第百六十九話:甘く、丸く、大切な――

 



 それは、トランクから聞こえてきた呻き声から始まった。


 いや、始まったというよりかは、呻き声のぬしの要望によって決定した、と言ったほうがいいだろうか。


 きらきらとしたショーウィンドー越しに並ぶ、甘くて、丸くて、可愛らしい――色とりどり、種類も味もさまざまなドーナツ達を前にして、自分は思う。



 こいつら、こんなにのんびりしていて、本当にいいんだろうか? と。



 ―――



 時間は少しだけさかのぼり、都内のごみごみした複雑な道路を走る車の中。


 自分がこの車の行き先に思いを馳せ、何でこんなことになっているんだろう、と5回くらい今夜の出来事を思い返していた時のことだ。


 吹っ切ったようなふりをして、外界に目を向け、いじいじと現実逃避を続けていた時、ともいえるだろう。




 自分は、家具はどうするとか、〝ホール〟は琥珀さんに運んでもらえばいいとか、マグは揃えようねとか。嬉しさのあまりにいつもの2倍速くらいで喋る弥生ちゃんの話に、うんうん、頷きながら相槌をうっていた。


 時刻は夜中の3時を少し過ぎたくらいで、地平線の彼方がほんのりと薄明るくなってきている頃合いだ。真夜中といえども都内のど真ん中では、閉店している店を見つける方が難しい。


 不死薬が広まって以来、際限なく続く人生を浪費するため、長続きする娯楽をどん欲に求める人々の熱意は、夜を削り殺さんばかりの勢いで拡大している。


 此処、東京26区の1つ、竜刃りゅうじん区は、都内でも特に娯楽と欲望の供給地として有名な場所だ。

 中でも、竜刃りゅうじん灰舵町はいだちょうの表通りで最も目立つのは、名立たる海外高級ブランドの路面店達。


 分厚い防弾、対魔結晶因子の向こう側には、かっちりとしたスーツを着こなし、道行く客を値踏みする店員達が控えている。店先には防犯魔獣がさりげなく伏せていて、銃火器や刃物の匂いを嗅ぎつければ、瞬く間に取り押さえられることになるだろう。


 どことなく不遜な彼らの視線を浴びながら、複雑怪奇な横合い車線を含む大型十字路を左に曲がれば、びっちりと並んでいたハイブランドの群れから離れ、魔法娯楽棟ハイラッカービルと呼ばれる娯楽街が出迎えてくれる。


 高層まではいかない、いくつもの中規模ビルが立ち並び、それぞれの箱の中では、数多の娯楽が渦を成して客と金を呑み込まんと待ち構えている。


 魔獣による模擬戦、という名目で日夜公開されている闘技場では、表向きには企業、もしくは一部の個人向け護衛魔獣の実戦お披露目という名目で魔獣同士を戦わせている。


 けれど、真夜中になれば同じリングで秘密裏に賭け試合が行われ、さらに同じビルの地下では魔獣を魔術師に変えた演目さえひらかれるという。


 ブランからは、魔術師はそういった場所に売り飛ばされることもあるのだから気を付けるように、と教わったものだが、こうして箱の外側だけを見ていると、小洒落ていて、清潔で、けれどこういう所でこそ悪徳が栄えるのだろうか、と感慨深くなってしまう。


 まあ、全てのビルで非合法なことをしているのか、と聞かれたらそうではないだろう。実体は知らないが、この娯楽街には〈ラプター・オルニス〉などの巨躯式国元こくげん会社などが所有するビルも多いのだから。


 順々に見ていくと、固定式の大型〝ホール〟によってひっそりとVR風俗を売りにしている所もあれば、大々的に広告を掲げ、魔術師と有資格魔法使いによるエンターテインメントショーをやっている所もあった。


 視界のはしに天蓋のように広がる虹彩広告レメンターから必死に目を背けながら、現実逃避は続いていく。


 世間の風潮としては、魔法使いなんてなるのに大変なばかりで魔術師に一歩どころか十歩も百歩も劣る劣化職業、という認識だが、ブランが言うには国は――いいや、世界は、魔法学という存在の認識をより多くの人間に浸透させ、質の良い魔法使いを増やしたいという目的があるらしい。


