第百八十話:Il faut se méfier de l'eau qui dort.――Ⅰ



 ところ変わって、留守番組――。


 すやすやと眠るギリーと子竜達、掲示板を見つめながら手元の電子ノートに何事かを必死に書き連ねている厳めしい顔のフラフムに、無表情で藁から縄をっている麦。


 少年姿のルドルフはコタツでのんびりと、雪花は眠る橙の腹毛をブラシがけ。穴倉の中には穏やかな空気が満ちていて、平和過ぎるほど平和だった――が。


「――ダメだ、心配で死にそう! 俺、様子見に行ってきていいですかね!?」


 そんな穏やかな空気の中、そう叫んだのは雪花である。


 夜風が吹き込むこともなく、けれど同居する精霊達のおかげで窒息の心配もない穴倉の中。仰向けにひっくり返って、ぐーすーいびきをかいている橙の腹毛を梳いていたブラシを放り投げ、雪花は耐え兼ねたようにそう言った。


「雪花君、意外と過保護だねぇー」


 対して、のんびりと干し林檎を齧りながらそう返すのは絶世の美少年――ルドルフだ。彼は巨大なコタツに潜り込み、テーブルの部分に肘をつきながら落ち着き払った態度でそう言うが、返す雪花のセリフには小さな焦燥が滲んでいる。


「だって――あんなに小さいんですよ!?」


「あはー……君、あれだ。見た目に引きずられるタイプだね? そうだろう。さては〝狛犬〟の姿なんか吹っ飛んでると見たよ僕は」


 あどけない少年の身体に、眠り猫のような穏やかな顔つきがミスマッチなルドルフは、ガラスのようなあおい瞳を細め、落ち着きなく身体を揺する雪花を見やる。

 

「でもね、見た目はあれでも中身は――」


「中身と出来ることがかみ合ってないのが心配なんですよ! あれでボスは冷静っぽく見えて無鉄砲なんです。たいして出来ることもないのに、恨みだけは買いまくってる今、危機感ゼロで動いてるかと思うと、思うと……やべぇ、VRなのに胃が痛ぇ! うあああ……」


「――……なるほど、一理あるね」


 くろくもは、人の感情の機微に疎いから、自分が恨まれてるかがわからないんだろうねぇ、と雪花の不安に同意して、ルドルフがうんうんと頷いて、じゃあ見に行こうか、と彼は言う。


「そんなに心配なら、僕らで様子を見に行こう。嫌だけど、僕が同乗すると言えばモルガナ君も全速力で走ってくれるだろうし。雪花君もまさか『世界警察ヴァルカン』に乗り込むつもりじゃないだろう?」


 隣の統括ギルドで茶でも飲んでさ、仕事終わりの彼らと合流する――それでどうだい? とルドルフは言い、雪花もそれなら……といった様子で頷いた瞬間。


『聞いたぞ! 聞いた! では今すぐにでも出発しようではないかー!』


 ざぱーん! と穴倉の出入り口である水場から飛び出して、一頭の一角獣が角を振りたてそう叫ぶ。その勢いに嫌そうな、疲れたような微笑みを浮かべつつ、ルドルフは、ほらね、と小さく溜息をついた。










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 ぬかるむ灰の草原を蹴立てて、出発後、5分の間に散々に〝黙れ〟と言われ、ようやく黙ったモルガナが走る。仄白ほのじろい月が冷たい大気に滲み、両側にぼわりとした光が浮かぶ幻月の下。

 純白の一角獣の背には二人の人間。鞍は無く、裸馬にまたがる雪花とルドルフは、穴倉を出発してからはしばらく会話も無く沈黙を保っていたものの、不意に前に座るルドルフが口を開いた。


「――ね、雪花君てさ。たまに言われたりしない? 〝目が怖い〟って」


 姿勢は崩さず、視線は前を向いたまま。比較的揺れの少ない前側に座っているとはいえ、馬に乗り慣れた様子で少年姿の彼は言う。


 〝目が怖い〟と言われたことはないか? と。


「――――」


 すると、雪花はわずかな沈黙の後にこう答える。〝穏やかだ〟と言われたことはありますよ、と。


 緩やかに問いの意味を否定して、雪花は穏やかな笑みを浮かべてみせる。そのまま、どうしたんです? 急に、と雪花が言った。


「ふぅん……じゃ、それだけの地位があるんだね。そっか、そっか……いやね、随分とどうでも良さそうな――いいや、まるでゴミを見るような目で周りを見てるな、と思ってね」


「――――」


 あまりにも、あっさりと。自然体でそう言われ、一瞬、雪花の頬が凍りついた。穏やかな笑みは薄皮が剥がれるように消えていき、その下からは何の感情も浮かばない、無表情の横顔が覗いている。


 薄い唇は声無くゆるゆると動き、視線は凍てつくような冷たさで目の前に座るルドルフを射た。一瞬の沈黙を挟み、雪花は低く、平坦な声でルドルフに言う。


「――それで?」


「大した話ではないさ。ただ、モルガナ君とギリー君、子竜達――あと、特にくろくもには、家族に向けるような眼差しなのに、随分と落差があるんだな、と思ってね」


「……そりゃ、そうでしょう。ボス達とは付き合いも長いですし、アンタ達とは今日が初対面だ。それに、ゴミをみたいには見ちゃいない。ボスが魔王軍に加担するなら、俺もそうするまでだ――全員仲間のつもりでいますよ、俺は」


 先ほどまでの冷たさを取り繕うように――ひどく、穏やかな口調で雪花は言う。凪いだ水面みなものような声。ゆらゆらと、深い色合いをたたえながらも、掴みどころのない湖のような声色。


