第百八十話・半:あの日、君がいたから〈the second volume〉
第百八十話・半:あの日、君がいたから〈the second volume〉
――狛乃のいう遊びとは、まずはお喋りのことだった。
「……あのねぇ、ガオーマンはねぇ、すごくつよくてねぇ」
「――うん」
ガオーマン――それが狛乃の第一声である。
ガオーマンはすごく強い、かっこいい、ということをどうしても雪花に伝えたいらしく、狛乃は必死に、だがどこかマイペースに。先ほどから自分の言いたいことだけを言い連ねていた。
当然、ネットアニメでも聞いたことがない単語に雪花がついていけるわけもない。雪花はガオーマンとは何者かを狛乃にたずね、すると、興味を持ってもらえたと勘違いして狛乃は喜んだ。
だが如何せん、舌足らずな様子からもわかるように、雪花にも理解できるように分かりやすく説明できるはずもなく、そうして冒頭の一言に全ては集約されていく――そうすなわち、ガオーマンはすごく強い、と。
「わかった――わかった。ガオーマンってどんな顔?」
だが、そんなわけのわからないままループする話にも、ブチ切れないのが雪花の長所だった。
忍耐強い雪花は、興奮する狛乃をどうどうと宥めつつ、ガオーマンの見た目について言及する。
比較的に平らな地面がある場所を〈発見〉し、しっかりとした木の棒を狛乃に持たせて、描いてごらん、と雪花は促す。
――が、
「こんなかんじ」
皆が皆、雪花と同じくらいの絵心があると思い込んでいた雪花は、思わぬ誤算に黙りこんだ。目の前の地面には、何やらうねうねとした意味不明な、
頭のところに突き出た2つの三角らしき何かは、角なのか、耳なのか――爪が6本あるのはこれで正しいのか――悩みながらも雪花は諦めない。
「わかった――うん、俺が描く。ガオーマンの顔って何に一番似てる?」
「ハイエナ!」
「――ハイエナ」
元気良く、迷う素振りさえ見せずに即答した狛乃を思わず二度見して、雪花は迷いながらも木の棒を動かした。
記憶の中のハイエナの頭を、まずは写実的に地面に描く。波打つ褐色の毛、剥き出しの牙、鼻面にシワを寄せ、今にも吠えかかりそうなハイエナの顔を克明に描き出してから、流石にこれはないかな、と顔を上げる。
「どう?」
「すごい、そっくり!」
「えっ……」
本当に? と雪花が聞けば、間違いなく一番上手いガオーマンの似顔絵だと狛乃は頷く。
すごい、すごい、じょうず、じょうず、と繰り返す狛乃は、雪花が上手な絵を描けることに興味を持ったようだった。
ガオーマンの話はぱたりと終わり、すぐさま雪花のパーカーの裾を引っ張って、他のも描いて! とせがみだす。
「くましゃん、くましゃんのあたまのほねかいて!」
「――頭の骨」
チョイスが幼児のチョイスではない。良く見れば兎とわかる頭骨を大事そうに握りしめていたから、そういうのが好きなのかな、とは思っていたが、何か、何だかおかしい気がする。
雪花は薄々そう思いながらも、混じり気のない気持ちで誉められればやはり嬉しいものだった。
狛乃がせがむままに雪花は再び木の棒を持ち、地面に博物学者が描くような熊の頭骨を描き出す。
分厚く頑丈で、想像より細長い形。鋭い犬歯が目立つが、それでいて意外と臼歯は尖っていない。鼻の部分は大きく陥没していて、目の窪みは浅い。
どこからどう見ても、写真のような出来映えの絵。地面に描いたとは思えないほどの精密な絵は、頭骨をこよなく愛する狛乃の心を鷲掴みにしていた。
「――てんさい!」
びしっと雪花を指差して、感極まった様子で狛乃が叫ぶ。小躍りしそうな様子で狛乃は絵の周りを犬のようにぐるぐると走り回り、再び雪花を見上げて言った。
「すごい、じょうず、てんさいだぁー」と。
「――」
狛乃は何度も繰り返す。すごい、じょうず、てんさい、と。それだけ聞けばなんとチープな褒め言葉かと、笑ってしまうような言葉を、何度も何度も繰り返す。
「――」
所詮は子供の褒め言葉。好きなものを描いてもらって喜んでいるだけ。あてにはならない。自分より絵が上手い奴なんか山ほどいる――でも。