 大きな戦争がほとんどなくなり、魔術師の人権が意識され、国抱えではない魔術師が増えた結果――瞬く間に魔法使いの需要が魔術師に食い潰されて数百年。


 陸空海の安全を守るのも、ビルの撤去をするのも、被災救助も、防犯も、魔法使いが数時間、時には何日もかけて解決するものを、魔術師は一瞬で解決してしまうのだ。


 数百年前までは、それでも魔法使いはもてはやされた。何故なら、数百年前は世界各地で大きな戦争が多発していたし、魔術師はほとんどが国抱えと呼ばれる国家公務員になることが、ほぼ強制的に決まっていたからだ。


 意外なことに、戦争時は魔術師よりも魔法使いの方が重宝される。魔術師達は奇跡の体現者ではあるが、その分、精神的に脆い者も多く、戦時下のストレスフルな環境では、あっという間に死んでしまうからだ。


 そのうえ、魔法使い達には民間での仕事があふれていた。魔術師は国に仕える者達であり、一般人に混じって仕事をする、ということが少なかった時代では、まさに魔法使いは超常を操り、民間であらゆる問題を解決する魔法使いだったのだ。


 それが今や、魔法使いが就ける職といえば、公的な仕事は、瞬間効力に特化している魔術師には出来ないような、各種結晶因子の制作や、浮遊二輪レイバーンなどの複雑な魔法制作物などに限られている。


 後は、いくらでも傭兵が欲しいソロモンでの仕事など、命の危険と隣り合わせの裏稼業に走るしかない。もしくは、ごく一部の腕も、顔も良いタイプだけが、こうした魔法娯楽棟ハイラッカービルでのエンターテインメント職に就けるくらいだろう。


 自身も魔術師だと分かってからは、複雑な思いで見つめることしかできないビル群を見送りながら、車は大型十字路を右折。


 慣性に逆らわずに揺れながら窓の外を見つめれば、今度は灰舵町はいだちょうを抜けた先、同じく竜刃区の実絡みがらへと入ったらしい。


 垢抜けたデザインを突き詰めた、喫茶店や、レストランなどが多く立ち並ぶ通りは、真夜中でも活気を失わない。

 各店、それぞれのジャンルの甘い香りを振り撒きながら客を誘い、真夜中だからこそ、匂いに負け、カロリーを忘れた客達が幸せそうな顔で甘い物にかぶりついている。


 美味しそうなホットケーキの看板を見ながら思うのは、何だか、【あんぐら】でポーションの材料を探しに行った時と状況が似ている、とかそういうことだった。


 最初の目的はいつの間にかすり替わり、起きた問題を片づけている間に色々なことが起きてしまっているところとかがそっくりだな、と。


 あの時はなんだかんだ、最終的には最初の目的を達成できたから良かったが、今回の目的はすでに吹っ飛んでしまっている。

 ソロモンで魔法学の授業を受けよう、という話は、まあ当たり前といえば当たり前なのだが、リトによるプチ反乱によって授業は延期。


 被害者に関しては、今回は部分的に記憶が無いのだが、どうやら自分が全員助けたらしい。

 魂がどうの、とか。後天悪魔が、とか色々と言われたが、自分がよく覚えてない、と言ったら満場一致で「じゃあとりあえず思い出すな」と言われたので、死人も出ていないようだし思い出す努力はしていない。


 覚えている内容は酷く断片的で、セリアにその、なんだ……正気に戻される直前のことはほとんど夢のような感覚でしかない。何か色々と喋っていた気もするのだが、何を考えていたのかとか、具体的に何を言った、とかは記憶になかった。


 まあ、それでも死人が出なかったのは良いことだよな……などと考えていたのだが、ちょうどそこでだ。後部座席に座る自分の更に後ろ。トランクからの呻き声を聞き、博樹さんとエミルさん以外の全員が振り返ったのは。


 トランクから聞こえる呻き声――そう、リトによって胸に穴は開くわ、毒牙で貫かれてぶら下げられるわ、弥生ちゃんの長鎚ハンマーの余波で打ち上げられるわ、と散々な目にあった睦月さんである。


