の精神保護をある程度は優先しているからだ。明らかに異常な精神状態で、現実世界に放りだす方が危険だということは――悲しいかな、他のMMOサービスで実証されてしまっている。


 〝ホール〟の自動通報機能のおかげで警察の到着が間に合い、自殺未遂に終わった事件ではあったが、ポムは今回の件でそれをやるのは、もっと危険だと知っていた。


(狛犬君がだとしても――錯乱した人外を、運営が現実世界に帰すはずがない――ッ)


 100名の人外による、異例のテストプレイ。そう、テストプレイヤー7番――プレイヤー名〝ポム〟もまた、人間とは違う種族だ。

 テストプレイ1日目。この世界に足を踏み入れた時から、彼は周りの人外率の異常さに気が付いていた。


 ゆえに、彼は狛犬が人外であると断定してそう思う。錯乱した人外を現実世界に放りだせば、自宅周辺で何人死ぬか分かったものではない。

 だからこそ、狛犬の精神が元に戻るまで、運営は決してログアウトなどさせないだろう。


「だとしても――場所を選ぶべきだろうに――ッッ!」


 何もこの街で、これだけの力を与えることは無いだろうに、と。氷の弾丸という流れ弾をしゃがんで躱しながらポムは思い、いいや、とすぐにその考えを打ち消した。


 だからこそ、だ。運営はどこまでも、ゲーム内での問題はゲーム内で解決させようとしているのだ。GMが出動するのは性犯罪のみで、それ以外の問題はすべて自力解決せよと。どれだけ苦情がこようとも、此処はそういう世界だと。そのための力を狛犬には与えたからと、そう言っているのと同じなのだと――。


 改めてその悪辣さを理解して、ポムはこんなゲームにはまってしまった自身を呪う。でも、面白いんだもの――と心の内で言い訳をして、たるんだ根性を引き締め直す。


(根性入れろ――ッ)


 一応まだソロモンでだって、現役で仕事が出来るだろうと。人外として、なけなしの矜持を胸に、流れ弾を躱し、いなし、走り続ける。

 『世界警察ヴァルカン、ユウリノ』ダッカス支部。玄関はすでに歪んで役に立たなくなっている。目指すは3階建ての横腹に、大きく開いた唯一の出入り口。タイミングよくそこにいた職員を盾にしながら、ポムはどうにかそこに滑り込み――、


「雪花君! 僕だ、ポムだ! 聞いてくれ!」


「【ジエロ】!! ――……ポムさん?」


 案の定。踏み込んできたプレイヤーは皆殺し――というスタンスで攻撃を繰り返していた雪花は、ポムが咄嗟に盾にした職員を迷いなく氷の初期魔術で凍結させていた。少し離れた所でルドルフが、見てからりなよ! と叫んでいる。


 限定範囲魔術によって一瞬で凍てつき、動きを止める哀れな職員を投げ捨てながら、ポムはどうにかこうにか上げかけた悲鳴を呑み込んでいた。


 水の精霊王が不思議そうにポムの顔を覗き込み、ポムは曖昧な微笑みで小さく手を振り、それに返す。それから鼓動を抑えるように胸に手を当てながら、ポムは息も絶え絶え、必死になって異常事態を訴えた。


「狛犬君が、大変なんだ……ッ! 『世界警察ヴァルカン』所属の榊に、リスポーン機能を悪用されて何度も殺されたせいで、錯乱してるっ」


 字面を見ると、何ともむごい事件だと。ポムは心の内で思いながらも、状況を察したルドルフが1人でゾンビアタックに対処してくれているのを良いことに、ぴたりと動きを止めた雪花に急ぎ足で状況を説明していく。


 自身の掲示板に上げられた動画の内容、何度も首を絞められて殺されたこと、その感触を嫌がるように、今も悲鳴を上げながら首をあちらこちらに打ち付けていること――。


 そして最後に……外にいるのが――と言いかけて、雪花を振り返ったポムは、胃が縮むような思いで口を閉ざした。


 無表情。


 恐ろしいまでに感情の欠落した顔の中、柑子こうじの瞳だけが異様な色合いを見せていた。


 雪花はそのまま歩き出す。無言のまま、歩みは疾走となり、慌てて追いかけるポムと共に、『世界警察ヴァルカン』の2、3階部分に駆け上がる。


 床に倒れるリリアンを見て、雪花はすぐに膝をつき、細い喉を貫いているナイフを引き抜いて投げ捨てた。そのままいつ取り出したのか、小さな純晶石をリリアンの口にそっと押し込む。


 純晶石――【あんぐら】では、HPポーションとしても扱われるそれを飲みこみ、リリアンの喉に開いた穴が消えて行く。

 咳き込み、喉に溜まった血塊を吐き出しながら起き上ろうともがくリリアンの背を支え、雪花は手短に彼女に問う。


「リリアン――ボスは何て言ってる?」


 【魔獣語】スキルを持たない雪花は、今の狛犬の叫びを、悲鳴を。聞き届けることは出来ない。だから知りたい、と雪花は言い、リリアンは必死に雪花の腕を掴み、喉の違和感に眉をひそめ、咳き込みながらこう言った。



「ずっと……叫んでるっ」



 ――……こわい、こわいよぅ。くびがきたない――きたない、きたない――たすけてよぉ!



「さっきからずっと……っ、そうやって叫んでるの!」



 ねえ、お願いっ。狛犬君を助けてあげて! と。リリアンは必死になって雪花に言う。無様に床に倒れながら、リリアンだけはずっと狛犬の悲鳴を聞いていた。



 こわいよぅ、と子供の様に泣く声を聞いた――けれど身体は動かない。



 たすけてよぉ! と叫ぶ声を何度も聞いた――けれど、呻き声一つ上げられない。



 ほんの少しの油断だった。けれど、その結果はあまりに酷い。確かに、前から榊の様子はおかしかった。独断で〝どどんが〟との交渉に赴き、人目の多い所で醜態を晒し、それを冷たく大ボスにたしなめられたあの日から――ずっと、榊はおかしかった。


 元々、気の短い性格だったが、まさかこんな、ここまで……こんなこと、と呻くリリアンに、雪花は凍えた声で囁いた。



「――……人間ってのは、そういうもんですよ」



 あまりの声の冷たさに、ハッとしたリリアンが顔を上げる前に。雪花はポムのことを振り返り、考えがある――リリアンを連れてから脱出してくれ、と彼に告げる。


 ポムは真っ青な顔で頷いて、リリアンを抱き上げた。人生初のお姫様抱っこに恥ずかしがる余裕もなく、街に響き渡る狛犬の悲鳴に耳を塞ぎながら、彼女はそのまま運ばれていく。


 天井近くに開いた穴から、ポムがリリアンを連れて脱出したのを見届けて、雪花は深い溜息をついた。水の精霊王――ワワルネックがするりと雪花を囲うように宙を泳ぎ、主人と同じ、深い吐息をつく。


「ワワルネック――……」


『うん』


 透明な声でワワルネックは頷いて、雪花はただ無造作に立ったまま、じっと狛犬の悲鳴に耳を傾ける。瞳を伏せて、彼は言う。



「この街――



 うん――マスターの望むままに、と。



 『溺死させる者ワワルネック』は囁いた。




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