でも、そのチープな言葉こそが――何よりも欲しい言葉だった。
「すごい、すごいねー! こまのもかく! かいてみる!」
「……」
一生懸命に雪花を見上げ、狛乃は何度目かわからない称賛を口にする。拾い上げた木の棒を一生懸命に動かして、雪花の絵をお手本に、ざりざりと地面に下手くそな絵を描き始める。
その様子をぼんやりながめて、その時初めて、雪花は自分が何に傷ついていたのか気が付いた。どうして家を飛び出したのか、気が付いてしまった。
俺は親父に愛されていないわけじゃない――魔術は決して嘘をつかない。
けれど、親父は俺を見ていない――雪花が望むものを、彼は決して与えてくれない。
すごいね――と、言ってほしかった。上手だね――と、微笑んでほしかった。俺の息子は天才だ――と、言ってもらえると信じていた。
たとえ普段、口では何と言おうと、心の底ではそう思っているから。120色入りの高価な絵の具もぽんと買ってもらえたのだと、そう信じていたかった。
普段、自分が描いた絵に見向きもされなくても。見て、という声に、何度、後でな、と返されていても。ようやく見てもらえた絵を、ろくに見もせずに、子供が描いたものだからと、下手くそに違いないと笑われても――。
――それでも、雪花は信じていたかったのだ。
「……俺は」
愛されている。
この世にごまんと存在する、愛されもせず、傷つけられるだけの子供達からすれば、鼻で笑われてしまうほどに愛されている。
疑う余地もなく、自分は父親に愛されている。でも、でも――それがどんなに辛いことか。
愛されていると確信しているがゆえに、雪花は決して父親を切り捨てられない。諦めきれない。悪い人ではない。自分を愛してくれている、自分の実の父親だ――けれど、けれども。
愛されているがゆえに、いつまでも見捨てられないゆえに――ずっと先の未来で、雪花は地獄のような苦しみに苛まれることになる。
いっそ、悪い人であればよかった。贅沢だと罵られてもいい。雪花は心のどこかでいつも思っていた。羨ましいと言うならば、この苦しさを味わってから言えばいいのにと。
――……昨日行った画材屋で、お前は恵まれすぎてる、と自分を
〝
その隣に、雪花と雪花の父親はいた。じっと絵の具の並んだ棚を見つめる息子に、端末を弄っていた雪花の父親はふと、何の気負いもなく一番高い絵の具セットを手に取った。〝欲しいんだろ? 買ってやるよ〟と、快活に笑って120色入りの大きな絵の具セットを雪花の腕に抱えさせる。
〝俺、他に見るものあるからしばらく此処にいろよ〟雪花の父親は、雪花の腕に絵の具を抱えさせたまま、鼻歌まじりで歩いていく。
途端に、後ろから声をかけられて、雪花はぼんやりと振り返った。
〝なあ、お前も絵、好きなの?〟先程の少年が、36色入りの絵の具を抱えたまま、雪花にそう声をかけた。〝うん、好きだよ〟と。雪花も120色入りの絵の具を抱えたままそう答えた。
〝何か、描いたの持ってる?〟と聞かれ、雪花は持ってる、とリュックからスケッチブックを取り出した。差し出して、ぱらぱらと少年が雪花の絵を見て、沈黙する。そのまま黙って、スケッチブックは突っ返された。
〝……ねえ、君のも見せてくれると〟――嬉しい。そう言いかけて、雪花は黙った。少年は微笑ましそうにこちらを見ている両親に背を向けて、雪花をじっと睨んでいた。
少年は、突っ返した雪花のスケッチブックと、雪花が抱える120色の絵の具を見つめ、こう言った。〝下手くそ〟と。小さく、雪花にだけ聞こえるように。そして続けて、こう言うのだ。
――〝お前、恵まれすぎてるよ〟と。
そう言って、少年は小走りで両親の温かい腕の中に戻っていった。
後には、120色入りの絵の具と自分のスケッチブックを抱えて、一人ぼっちで棒立ちになる雪花だけが残っていた。雪花は手の中のそれを見下ろして、何か、よくわからない感情に突き動かされて自分の父親を捜して歩き出す。
魔術を使い、銀色の帯を追って、ようやく見つけた父親に言う。
