第百六十四話:ブルー・ギャング・ラプソディⅠ



第百六十四話:荒くブルー・れ者のギャング・狂詩曲ラプソディ




 迫る夜明けさえ知ることの出来ない地下世界にて。


 自分はどこか場違いにも、熱いシャワーを浴びたいな、などと考えながら後ろに跳んだ。先程からもう幾度も繰り返した、実に退屈な動作だ。


 目の前を紙一重で黒い鱗に覆われた大蛇の尾が通り過ぎ、宙で燕のようにひるがえるのを眺めながら溜息を吐く。


 ただの人間からすれば、リトの尾はびっしりと棘が生えた黒鞭とよく似ている。逆立てた尾が空気中の因子すら削り取るように――いや、実際、自分ので見る分には派手に削りこみながら――超高速で振り下ろされ、一撃、一撃が致死級の攻撃といっても過言ではない。


 ――けれど自分が無造作に右手を振るえば、炎の波が黒い鱗を焦がし、溶かし、ナイフの刃を潰すように台無しにする。その気になれば、こんな脆い生き物、一瞬で倒せてしまうだろう。


 空中に浮かんだ熱を足場にすることだって簡単だった。毒牙が閃く様子も、藍色の瞳がこちらを睨みつけてくる視線も、些細なことでしかない。

 振るわれる尾はまるでのろまな大繩跳びの縄のようで、わざわざ全部を避けてやる必要すら無い。


 やろうと思えば、その牙に貫かれた人を助けることも出来ただろう。華麗に力を振るい、実力差を見せつけて、敵の惨めさを笑いながら――ああ、めでたしめでたしの大団円。


 けれど、それでは何の意味も無い。


 自分は何度も繰り返した動作をなぞる。すなわち、右腕を振り上げて、ごく弱火に手加減した熱波を放ち、リトの意識をこちらに集中させながらか弱い攻撃をただいなす。


 ひたすらにそんな行いを反復しながら思うのは、新緑に輝く緑の瞳の彼女の事だ。


 ああ――ああ、彼女の。彼女の叫びを、誰か聞いただろうか。血を吐くような絶叫を、誰か聞き届けてあげただろうか?


 細く、長く寒雨にうたれるような辛さがあった。自身へ向けられる愛情へと抱かれる、憎悪と感謝と、愛着の入り混じった熱があった。吹きこぼれそうなそれを片割れに向ける日々。後悔しながらも止められない罪悪感が、彼女の瞳を暗く燃え上がらせていく。


 誰か、彼女の叫びを聞いただろうか。聞き届けてくれるだろうか。


 仮初とはいえ目の前で家族を殺されて、心まで踏みにじられた彼女の叫びを、誰か。


「……」


 同じだ。彼女と、自分は。結末がほんの少し違うだけの、悲しみに溺れかけた者。


 ある日突然現れた悪意に踏みつけにされて、涙すら流せずに、どうしてこんな酷いことを、と喘ぐしか出来なかった、無力で、哀れな――。


「――!」


 知らず、炎熱の出力が上がる。深紅の炎に焦がされる痛みに、ひりつくそれにリトが悲鳴を上げる。だが、その巨体からすれば致命傷からはほど遠い。まだまだ全然、命の終わりからは遠い場所にいる。



 ――……彼女の青褪めた唇に、引かれた朱の色を見ていた。触れた魂の半分から、赤いそれの正体を知っていたから。悲しみと、家族の倒れた恐怖に戦慄わななく唇に、浮かぶ死者の血の色に、悪魔はうっそりと目を細めていた。


「……」


 振るわれる尾を弾く。無造作に足を振るだけで、巨大な蛇はよろめいた。でも、殺すような真似はしない。手酷い傷も負わせず、巨体から繰り出される暴力をいなし続けるだけの自分に、リトは叫ぶ。