 彼はゾンビさながらのようすで後部座席のヘッドを掴み、血塗れの身体を引き上げ、息も絶え絶えにこう言ったのだ。


「おなかすいた……どっかよって」


 胸に大穴が開いて、息を吹き返した第一声がそれでいいのか、とも思ったが、彼がそう言ったことで、結局は冒頭の流れに至ったというわけである。



 そう、すなわち――、



「あの……こんなにのんびりしてていいんですか?」



 ――こいつら、こんなにのんびりしていて、本当にいいんだろうか? という問題だ。



「いいんですよ。この面子で行けば秒で終わることなんですから。あ、僕そのチョコレートドーナツも欲しいです。博樹、トレーもう1つください」


「支払いは君がやるなら、トレーなんていくつでも取ってあげるよ。でも払わないならそれ以上取るな樹木。あと取り過ぎて空にしないでよね、大人として恥ずかしいから」


「こんな時間にドーナツ……でもどれも美味しそうだし……悩むわぁ。ねえ、狛ちゃん。このハートのやつどう思う?」


「俺、アイスコーヒーだけでいいんで、先に席とっときますねー」



 ただいま、午前3時過ぎ。そう、午前だ。午後ならオヤツタイムで済むかもしれないが、午前ともなると夜食を通り越してヤバい領域に入っていると思う。


 ショーウィンドウの向こう側には色とりどり、種類も形も、味もなんでもありのドーナツが並べられていて、購入したいものはひょい、とパネルをタッチするだけで手元のトレーに滑り出てくる。


 好きなだけトレーにドーナツを山盛りにしたら、レジまで進み、飲み物を選び、指紋認証でぽん、と購入完了の完全セルフサービス型店舗。


 お客を見張るのは可愛らしいエプロンを付けたドラゴンモデルで、翼を持たないそれは機械の目をくりくりと動かして、客の様子をしっかりと観察している。


 あっという間に2つ目のトレーをドーナツで埋め尽くしている琥珀さんは、呑気にも用件は秒で終わる、とか言いながら3つ目のトレーに手を伸ばしているし、博樹さんはそれを嫌そうに横目で見ながらも、やけ食いするつもりらしい。トレーの数は1つでも、そこには沢山あるフレーバーの中から、各種1つずつ、次々とドーナツが盛られている。


 弥生ちゃんはハートとか星型とか、とにかく可愛らしい色と見た目のドーナツに心惹かれているらしく、カロリー意識とも戦った末、周りが何も気にせずにドーナツを山にしているのを見て、溜息と共に3つほど選んで綺麗に皿に乗せていた。


 セリアは早々にアイスコーヒーだけを購入して戦線を離脱。突如現れて次々とドーナツを取り合っている恥ずかしい集団から逃れ、1人優雅にがらがらと氷をストローでかき混ぜている。


 そして、どこかよって、とゾンビのような様相で訴えた張本人である睦月さんは、無言でトレーを2つほどドーナツで埋め、今まさに会計を終えて、すたすたとテーブルに歩いていくところだった。


 血塗れの服はトランクで着替えたとはいえ、未だうっすらと血臭の香る睦月さんは、無表情でドーナツに噛みつき、上品ながらも吸い込んでいるかのように次々とドーナツを平らげていく。もう本当に、エネルギーを補充しています、という感じの食べ方だ。


 エミルさんは眠いから車に残ると言っていたので置いてきたのだが、よくもまあ、ドーナツを買って食べるだけでも、ここまで性格が出るものだな、と自分以外の人達を見ながら感心してしまう。