〝……俺の絵、下手くそって言われた〟と。何故そんなことを言ったのか、今では雪花もわかっている。そんなことない、と言ってほしかったのだ。お前はすごい、天才だと、あの子がそう言ってもらっていたように――。
でも、父親は面倒くさそうに、振り返りもせずにこう言った。〝そりゃ――お前、子供のお絵描きなんだから下手くそだろ?〟と。
雪花は〝でも、いっぱい練習した〟と言い、それには今度こそ父親も雪花を振り返り、〝そうか? でも、下手くそは何年描いても下手くそだっていうぞー。雪花も下手くそだって言われたんだろ? そいつのほうが、上手だったんじゃねぇか?〟と笑いながらそう言った。
雪花は父親のシャツを引く手を引っ込めて、黙り込む。そうだろうか。やっぱり、自分の絵が下手くそだったのだろうか。
あの子は結局自分の絵を見せてはくれなかったから、父親の言葉に違うとは言い切れない。
からんからん、と遠くに店から出た客の音を聞いて振り返る。36色入りの絵の具セットの袋をぶら下げて、あの少年が両親と一緒に笑いながら店を出て行く後ろ姿を見送った。
〝お前は恵まれすぎてる〟――本当に? なら、それなら、この胸の苦しみはいったい何だというのだろう。
確かに、あの子の手には36色の絵の具があって、雪花の手には120色の絵の具がある。
魔術を使ってみても、ちゃんと銀色の帯が見える――雪花は確かに、愛されている。
今まで、怒鳴られたこともない。叩かれたこともない。食事を抜かれたことはない。無視をされたこともない。買ってもらえないものは何もない。抱きしめられたことが無いわけじゃない。厳しくされた記憶は何一つない――雪花は確かに、恵まれている。
でも、雪花が本当に欲しい言葉は、
優しく頭を撫でるのと同じ手で、父はいつも、雪花の心を悪気なく握り潰す。その後に、残るものはただ一つだ。
惨めで、悲しい、やり場のない――自分の――、
「――……だいじょうぶ?」
不意に、うつむいてしまった雪花の顔を、狛乃がそっと覗きこんだ。
うつむいたまま、無表情で、ぽろぽろと涙をこぼす雪花の頬に手を伸ばし、オレンジ色の炎で涙を蒸発させて狛乃は言う。
「いたいの……?」
心配そうな声。こんなマイペースな子だって、目の前で誰かが泣いていれば、心配してくれるのか――と。
何だか不思議な気持ちで狛乃を見下ろし、雪花はぼんやりと微笑んでみせる。
「何でもないよ、大丈夫。ほら、自分でも描いてみるんでしょ?」
微笑みながら雪花が促せば、狛乃は迷いながらも、ううん、と首を横に振った。
握りしめていた木の棒を放り出し、ちょっと迷ってから、雪花と出会ってからも一度も手放さなかった兎の頭骨も地面に放る。
そうしてから、狛乃はとてとてと雪花に近付き、そしてぎゅっと雪花のことを抱きしめた。
「――おにいちゃんのが、だいじだから」
「――」
雪花はそれに、絶句する。
抱きしめられたからではない。生まれて始めて、自分以外の人間から、今は他の何よりも、あなたが一番大事なのだと言われて絶句したのだ。
実の父親からでさえ、雪花はそんなことを言われたことがない。だからずっと、人間とはそういうものなのだと思って生きてきた。
人間は――たとえ実の父親でさえも、自分のことが一番大切で、どんな時でも自分を優先にするものだと、雪花はずっとそう思っていた。
なのに、目の前で自分に抱き付いて、抱きしめているつもりの少女は、楽しいお絵描きも、宝物なのであろう骨すら地面に放り出して、今は泣いている雪花のことが心配なのだと、大事なのだとそう言ったのだ。
それが、信じられなくて。何故だか、震えるほど嬉しくて。
「……ありがとう」
どうにかこうにか、込み上げる嗚咽をこらえてそう囁いた。それだけしか言えなくて、雪花はただ震える腕で、抱きつく狛乃を抱きしめ返す。
「ありがとう……っ」
こんな小さな子供一人に、救われた気がした。何か――何かが。自分の心の、本当に大切な部分が、救われた気がしていた。
すごいね、上手だ、天才だ――!