「でも……君さ、僕らに言ってないことがあるでしょ」


 振り返りもせずに、ルドルフは言う。薄茶の短髪を風にそよがせながら、碧い瞳は真っ直ぐに前を見据えている。けれど、不思議と声だけは後ろに向いていた。疑問形ですらないその問いに、雪花は答えない。


「ダンジョンに潜伏中のフベの話じゃ、〝迷宮都市〟で君にくろくもを返した後、ダンジョンの玉座から水の精霊王が姿を消したそうだよ。水の要石もなくなってるってね」


「……」


「君が麦の穴倉にいる間、くろくもが来るまで、ずっと精霊達が君のことをちらちら見ていた。これは麦も気が付いていたけど、彼は何事も深入りしない性質たちだからね」


「……」


「君、水の精霊王と契約したね。精霊王に命じて、要石を持ち出したのも君だ。理由は〝保険〟だろう? くろくも――狛犬の〝人災騒ぎ〟がこのまま収まらないようなら、それらを利用して、世間のねたみ、そねみを一手に引き受けるための」


「……」


 ちろり、と。答えない雪花を視線だけで小さく振り返り、ルドルフは再び前を見る。


 狛犬の〝人災騒ぎ〟――本人こそ呑気だが、その実体は決して簡単なものではない。ましてや状況は昨日の今日。攻略組のトップである〝ルー〟や〝白虎〟の下には、狛犬を吊るし上げようと感情論だけで叫ぶ者たちが掃いて捨てるほど押し掛けているのが現状だった。


 そして、そのことに雪花は気が付いている。もちろんフベも、ルドルフ達もだ。だからこそ、今回の話はフベの情けでもあるのだと、雪花は正しく理解している。の魔王は、孫娘の親友でもある狛犬の立場を書き換えてやろうとしているのだ。


 として、攻略組に刃を振り下ろしたのではなく――として攻略組に打撃を与えるべく、謳害という現象を引き起こしたのだと。


 謳害を引き起こした赤の精霊達が、狛犬には攻撃せず、命令にも従った様子は動画に撮られ、スクリーンショットで晒され、今や誰もが知っている。

 だからこそ人災と呼ばれ、狛犬は意図的に攻略組を攻撃したのだと思われている。信じられている。


 でもそれが、銀目の魔王による最初の一手だとしたら――〝もはや我らはプレイヤーにあらず〟と、モンスターと共に攻略組に牙を剥くならば――ほとんどの責任がフベにいく。


 けれど、それだけでは足りないのだ。意味が無い、と雪花は思っている。何故なら、今、狛犬を人災と呼び、ひたすらに狛犬を許すなと叫ぶほとんどの人々は、〝ただ叩きたい〟から叩いているだけなのだから。


 ルドルフも気が付いている。だからこそ彼は、〝恨みつらみ〟ではなく〝妬み嫉み〟と言い表した。彼らは狛犬を恨んでいるのではなく、妬んでいるから攻撃している。


 ニブルヘイムを犬のように従えているから――覚醒武器を持っているから――子竜を2頭も持っているから――ドルーウ達に慕われているから――潤沢な資金を持っているから――適応称号を手にしたから――公式動画で取り上げられ、ゲームの内外で有名だから――NPCとの伝手とコネがあるから――珍しいアビリティを持っているから――ずるい、ずるい、あいつはずるい。


 それに、あいつは悪いことをした。だから少しくらい、酷いことをしたって許される――。


 意識的にも、無意識的にも、そんな考えが根底に渦を巻いている。そんな危険な考えを逸らすためには、狛犬以上に羨ましく、叩く理由のある生贄が必要だ。


 誰もが罪悪感なく、気分良く叩いて憂さ晴らしが出来る生贄が――。


「……それで、何がお望みですか」


 冷たい響きで雪花が言った。それをネタにして、俺に何を望むのかと。雪花は薄橙の瞳でルドルフを見下ろして、無表情のままそう問うた。


「教えてほしいことがあるんだ」


 間髪入れず、ルドルフはパッと華やかに微笑んでそう答える。少年らしいボーイソプラノが軽やかに響き、夜霧を散らすように声は続けてこう言った。


「正直ね、今日、君と狛犬のやりとりを見てて、不思議だったよ。僕さぁ、君が狛犬に雇われた後に、君たちのことを見かけたことがあるんだ。その時、僕、思ったんだよ」


 ああ、あの狛犬って子、適当なところで利用されて、呆気なく捨てられちゃうだろうなぁ、って。その頃の事、覚えてる? 君と狛犬がさ、弥生ちゃんと一緒にアルカリ洞窟群に行く直前の夜なんだけど。


 問われ、雪花は怠そうに口を開いた。


「覚えてますよ」


 小さな首肯。ルドルフはわずかに碧い瞳を伏せ、いくらか言葉を選ぶように沈黙し、それから再び話し始める。


「あれからずっと、不思議だった。どうして彼はまだ狛犬と一緒にいるんだろうって。君は、時間をかけたくらいで他人にほだされるような人間には見えない。これは僕の偏見だとは思わないよ。そう、ただ、だからこそ――」


 ――何故なのかが、知りたかった。


 ルドルフはそこまで言って、小さな溜息を飲みこんだ。教えてくれるなら、僕は君のを見逃そう、と囁いて、視線は前を向いたまま、静かに雪花の答えを待つ。


「……」


 同じようにただ前を見る雪花の瞳は、暖色だというのに温かみの欠片も無い。凍てつくような薄橙の瞳を震わせて、雪花は迷うように目を伏せた。


「……ガキだった頃に、会ったことがあるんですよ」



 水面みなもに落ちて、そのまま沈んでいくような声だった。
















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