「何が、何が目的なんですかぁ? 見逃す気があるのなら!」


「ないよ」


 怯えと焦りの含まれた叫びに、自分は淡々と返事をする。期待を持たせたなら悪かったが、そんな気は無いのだと。


「それじゃあ、どうして――!」


「どうして?」


 オウム返しに繰り返し、自分はきょとりと首を傾げる。はためく上掛けを片手で押さえながら、立ち止る。


 身構えるリトも、休息のためか動きを止めた。散々に振るった尾を揺らすだけに留め、大きな蛇は威嚇のためにかシュー、と小さく鞘鳴りのような音を立てて息を吐く。


「何故、まともに戦わないくせに私の邪魔を――!」


「彼女だけが、君を狩る権利を持つからだよ」


「――」


 答えに、蛇は絶句する。いや違う。リトが、巨大な黒蛇が絶句したのは、指さす自分の言葉に反応して、ようやく彼女を振り返ったからだろう。


 戦いが始まってから、音も、姿も、気配さえも「無効化」されていたせいで、気が付けなかった存在に気が付いたから。


 ガラスをはめこんだような藍色の瞳の視線の先に、彼らの恐怖がしている。視覚だけでもと魔術を解除してやった今、リトと彼を阻むものは何一つ存在しない。


 未だ声こそ聞こえずとも、そこに在るだけで周囲を圧殺しそうなほどの圧力を纏う彼は、リトにとっては他の誰よりも恐ろしいことだろう。


 今までの歴史の中で、最も多く蛇の魔獣をほふってきた存在は何か? といえば、それは狼でも、虎でも、ましてや竜でもない。


 それは、2つの種族の身体を持つものたち。美麗なる生き物たちの、良いとこ取りの美しさを極めた合成獣キメラ。呑気で穏やかと言われるノアグリフォンでさえ、怒れば敵を八つ裂きにすることを躊躇いもしない、幻獣界きっての荒くれ者ブルー・ギャング


 それは、獅子の下半身と鷲の上半身を持ち、全身を黒銅色に染める、緑の目の怪物だった。燐のように燃える瞳が涙を零す彼女に寄り添いながらも――今までこちらになんか見向きもしなかったくせに、不意に視線だけが稲妻のように跳ね上がる。


 視線に込められているものは、言葉に出来るような単純なものばかりではない。けれどあえて表面だけでも言い表すならば、殺意が2割、気怠さが8割といったところ。

 俺の相手としては力不足、そんな考えを隠そうともせず、けれど彼はやる気にはなったらしい。


 一方、大蛇は動けない。蛇に睨まれた蛙、とするのは皮肉に過ぎるか。真冬の空に上がる満月のような光を放つ濃い緑に、リトは全身の筋肉を強張らせて硬直する。


 悪魔以前に、蛇の魔獣。自分が調べた歴史が正しければ、リトにとっては悪夢のような出来事だろう。無力な獲物だと思っていた者に狩られる恐怖。悪を楽しみ、喰いさしを残したがゆえの破滅の羽音。


「冗談じゃないです――ッ!」


 どう足掻いたとしても敵うはずのない相手に、リトの決断は素早かった。それは、なけなしの本能による生への執着。殺すな、生け捕りにしろなどという連絡など――ソロモンにおける法など鼻で笑って無視するだろう相手からの、全力逃避。


 硬直する身体を叱咤し、巨体が即座にひるがえる。彼の――ガルメナの視線の先で、黒い大蛇が恥ずかしげもなく背中を見せた。


 自分の横をすり抜けて、目指すはこの層に来るために、リト自身が床に開けた大穴だ。

 大穴と言えども、リトの身体は蛇の身体。大蛇は通り抜けられても、ゾウほどもあるガルメナの身体は通らない。


 自然、リトを追うなら床を壊すだろう。些細な時間稼ぎにしかならないかもしれないが、所詮は影。冥界への呼び声に応えた刹那の写し身。

 ガルメナに手間をかけさせればかけさせるほど、無駄な力を振るわせれば振るわせるほど、召喚者の疲労は増し、影は再び冥府に戻る。


 ……ただ立ったまま、その様子を見守る自分を、藍色の瞳が一瞬だけ映し出す。

 目には恐怖。自分が、このまま逃がしてくれるわけがない、という考えがリトの瞳に迷いを投げる。


 しかし、迫る死から逃れるために、リトは止まらない、止まれない。


 けれど、リトは気が付かない。


 自分が、何故黙って見守っているのかを。何故、逃げ道を塞ぐ素振りさえ見せないのかを。


 気が付かないまま、リトは跳ねる。全身、黒い鱗に覆われた大蛇の姿のまま、床の大穴に頭からの飛び込みの姿勢。


 獲物を毒牙に突き刺したまま、ひし形の頭が宙に浮く。男の足が哀れにも揺れ、白銀灯でひしめく天井に近付いたために照らされた黒い鱗が、オパールのように輝いた、その瞬間。


 両翼を広げ、獅子の後ろ脚で床を破砕しながら弾けるように浮かぶ巨体。一瞬の停滞の後、冠羽を逆立て、ガルメナが勢いよく腕を振る。

 右の前足、鈍色の鉤爪に掴まれていた何かが投げつけられ、それは狙いを違わずリトの元へと飛んでいく。


 風を孕んで舞い上がる金の髪。燐のように燃え上がる緑の瞳に、戸惑いが掠めたのは、ほんの一瞬。


 萌黄もえぎ色のケープをはためかせ、血痕の散る白のキュロットから伸びる生足が、鋭く縦に振られて空気をし、それを足場に加速する。


 手に煌めくは、銀の長鎚ながつち。その美しさとは裏腹に、破壊を散らす破滅の討鋼うちがね


 それは白い稲妻のように空を走り、跳ね上がり――



「るぁあああ――ッ! 【インパクト】!!」



 ――勇猛果敢な獅子吼ししくと共に、大蛇の顎を真下から打ち上げた。








  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る