はしゃぐ狛乃の声が、――〝下手くそ〟という呪いの声を掻き消した。
おにいちゃんのほうが、だいじだから――。
小さな身体で自分に抱き着いた、狛乃の思いやりに救われた。
ああ――俺は、大丈夫だ。きっと、また頑張れる。
「もう大丈夫――ありがとう」
「だいじょうぶ?」
「うん、大丈夫」
雪花が柔らかく笑えば、狛乃は安心したように頷いた。頷いて、あ……と小さく呟いて、雪花の腕を引いてしゃがんで、とせがむ。
「げんきがでるおまじない――おかあさんがね、よくやってくれるの」
せがまれるままにしゃがんだ雪花にそう言って、狛乃はちゅっと雪花の額にキスをした。すぐに離れて、狛乃は雪花の顔を覗きこみ、げんきでた? とあどけない声で笑う。
「……うん、元気出た」
すごく恥ずかしいけど、とは言えず、雪花はどきどきしながらもただ頷いて立ち上がる。ついでに、地面に転がる兎の骨を拾い上げ、シャツの裾で丁寧に土汚れを落としてから狛乃に渡してやった。
「ありがと!」
宝物なのだろうそれを受け取り、不意に狛乃のお腹がぐぅ、と鳴る。おなかすいた……と呟く狛乃と手を繋ぎ、雪花は送るよ、と狛乃を連れて歩き出す。
確かな愛情を示す銀色の帯を辿り、狛乃の両親に挨拶をして狛乃を無事に送り届ける。狛乃の父親にはものすごい目で睨まれたが、無言でそれをどついてどかした狛乃の母親は、優しい笑顔で雪花の頭を撫でてくれた。
狛乃の相手をしてくれてありがとう、と。
母親の服を引っ張って、このお兄ちゃんは絵の天才なんだ、と騒ぐ我が子をあやしながら、彼女はそうなの、すごいわね、と言いながら雪花の腕を引く。
「もしよかったら、おやつでもいかが?」と母親が言えば、狛乃はすかさず一緒に食べよう、ねえねえ良いでしょ、とぐずりだした。
微笑む母親の好意を無駄にできなくて、雪花はどぎまぎしながら、お邪魔します……と、狛乃一家の輪に入る。
勧められた簡易な組み立て椅子に座れば、当然のようにその膝の上に狛乃が座る。一瞬、狛乃の父親から殺気がほとばしり、びくりと雪花が震えるが、父親はあっという間に狛乃の母親が首根っこを掴んでどこかに連れて行った。
母親だけがすぐに戻り、狛乃と雪花に一つずつチョコレートのドーナツを差し出した。
甘くて、丸くて、ふわふわなそれに狛乃は豪快にかぶりつき、聞いてもいないのに自分がいかにドーナツが好きかを語り出す。
雪花が静かにそれを聞き、自分も好きだと言えば狛乃はたいそう喜んだ。はしゃぐ狛乃と、照れ臭そうに狛乃を膝に抱える雪花を眺め、狛乃の母親も幸せそうに笑う。
仲良しさんね、と微笑まれ、雪花はぼんやりと思った。近々家に来るであろう継母も、こんなふうに、柔らかく笑う人だったらいいな――と。
そして、そんな幸せな時間はあっという間に過ぎていく。
そろそろ帰らないと、と言う雪花に、狛乃はぐずった。いやだいやだ、と繰り返し、最終的には〝また明日〟――という呪文で強引に納得させた。