「――ねえねえ、狛ちゃんはどれが好きなの?」


「ん? うーんとねぇ」


 ふと気が付くと、自分のトレーだけがからっぽで、弥生ちゃんの声に慌ててショーウィンドウの向こうに視線を戻す。


 プレーンなもの、チョコレート、ストロベリーに、ナッツ、ミルク、カスタード。色も、形も、味も違う。けれどそのほとんどが、甘くて、丸くて――、


「……やっぱり、チョコレートかなぁ」


 これが一番好きなんだ、とチョコレートのパネルをそっと叩く。黒に近いこげ茶色の、甘くて、丸いドーナツがトレーの上のお皿にぽん、と落ちる。


「チョコレートも良いわね……うーん、もう一個食べちゃおうかしら」


「あ、じゃあこのチョコレート、半分ずっこにしようか」


「え、いいの?」


 嬉しそうに弥生ちゃんが笑い、じゃあ私のも半分あげる! とはしゃぎだす。友達と甘い物を分け合うことに憧れていたらしい。


 何だかあったかい気持ちになって、自分も思わず笑ってしまった。そういえば、自分は子供の頃、よくチョコレートのドーナツを半分にして分けっこして食べたんだ、と言えば、素敵ね、と弥生ちゃんは微笑んでくれる。


 飲み物は何にしようか、と笑い合う自分と弥生ちゃんの向こうで、先にレジに並んでいた博樹さんが、驚いたような顔でこちらを見ていた。


 どうしたんですか? と自分が聞けば、博樹さんはほんの少し迷ってから、静かな声で自分に言う。


「狛乃さん、ゲッターの話って……覚えてます?」


「ゲッターって……【あんぐら】で話したあれですか? 覚えてますよ、だって皆してひきこもりならゲッターだなってからかってたじゃないですか……」


 苦い思い出を何故に今更、と思ったが、そういえば、と自分は思い当たる。あの時、アンナさんがドーナツを作ってくれたんだったな、と。

 甘くて、丸くて、美味しかったそれを思い出してほっこりする。ドーナツって、やっぱり好きだ。


 甘くて、丸くて、大切な――〝――――〟。


「自分だって、好きで外に出なかったんじゃないんですよ? それなのに、みんなして――」


 そう、自分だって、別にひきこもりたくてひきこもっていたわけではない。だって、じいちゃんが出るな、というから出なかっただけだ。


 じいちゃんが、「外には、出るな。窓も……見るな」って。何故って、窓の外には――〝――〟がいて……まあ、理由は思い出せないけど、多分、じいちゃんは心配だったんだろう。


 目が見えないのに1人で出かけさせるのが心配だったんだ。でも、もう大丈夫。ブランのおかげで、目も見えるし、声も出せるんだから。


 ああ、そうだ。ドーナツ、もう1個取ろうかな、どうしようかな、と悩んでいたら、博樹さんが何か、思い悩むような様子で自分に向かってたずねてきた。


「……狛乃さん。1つだけ聞いていいですか?」


「? 何ですか?」


 どうしたのだろう、と首を傾げれば、異変を察したらしい弥生ちゃんが不安そうな顔で博樹さんを振り返った。もの言いたげなその視線の先で、真剣な表情の博樹さんが、じっと自分の目を覗き込んで来る。



「子供の頃のドーナツ――誰と分けて食べたんですか?」



 薄い茶色の瞳に覗き込まれ、自分はふと悩んでしまった。



 黒に近い、こげ茶色。甘くて、丸くて、幸せな、チョコレートの可愛いドーナツ。半分こね、って言われてから渡された、半月形のふわふわのそれの、もう半分。それを持って、笑っていたのは……。









 〝――〟は、春の野花のような人だった。温かくて、柔らかな甘い匂いの。〝――〟はいつも微笑んでいて、小さな自分の頬をふんわりした手で挟み込み、額にキスを落としてこう言うのだ。


「狛ちゃんは、ドーナツ、本当に好きねぇ」って。


 そう言われたら、自分はいつもこう返した。


「ううん。狛乃ね、〝――〟が好きだから、好きなんだよ」




 そう、甘い物は何でも好きだったけど、〝――〟の好物だから、もっと好きだったんだ。あれ? でも、誰だったっけ? 誰に、そう言ったんだっけ?




「あれ……そういえば、誰だったかな……」



 思い出せない、と首をひねる自分に、博樹さんはそうですか、とだけ小さく言った。



 それきり、何も聞かなかった。


















 でも、これだけはちゃんと覚えている。



 甘く、丸く、大切な――柔らかな匂いの、幸せな形。大切なものを思い出させる、甘くて、丸い、こげ茶のドーナツ。




 甘く、丸く、大切な――……、
















 第百六十九話:――けれど、「無効」になった思い出






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