第百八十話・半:あの日、君がいたから〈the first volume〉
掃き出し窓からフローリングの床に向けて、木漏れ日の吹き込む午後だった。
冷たい床に膝を抱えて、
丸く、明るく、きらきらと。冬の芸術をただ見ていた。
フローリングに踊る木漏れ日の影。揺れる枝葉に連動し、さらさらと
昨日までなら、自然とスケッチブックに手が伸びたはずの光景だった。
美しいものを〈発見〉した――と。喜び勇んで、白い頬を薔薇色に染めて、鉛筆を片手に飽きもせずに、その光景を写し取っていたはずだった。
けれど彼は動かない。小さな腕にぎゅっとスケッチブックを抱きしめたまま、睨むように木漏れ日を見つめている。
膝を抱えて座り込む彼に、背後から近付く影があった。大人の男――癖のある黒髪を、寝癖で好き放題に跳ねさせた、爽やかそうな見た目の優男。
「おう、雪花! どーした? 今日は出かけねぇの? 父ちゃんは出かけるぞー。何てったってな、もう少しでお前に美人ママが出来るんだからな!」
優男――雪花の父親は、床に座り込む雪花の髪をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でながらそう言った。彼は雪花の抱えるスケッチブックに目を留めて、なんだぁ、雪花――毎日描かなきゃ下手くそも直んないぞぉ、と言いつのる。
雪花は膝を抱えたまま、わずらわしそうに父親をちらりと見た。
「……下手くそは何年かいても下手くそだって言った」
「そんなこと言ったっけか? まあ、そうかもな! だってそんなもんいくら描いたってなー。絵描きは稼ぎが悪いわりに、金がかかるんだぞー? 絵の具とか、紙とかなぁ」
「高い絵の具が欲しいなんて言ってない!」
「またまたぁ、物欲しそうに見てたくせに~。だから買ってやったろー? なんかすげぇ……えーと、100色くらい入ってるやつ。昨日は喜んでたじゃねぇか、あれどうした? せっかく買ったんだし、色塗りしないのか?」
「……するけど」
「けどなんだ。ダメだぞ雪花、物を無駄にしちゃ。あの絵の具、大切にしろよ?」
「……うん」
父親にそう言われ、雪花は素直に頷いた。絵の具は欲しかったし、買ってもらえたこと自体は嬉しかったから。雪花の父親はいつも、雪花が欲しい物を買ってくれる時に、金に糸目を付けない人だった。
けれど、彼は未だに忘れられない。昨日、父親に。少年に言われた言葉が、何度も何度も頭の中で反響し、呪いのように彼の心を凍り付かせていた。
――〝そりゃ――お前、子供のお絵描きなんだから下手くそだろ?〟
――〝下手くそは何年描いても下手くそだぞ〟
父親の口から放たれた、悪気の無い言葉たち。幼い雪花にも、父親がわざとそんなことを言ったわけではないことはわかっている。わかっているからこそ、どうにもならない。胸の奥でもやつく気持ちが晴れることは無い。
悪気はない。ただ、思いやりも無い。だが、子への愛が無いわけでもない。
雪花の父親は雪花が物心ついたころからそうであったし、多分きっと、これからもそうだろう。数か月前に家に来た父親の知り合いの、「悪い人じゃあないんだけどなぁ……ちょっとデリカシーが無いんだよなぁ」という呟きが全てを物語っている。正直、雪花もそう思った。
父親は呑気に大口を開けて欠伸をしている。床で膝を抱える息子の恨めし気な視線に気が付くことはなく、彼はすでに息子への興味を失っていた。
どすどす、と大雑把な歩き方。洗面所に向かっていった後ろ姿の浮かれ具合と、先程の父親の台詞から、雪花は継母との同居も近い、と睨んでいた。
正直、誰でもいいと思った。まさか父親よりも酷い女が来るはずはない。あれであの父親は、どうにも昔から〝悪い女〟には入れ込まないのだ。不思議なことに。
だが、継母を喜んで迎える気にもなれない雪花としては、複雑な気持ちだった。母親というものが、どんなものか想像がつかない。
「……」
もやもやする心を晴らそうとして、雪花は無意識にスケッチブックを開く。鉛筆を手に取って、白紙の画用紙に向き合った直後――手がぴくりとも動かないことに、雪花はショックを受けて固まった。