また明日――此処で。
指切りをしてそう約束し、雪花は一人、家路につく。
家に帰れば、父親から家庭用端末にメッセージが残されていた。外泊するから、適当に過ごせとのことだった。昼間、放り出したスケッチブックと鉛筆はそのままで、雪花はそれを拾い上げ、適当な夕飯を済ませて眠りについた。
ただ、明日の約束が楽しみで。じんわりと温かくなる額を押さえ、雪花は一人きりでベッドにもぐりこむ。
そうして、翌日。朝一番で着替えて、喜び勇んで山へと向かった。昨日のキャンプ地は覚えていた。魔術を使うまでも無い。目的の場所に近付いて、雪花は狛乃を驚かせようと藪から飛び出した。
そこに、狛乃と、狛乃の両親がいると信じて。
「――――」
けれど、そこには誰もいなかった。
ただキャンプ道具の残骸が、何かに切り刻まれたように散らばっていた。何かあったのは明白だ。思えば、何故、こんな里山にキャンプなんてしていたのか――いや、それよりも。
「こまのっ……!」
あの子は、あの子は無事なのだろうか。それだけが気がかりで、雪花は狛乃を〈発見〉しようと全力で魔術を使う。けれど、昨日確かに見たはずの、美しい深紅の帯は見えなかった。
「――ッッ゛」
途端に呼吸が浅くなる。魔術は嘘をつかない。雪花の魔術で見つけられないものは、〝隠されている〟か、〝存在しない〟ものだけだ。
それでも――それでも、まだ〝隠されている〟可能性に縋りつく。今度は落ち着いて、何か、手掛かりを、何としても。
手掛かりを探し、雪花は視界の端に薄い銀色の帯を見た。本当に微かなそれを辿り、瓦礫をひっくり返して銀の帯が至る根源を探し出す。
「……見つけた」
それは、小さな手紙だった。走り書きで、割れ砕けた金属片に乱暴に刻まれた、狛乃の母親からのメッセージ。
――〝みんな無事。約束、ごめんなさい〟
知らず、詰めていた息を吐き出して、雪花は震えながら座り込む。金属片を握りしめ、不意に、ひんやりとした空気を感じて右を見て――、
「――――」
そこに、猫がいた。
四つ足の猫ではない。
人間みたいなカタチをした、猫みたいな顔の黒い影。
脱力したように棒立ちの、緑とも青ともつかぬ、サメのように虚ろな目をした猫だった。シルエットは女性ではなく、男性のもの。だが、異形の頭はどう見ても人ではない。
瞬間、弾かれたように雪花はそこから逃げ出した。何か、本能が叫んでいた。逃げろ、と。何としてでも、此処から逃げろ、と。
家まで最短の道を〈発見〉し、振り返りもせずに走り抜ける。無事に家に帰りついた時、雪花は自分が無事であることが信じられないくらいだった。玄関先でえずきながら、必死になって酸素を貪る。
「な、んだあれっ……なんだあれ!」
狛乃は。
「……こまの」
狛乃達は、あの黒い影に襲われたのだろうか。でも、どうして? そもそも、あれはいったいなんなんだ?
