第百七十話:オッカムの弊害
第百七十話:
まずは、今夜起こった様々な出来事の、顛末をお話ししよう。
琥珀さんの言う通り、現場に到着し、メモリーバンクと呼ばれるその中枢部分に踏み込んでから、結局、本当に問題は
総勢、7人の団体に、待ち構えていたのは野郎が2人。どちらも違う意味で死んだ魚のような目をしていたが、黒髪に眼鏡の方――
だが、砂色の戦闘服に身を包んだ長身の男――エドガルズ、と名乗った人物、というかこの前ニュースで名前を聞いた有名人であるその人は、不機嫌そうに唇を曲げたままだったことは言うまでもない。
勝手な都合で良いように解決しようだなんて野蛮だ、理不尽だ、と不平不満をぶつぶつ呟き、30秒おきくらいに、博樹さんに向かってズルだの、卑怯だのと文句を言っていた。
ただその文句も、7回目くらいにエドガルズさんが博樹さんを「卑怯だ」と言った頃。博樹さんが「そんなことよりさ……」と切り出したことで終わりを迎えた。
「聞いてよ、エド……うちの孫がさ……」から続く愚痴を聞くうちに、理不尽な出落ちに腹を立てていたエドガルズさんも、段々と博樹さんのことが気の毒になってきたらしい。
慰めながら話を聞いてやっていたエドガルズさんが、愚痴を吐き散らしながら膝を抱え、沈み続ける博樹さんを本気でフォローしなければ、と焦り出した頃。
沢渡さんとエミルさん、琥珀さんの間で話がつき、さあ、帰ろう、という話になった。本当に
帰りの車の道中、弥生ちゃんは睦月さんに今までの意地悪を謝り、思いのたけを素直にぶつけ、睦月さんもまた、正直に弥生ちゃんへの心配を口にし、最終的には、お互い、穏やかにそれを受け入れていた。
「姐さんも、僕も、おじいさまも。みんな、少しずつ気持ちがすれ違っていたんだね」と穏やかに言った睦月さんの言葉が、今も耳に残っている。
その後、自分は正式に睦月さんと自己紹介をし直した。【あんぐら】の中のプレイヤーとしてではなく、現実世界に生きる1人として。
自己紹介を終えた後、彼は呼び捨てで良いよ、と微笑んで、4人同居の話も、難しい顔をしながらも不満などはないようだった。
しかめた眉も、厳しい表情も、全ては護衛対象である弥生ちゃんと自分のことを心配しての事だったらしい。
今日からでも、と言い出す睦月に、大丈夫だから明日の夜中までに荷造りしておけ、とセリアは言った。
【あんぐら】にログインするのは荷造り終わってからにしてくださいよ、とも。
彼らは面識があるらしく、そう? 本当に大丈夫なの? と不安がる睦月に、セリアは慣れた様子で心配しすぎ、と返していた。
色々と頑張りすぎた弥生ちゃんは疲れていたらしく、自分の家に着くころにはぐっすりと寝入っていた。起こさないように車を降りて、簡単にお礼を言って3人と別れて、家に戻る。
玄関の鍵を開けて、ひんやりとした我が家に踏み込んだ。靴を脱ぎ捨て、冷たいフローリングを進み、ぼんやりとしたまま風呂場に行く。
脱いだ服は丁寧に畳み、栓をひねって熱いシャワーを頭から浴びた。湯気がもうもうと立ち上がり、自分の目で、はっきりとそれを視認できることに何となく感動する。
浴室に据え付けられた大きな鏡を覗き込んで、そこに映り込む〝自分〟を見た。左の頬を指先でなぞり、ざらりとした赤い痕跡を確かめる。
思うのは、今夜のこと。トルカナ様が言っていた〈復讐印〉。ブランが説明した、それの効果。弥生ちゃんが恐々語った、今夜、ソロモンに魔女がいたこと。
(……でも、熱くならなかったんだよな)
復讐を誓った相手が近くに居れば、熱を持つはずのそれは沈黙したままだった。だが、弥生ちゃんの話では、今夜、ソロモンには魔女がいた。それも、そう遠くない、近く、何処かに。
(なんでだろう……)
復讐を誓った相手は魔女ではない、とでもいうのだろうか。ほとんどの記憶が曖昧な自分には分からないが、一体どういうことなのか。
琥珀さん達は、魔女ジンリーが全ての元凶だと信じているが、本当にそうなのだろうか? 彼女は本当は何を思い、何を意図して動いているのか。誰もが先入観から、そう思い込んでいるだけの可能性はないのか。
――弥生ちゃんに対する行いに、確かに悪意はあったと思う。
けれど、殺すつもりなら出来たはずだ。さらうことも出来ただろう。もっと酷いことも、取り返しのつかない状況に追い込むことだって出来たはずだ。
けれど、魔女ジンリーは、そうしなかった。
(あれじゃ、まるで……ただの嫌がらせだよなぁ)
むしろ、嫌がらせの結果、弥生ちゃんは自身の抱えた問題に蹴りをつけ、大きな一歩を踏み出したともいえる。
魔女がそこまで意図したかはわからないが、それでも、今夜、魔女から弥生ちゃんに突き付けられた問題は、魔女が作り出したものじゃない。
それは、弥生ちゃんが最初から持っていたもの。いずれ蹴りをつけなければいけなかった問題。
擦り切れて、すれ違い、どうしようもなく膨れ上がっていた関係を、真実を、目の前に突き付けてみせただけ。
それを、悪辣だ、と言う人もいるだろう。けれど、いつかは直視しなければいけなかったものだ。それが早まろうが、繰り延べられようが、問題は消えてなくなりはしない。
魔女ジンリーは、本当に悪なのか? 自分の記憶の断片で、「あなたが弱いから――幸せは取り上げられたの」と言い放つ彼女の姿からは、真実を窺い知ることはできない。
様子を見る必要がある。調べなければいけないことも山ほどある。魔法の知識も、魔術の知識も、何もかもが自分に足りない。
(あ……)
不意に、鏡の中の裸の肩に小さな猫が現れる。黒っぽい、炎のように揺らめく小さなそれは、小首を傾げて鏡越しに自分を見ていた。
懐かしい感じがするそれは、鏡の中だけの存在ではない。指先を伸ばせば、柔らかい毛皮のような感触がある。
不思議と、名前をつけようとは思わなかった。ただそれに触れながら、熱いシャワーを浴び続けた。
目を閉じて、自分は思う。
懐かしい暗闇に身を浸しながら。
胸の内で眠っていた、小さな獣に触れながら。
――夜明けを思い、瞼を上げた。
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