昨日まで、何も考えずとも自由に動いた手が動かない。代わりに浮かんでくるのは父親と、あの少年の――、
「――ッ、出かけてくる!」
スケッチブックも、鉛筆も、その場に全部投げ出して、雪花は逃げた。明確な理由は無い。ただ何となく、父親の近くにいたくなくて、無我夢中で廊下を走って玄関扉にかじりつく。履き古した運動靴をつっかけて、踵の部分を踏み潰しながら扉を開けた。
季節は真冬だ。玄関扉を開けた瞬間、冷たい空気が息せき切って家の中に流れ込む。雪花の服装は薄手の長袖パーカーに、茶色の長ズボンという簡素なもの。温かい家の中では快適でも、外に出るとなれば話は違う。
けれど、雪花は寒さを感じる前に家を出ていた。わけのわからない憤りと、焦りと興奮で火照る身体では、寒さなんか気にならない。
広い庭を駆け抜け、アスファルト敷きの道路に出る。
人影のない直線道路。数歩、迷うように雪花の足が踏み出される。遠く、無意識に思い返したのは、いつもの場所――雪花だけが知っている、山の中の秘密の空間。
そこなら、誰にも邪魔されることはない。山の中なら、自然の中なら――美しいものをたくさん〈発見〉できる。美しいものだけで自分を満たして、静かな場所で、胸の中のムカつきを綺麗に捨ててしまいたかった。
空は青く、太陽は低い。冬の冷たい風に真っ向から逆らって、雪花は走り出していた。
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東京都、
元は精霊保護のための保全地域として、意図的に自然を残していた神秘のための名残の土地。
都心からほど近く、しかし、東京とは信じられないほどの自然に溢れるこの地では、山と呼ぶには小さいが、藪や草木の溢れる里山が点在している。
その中でも、三つの小山がまるで三つ子のように寄り集まっているから、という単純な理由で三つ子山と呼ばれる山こそ、雪花の遊び場であり憩いの場だった。
今の時期は蛇もいないから、と藪を棒で叩くこともなく、雪花はがさがさと小山を登っていた。道なき道をかき分けて、小さな身体で懸命にけもの道を踏みしめていく。
三つ子山まで来る間に、雪花はどうにか落ち着きを取り戻していた。柔らかな黒髪を手櫛で整えながら、
枝の上で寒さに膨れる小鳥の姿。人の気配に慌てて逃げていく狸の尻尾。ちろちろと流れる透明な小川の川底には、水の流れに磨かれて、青く光る丸い石が澄ました顔で沈んでいる。
ひとつ、ひとつと。自然の中の美しいものを〈発見〉するたびに、雪花の頬はほころんだ。不意に、また一つ、雪花は無意識に魔術を使って美しいものへの道筋を〈発見〉する。
それは、深紅の帯だった。
今まで見たことのないほど赤い、燃えるような赤の色。絵筆でさっと撫ぜたような形でふわふわと空中に漂っているそれは、雪花の興味を強烈に惹きつける。
すい、と赤を追って左に曲がる。大きな藪を避ける手間さえ惜しんで、雪花はそろそろと、しかし確かな期待を胸に鮮烈な赤の帯を追いかけていく。下草を踏みしめ、小石を蹴飛ばし、時に躓きながらも前に進む。
そうして、深紅の帯の先――雪花は、忘れられない出会いを果たしたのだ。
第百八十話・半:あの日、君がいたから〈the first volume〉
魔術で何かを探す時――〈発見〉の魔術特性の効果は、雪花の瞳には極彩色の帯に見える。
薄青の帯を辿れば小さな小川。
それぞれの色ごとに、大抵は何が帯の先にあるのか雪花はわかる。けれど、深紅の帯など見たことは無い。今までずっと、魔術というものが息をするように操れるようになってから、山の中でも、街の中でも、どこでも美しいものを探したが、ついぞ深紅の帯なぞ見たことが無い。
――ならば、この深紅の帯は、一体何に至るのだろう。
子供心に未知を喜び、その答えを求めて一際大きな藪から飛び出した先で。雪花は、一人の子供と遭遇した。
「……」
「……」
互いに無言。両者共に驚きに目を丸くして、互いに互いを見つめていた。
雪花はきょときょとと左右を見回し、確かに深紅の帯が目の前の少女に続いていることを確認する。確認して、まじまじと少女を見つめてみるが、変わった見た目の少女ではない。
年齢は6歳くらいか、きちんと肩のところで切りそろえられた黒髪の、