雪花は、震える右手を見下ろした。そのまま右手で、自分の額をそっと押さえる。じんわりと胸の奥が温かくなる、狛乃のおまじない。
あんな優しい子が、どうしてあんな化物に――そこまで考えて、思い出す。自分が昨日、見つけたもの。美しいものを探して、見つけ出したその根源。
「……っ」
靴を脱ぎ散らかし、自室に走る。端末を起動して、打ち込む文字はただ一つ。
「――あった」
〈亜神〉――それは、あの子の根源。雪花の知らない未知の単語。けれどたった今、その意味を雪花は正しく理解した。
「……現人神の血筋にて、鍵が開かれた者」
そのサイトは、インターネットを大海原に例えるならば、まさしく深海にあるサイトだった。
「現人神ハブを取り込んだ――賢者ノラの末裔同士の禁忌」
俗にディープウェブ――アンダーグラウンドサイトと呼ばれる、通常検索では辿り着けない場所でさえ、雪花の魔術は難なく道を見つけることが出来る。
「亜神は――狙われる」
端末の電源を切り、雪花はぱたりとそれを机に放りだす。少しして、震える右手で再び端末を起動した。
検索し、〈発見〉したのは、影響力のある人物になる方法。金と、権力と、純粋な力。身も蓋もないその3つこそ、この世界であらゆるものを手にするために必要なものなのだと雪花は知った。そしてその全ては、魔法結社ソロモンにあるのだとも。
「……ソロモン」
今まで、魔法のことも、魔術のことも、人外のことも興味は無かった。アングラサイトで存在だけは知っていたが、ただそれだけ。けれど、雪花がやりたいことのためには、それだけではダメなのだ。
(絵を描こう――)
まずは、金だ。良い絵画は高く売れると、雪花の知識にもそうあった。まずは莫大な資金が必要だ。それから力。これから毎日、身体を鍛えなくてはいけない。
「身体を鍛えて……勉強も」
知識も必要だ。話術も、賢さもいるだろう。
「……絵の具」
一昨日、買ってもらったばかりの絵の具の箱を開ける。120色の、美しい絵の具たち。高級水彩紙を棚から出して、絵筆を用意し、水入れに筆を差し入れ、選んだ絵の具をパレットの上に並べていく。
「……」
そこまでして、何を描こう、と手が止まる。
〝下手くそ〟――と不愉快な声が脳裏に響き、すぐに狛乃のはしゃぐ声がそれを打ち消した。額がじんわりと熱を持つ。
筆が動いた――まずは、緑。冬の寒さの中でも常緑の、里山の風景。
次は赤。濃緑の常緑樹の隙間に閃く、深紅の帯。
「……」
それを追った先で――柔らかく跳ねた黒髪がひるがえる。
「……ああ」
その子は小さな手で兎の頭骨を握りしめ、雪花を振り返っては満面の笑みでこう言うのだ。
――〝すごい、じょうず! てんさいだ!〟
「ああ……っ、俺……ちゃんと描ける……っ」
今まで通り――今まで以上に。絵筆を持つ右手は、軽やかに動く。白い水彩紙に、思い出を描いていく。
深紅の帯――あの子の笑顔。
涙がぱたり、とパレットに落ちる。その涙は、再び大好きな絵を描ける喜びなのか、約束を果たせなかった悲しみなのかわからない。
けれど、けれども――。
「――……できた」
それから数時間かけて、それは完成した。
自然の中で振り返り、幸せそうに笑う狛乃の姿。小さな手には兎の頭骨。濃茶のケープがひるがえり、深紅の帯がその光景へと導いている。
見れば、不思議と幸せな気持ちになる絵だった。自分でも最高の出来栄えに、涙を拭って雪花はその絵を窓辺に寄せて夕日に透かす。
「……?」
じっと絵の中の狛乃を見つめていれば、不意に階下からチャイムの音がする。宅配か何かかと、丁寧に絵を置いて、雪花は慌てて玄関に走った。モニターを見れば父親の姿が映っていて、鍵でも忘れたのかと首を傾げながらも扉を開ける。
「おかえ……」
「雪花、見ろ! お前のお母さんと――なんと、妹だ!」
り、という言葉を言う前に、父親のぶしつけな声が雪花の二の句を封じ込めた。目の前には呑気に笑う父親の姿と、見慣れない――膨らみかけの腹を不安そうにおさえた、長い黒髪の女性。
「はじめまして……雪花君。急で驚いてるだろうけど、えっと、私は……」
「知ってる。
思わず、ぶっきらぼうな声が出る。可愛げが無いことはわかっていた。けれど、試すような気持ちもあった。こんな態度でも、あなたは俺を息子と思えるのかと、そんな挑戦めいた気持ちが無かったといえば嘘になる。
知らない間に、まったく予想外の〝妹〟という存在ができていたことにも、少なからず動揺していたのかもしれない。
けれど、雪花はずっと前から考えていた通り、出来る限りの無関心を装った態度で自分の継母となる女性をじっと見る。
「そうだぞー! な? 藤花。雪花は聞き分けが良いって言ったろ?」
「……そうね。ねえ、雪花君……絵を描くのが好きなの?」
空気の読めない父親の声に、藤花という名の継母は静かに返事をしながらも、すぐに地面に膝をつき、雪花と目線を合わせてそう聞いた。
「……聞いたの?」
「……いいえ――……ほら、シャツの裾、絵の具がついてる」
〝いいえ〟と否定する直前、彼女は唇を噛みしめた。その理由が、雪花にはぼんやりとわかる。
きっと、この継母は気が付いている。自分が伴侶に選んだ男の、悪い部分を理解している。〝いいえ〟と断言することが、父親が息子の一番好きなことさえも把握していないのだと、雪花に突き付けることだとわかっている。
だから、迷った。唇を噛みしめた。けれど、嘘はつけないと真実を口にした。それが正しいのか、間違っているのかなんて、雪花にはわからない。わからないけれど、
「……私もね、絵が好きなの。よかったら、雪花君の描いた絵、見せてくれる?」
「――待ってて」
ここで待ってて。そう言って、雪花は不思議そうな顔で雪花と藤花のやり取りを眺めている父親と、継母を置いて自室への階段を駆け上がる。扉を開けて、ついさっき描き上げたばかりの絵を大事に抱え、再び継母の下へと戻る。
「……これ」
雪花は持って来た絵を抱えたまま、よく見えるように継母へとそれを見せる。けれど、渡しはしない。継母も心得たように手は出さず、ただじっと
雪花はその様子をじっと見ていた。
はたして、彼女は何を言うのか。じっと見つめる雪花の目の前で、継母は雪花の絵を食い入るように見つめ、それからぱっと顔を上げ、雪花と目を合わせてこう言った。
「――すごいわ。すごく上手。雪花君、天才ね!」
まるで、自分のことのように。継母はそう言った。心の底から嬉しそうに、誇らしげにそう言って、柔らかく微笑んだ。
「――――」
――……昨日行った画材屋で、お前は恵まれすぎてる、と自分を詰った少年の顔を思い出す。
〝
「……ありがとう」
「本当にすごいわ、この絵、すごくあったかいもの」
微笑む継母に嘘は無い。彼女を取り巻く感情は、輝く銀の帯だった。深い愛情、それは確かに、今、雪花に向けられているもので――、
「…………母さん。立ってよ、お腹辛いでしょ」
「――――」
だから雪花も、そう言った。手を差し伸べて、身重の母を気づかった。彼女は目を丸くして、恐る恐る雪花の手を借りて立ち上がる。そのまま、
「……」
その柔らかな微笑みを見て、雪花はその時思ったのだ。
ああ――ああ、きっと大丈夫。俺はこの人と、家族として、上手くやっていける。やっていこう。
そして少し迷って、雪花は母にこう言った。
「……おかえり、母さん」
同じくらい迷ってから、母も雪花にこう返した。
「……ただいま、雪花」
その日から、見違えるほど幸せな家族の日々は始まった。雪花の父が家を出て、続けて母が家を出るまで。雪花の幸せは、確かにそこに存在した。
可愛い妹。優しい母。間の抜けた父。地位と権力。金と力。魔術と魔法の腕も磨いた。知識だって、躍起になって身に着けた。大好きな絵も、描き続けた。
時おり、狛乃を探して街の中、自然の中、深紅の帯を探したりもした。生きていてくれさえすればいい、と思った。無事であるなら、それでいいからと。
狛乃を描いた絵はたいそう人気が出た。最初の最初、一番初めの、有名になる前の展覧会にしか出さなかったから、〝幻の初期作品〟と呼ばれるほどになっていた。
狛乃の無事を祈りながらも、幸せな日々が続いていた。
妹は可愛く、元気で。母は優しく、しっかりしていて。父は相変わらずズレているが、悪い人では無かった。