唯一、小さな手に握りしめられている物が、変わっているといえば変わっている。少女は小さな両手で何がしかの獣の頭骨を握りしめていて、真ん丸な瞳は珍獣でも見るように雪花のことを見つめていた。
じろじろと自身を眺める
「さむそう」
対して、少女の答えは端的だった。雪花を指さし、舌足らずにそう言う少女の言葉に、雪花は自分の服装を見下ろして、確かに……と頷いてしまった。
「さむい?」
「うん……まあ、ちょっとね」
「! じゃあ、こまのが、あっためてあげる!」
寒い? という問いに確かにちょっと寒いな、と頷いた瞬間。雪花をじっと見つめていた少女が走り出した。ダッシュで雪花との距離を詰め、驚きに硬直する彼の左手を掴み、次の瞬間には炎が小さな二人を包む。
「――――」
柔らかな、橙色の炎。触れても熱くなく、服を焦がすこともない不可思議な炎は、ヴェールのようにゆらゆらと雪花と、こまの、と自称した少女の周りで揺れている。
それは確かに、美しいものだった。雪花はじっと魅入られたように橙色の炎を見つめ、少女は自慢げに胸をはる。
「あったかいでしょ? ねえ、ねぇってば」
「うん――あったかい」
「――! でしょ!」
あたたかい、と雪花が言えば、少女は満足そうに頷いた。雪花はただただ人を傷つけることのない炎に見惚れていて、ふわふわと浮かぶそれに手を伸ばしては、柔らかで不思議な感触を楽しんだ。
理屈はわからない。けれど、何か、〈炎熱〉とかの魔術だろう、と雪花は少女を見下ろした。〈発見〉の魔術で、この美しい根源を――少女の魔術の特性の名前を〈みつけよう〉とするが、見つからない。
「……あれ?」
代わりに〈発見〉出来たのは、〈両性亜神〉という、半分は雪花の知らない言葉だった。美しい炎の根源は、〈亜神〉というもののようだ。両性以外の意味がわからない雪花にとっては、何かしらの魔術の結果だろう、ということくらいしかわからない。
「……ねぇ君、どうしてこんなところにいるの?」
「こまのだよ、こまの!」
「こまの、どうしてこんなところにいるの?」
君ではなく、自分は〝こまの〟だと言い張る少女――両性とあるが少女に見える――に合わせて、雪花が再び質問する。いくら小さな小山といえども、こんな小さな子供がふらりといて良い場所ではない。
親が近くにいるにしても、目を離すなんて――と大人びた思考で雪花はこまのに質問するが、こまのは質問の意図がよくわからなかったらしい。
「こまの、あそんでるの」
「……」
身もふたもない返事に、雪花が黙る。これ以上聞いても無駄な気がする、と少女の親を〈発見〉しようと魔術を使い、柔らかな銀の帯を見つけてホッとする。
銀色は愛情の証だ。この子は蔑ろにされて此処にいるわけではなく、きちんと親に愛されている。それに、この子の親は近くにいる――それを確信して、雪花は胸をなでおろした。
「お父さんかお母さんが向こうにいるみたいだから、行こう?」
「やだ」
「……」
再び雪花は黙った。小さい子供というものを相手にしたことが無い雪花としては、目の前の少女がどうして言うことを聞いてくれないのかがわからない。
しばらく沈黙したあと、ようやく絞り出した言葉は単純に、どうして? だった。
「あそんでるんだもん」
「……えっと」
――その後。5分ほどかけて辛抱強く聞き出した結果――どうやら、少女は近くでキャンプをしている親に向けて、「あそんでくる!」と言い、「ほどほどで帰って来るんだよ」と言われ、遊びに出たばかりらしい、ということがわかった。
そんな軽いノリでこの年の娘を野山に遊びに出して良いんだろうか、と雪花は悩んだが、魔術は嘘を吐かない。この子が愛されているのは確実だ。
けれども、それじゃあバイバイ、と放り出せるほど、雪花は薄情な子では無かった。それに、さきほどから少女は雪花と手を繋いだまま、離そうとはしない。
きらきらと期待に満ちた
「じゃあ……一緒に遊ぼうか」
「あそぶっ」
これが、今ではもう雪花しか覚えていない、雪花と狛乃の出会いだった。
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