――それがある日、唐突に崩れ去った。
父が、学習性AIに恋をした。いや、正しくは――学習性AIとして振る舞っていた、古い〝妖精〟に。
魔術を操り、魔法を駆使し、家族に隠れて偽名でとはいえ、ソロモンでもある程度の名を馳せる雪花が、学習性AIの正体を知らないわけがなかった。
けれど、取り乱し、静かに絶望に沈んでいく母には言えなかった。なんと言って伝えればいいのか、伝えて意味があるのかわからなかった。
〝母さん。父さんはロボットに恋をしたんじゃない、妖精に恋をしたんだよ〟などと、言って、伝えて、何の意味があるというのか。
母はロボットに負けたことに悲しんでいるわけではなく、捨てられる我が身を嘆いているわけでもない。ただ、名前のつけられない悲しみに、打ちひしがれているだけなのに――。
打つ手も無いまま、幸せは終わった。
泣いて、泣いて、泣き崩れて――そうして最後には、能面のような無表情になってしまった母が怖かった。
あの日見た、ぎこちなく、けれど柔らかい微笑みは、どこかに消えてなくなっていた。
父は振り返りもせずに家を出て、母も同じように出ていった。妹だけは、此処に残る、と言い張った。細い手足を突っ張って、震える唇で
両親が出て行ったその日の午後。妹が買い物に行くという口実で、誰もいないところで泣こうと出かけた日。雪花は無意識に、絵を描くことで絶大なストレスから逃れようとした。
追い詰められた精神は疲弊しきっていた。何も考えずにイーゼルを用意して、パレットに絵の具を。絵筆を片手に真っ白な紙を前にした。
「――――」
その時初めて、雪花は気が付いた。思い出せない。いつも、絵を描く前に心の中で、何度も思い起こした狛乃の声が聞こえない。
〝――――、――――! ――――!〟
思い出せない。一生懸命に雪花を見上げ、満面の笑みを浮かべたその顔も、声も――。
代わりに浮かび上がるのは、あの日聞いた少年の声。
〝お前、恵まれすぎてるよ〟
「――――ッ、はっ」
息が詰まり、咄嗟に喉を抑えた。取り落したパレットが床に跳ね、色とりどりの絵の具玉が華やかに舞う。
36色入りの絵の具セットを抱えた少年が、雪花をじっと睨んでいる。お前は、恵まれ過ぎていると。何度も何度も、雪花の脳裏で繰り返される。
「恵まれている……」
床に落ちた絵筆を見る。隣には、いつの間にか120色よりも増えていた絵の具たち。部屋は高価な品で溢れている。
「俺は、恵まれている……」
権力も手にした。純粋に力だってある。大抵の相手なら、今なら人外相手でも戦える。戦って、勝てる自信が自分にはある。
両親はいなくなってしまったが、妹だって家にいる。可愛くて、大切な妹だ。金もある、両親が離婚して出て行った家庭なんて、数えきれないほどあるじゃないか。
雪花だってもう大人だ。両親の自由意思を認めるべきだし、雪花より不幸な人間はこの世にたくさんいる。その人たちからすれば、なんだそんなことくらいで、という悩みでしかない。
「俺は、恵まれすぎている……」
けれど今、雪花は苦しい。
「俺は……っ、恵まれ、すぎている……っ」
涙まじりで、言い聞かせるようにそう呟いても。今、雪花が辛いことに変わりはない。
「――――ッッ、あああ゛!!」
絶叫と共に、目の前のイーゼルを叩き割る。母が選んで買ってくれた、大切なものだった。絵の具を踏みつけ、絵筆を折り、しまってあった画材も全て引っ張り出して、ぐちゃぐちゃに叩き壊した。
そうして全てを台無しにして、涙に濡れた
心ごと――折り曲げて、押し潰して。
全てを一つの袋にまとめ上げ、無表情のまま近所のゴミ捨て場にそれを捨てた。ゴミ捨て場から家に帰って来るまでに、涙は全て乾いていた。
いつも……そう、いつも。
――……優しく頭を撫でるのと同じ手で、父はいつも、雪花の心を悪気なく握り潰す。その後に、残るものはただ一つだ。
惨めで、悲しい、やり場のない――、
「――……ッ、……っ、ぁあ……ぁあああ゛あ゛!!」
――――もう
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