第百六十五話:正しさは、見つけられない











第百六十五話:――それは誰にも答えられない























 ――獅子吼ししくと共に銀線が走る。


 振りかぶられた長鎚ハンマーは真下からリトの顎を打ち上げ、飛び込みの姿勢で宙に浮いた巨体が、まるでトラックにねられたかのように打ち上げられた。


 突然の衝撃に蛇は投げ出されたゴム紐のようにのたうつが、魔法を使う余裕もないリトに足場は無い。

 軽い脳震盪に硬直しながら、無様な姿勢で、惨めにもリトは地上に落ちる――ことはなく。


「ま――だ、まだぁああ!!」


 咆哮。


 容赦なく長鎚ハンマーを振り抜き、巨大な蛇を打ち上げた姿勢の弥生が絶叫する。振り上げられた討鋼うちがねは反転。全身の筋肉をバネのようにたわませ、弾き、その細腕に見合わない膂力で斜め上に向かって掬い上げるようにフルスイング。


 魔法で風を圧縮し、物理法則に真っ向から歯向かい、一瞬でトップスピードに乗った鋼の塊が、半月を描きながら振り抜かれる。

 銀色の流星と化したアッパーブローが狙うのは、上下四対の毒の牙。地獄の門を連想させる、翡翠がかったそれの左下。


「【スタンプ】!」


「――――――ッッッ!」


 蛇の牙がへし折れる時の痛覚など、人には一生わからぬもの。けれどその痛みは、リトの声にならない悲鳴によって、この場の誰もが知ることになる。


 引き絞られるような苦鳴と共に顎が開かれ、1つでも牙が砕かれたことで、下顎で掬うようにして毒牙に留められていた睦月の身体がぶらりと宙に投げ出されかけた。


 それと同時に、砕けた牙の根元から透明な毒液が辺りに飛び散る。広く散らばる毒の雫は、床にも、そこに転がる様々な物にも飴色の穴を開けていく。


 逃走本能も忘れて見物を決め込んでいた馬鹿野郎共から悲鳴が上がるが、雨のように降りしきるそれを、狛乃は面倒そうにちょっとだけ横目に見て、腕の一振りで蒸発させる。


 赤い炎が膜のように人々を覆い、それに守られているうちは絶対に安全なのだと確信した野郎共は、狛乃に向かってサムズアップなどしながら観戦を再開する。

 先ほどまでは命の危機に悲鳴を上げていたくせに、今や完全にスポーツ観戦気分の彼らに、狛乃は疲れた様子で溜息を吐いたが、命知らず共が逃げ出す様子はない。


 反面、真剣な眼差しで狛乃が見やる視線の先、弥生は一瞬たりとも迷う様子を見せなかった。


「いい加減に――返してもらうわ!」


 飛び散る毒液も何のその。全身からの放電――魔力放出による原始魔法の余波――によって雫も、そこから気化する毒の煙も、何もかもを振り払いながら弥生は武器を握らぬ左腕を伸ばしきる。


 細い五指が掴むのは、彼女の片割れ、彼女のきょうだい、彼女の家族。

藤堂睦月という名の優男の首根っこを引っ掴み、弥生は全力で腕をひく。


 手首のスナップを利かせ、ふくらはぎを貫く毒牙から睦月の身体を取り返し、優雅な着地と共に彼女はその身体を――。


「狛ちゃん、お願い!」


「はいはい」


 ――狛乃に向かってぶん投げた。


 狛乃は投げつけられた哀れな男を片手で掴み、勢いを利用したままくるりと空中で回転させて、最後に炎のクッションで柔らかく受け止める。


 平時であれば、弥生もそんな暴挙はしでかさない。けれど、今はその時ではない。イトコを優しく労わり、ベッドに寝かせ、大丈夫か、と問う前に。やるべきことが、他にある。


「――ガルメナ!」


『呼び捨てとは良い度胸だ、小娘』


 悲鳴のような呼び声。空中で武器を構え直し、のたうつ蛇の反撃を警戒しながら弥生が叫ぶ。

 途端、黙って見守っていたガルメナが翼を広げ、瓦礫を跳ね飛ばしながら床から飛び立つ。柔らかく風を操り、その巨体に比べれば小さな人間を背中に乗せた。


 騎乗者と同じように見えて、輝き方の全く違う緑の瞳には、か弱い敵への退屈と、束の間の〝使われる側〟を楽しむ余裕の色。ガルメナが手を下せば一撃で全てが終わる――弥生もそう考えて彼を呼び出したのだが、彼には全くその気が無い。


『全ては、お前がやるべきことだ。わかるな?』


 優しく、しかし、厳しく諭す父親のようにガルメナは言う。その様子は、さながら獅子が我が子に狩りを教える様子によく似ていた。ただし、彼はだけのつもりは毛頭ない。


『だから、使――やれ』


「……はい!」


 小気味のいい返事が、破壊の余波で暖房が途絶え、底冷えするような寒さが忍び寄る空気を切り裂いた。

 弥生の右手には、銀の長鎚ハンマー。左手はほんのわずかに迷った後、しっかりとガルメナの羽毛を掴む。


 さながら、神話の戦乙女にも似た構図。緑の瞳のその先には、のたうちながらも地に落ちる大蛇の姿。

 床に落ち、無様にも牙を折られた痛みにリトはもがく。毒液を散らしつつ、長い尾が八つ当たりをするかのように振り回され、机を砕き、書類棚を牽き潰す。喉からは、哀れな悲鳴。


「いたい、いたい、いたいぃい――!」


 ソプラノの少女の声で悲鳴を上げつつ、のたうち回る巨大な黒蛇。白銀灯に照らされて、その鱗は深みのあるオパールか、黒真珠のように鈍く輝いた。聞くものの罪悪感を煽る声に眉をひそめながらも、弥生はふと、それに見惚れて目を細める。


 これまで、弥生は魔獣を美しいと思ったことは無い。


 調教師に連れられて、その首に結晶因子のくびきをかけられ、ただ命じられるがままに行動する機械のような生き物達を、美しいと思ったことは一度も無い。


 何故なら、彼らの目は、常に濁る泥水のように淀んでいたから。文字通り命を対価に、心を折られ、彼らは、ただ生き延びるためだけに人間達に従っている。


 竜混じりも、魔獣も、知的生物でありながら、多くの国で、その立場はあまりに弱い。自ら望んで、〝職業〟として人間の護衛をしているモノなど、数えられるくらいにしか存在しない。


 反面、睦月が野生に生きる幻獣や魔獣のたぐいを、本当に美しい、と評するのもわかる気がした。

 野生に生き、自由を謳歌する彼らの首に枷は無い。思うがままに人を喰らい、時には優しさを振り撒いて――そして自由であるがゆえに、彼らは何よりも美しい。


 目の前の大蛇も、美しい生き物だ。だが、その内面には、魔獣としても異端とされる、よじれた心根が詰まっている。

 生来の悪を抱くがゆえに、何者をも愛せない、何処にも属せない――そして、その歪みのままに、膿んでしまった魂が――、


「いたい、いたいよぉ――――」


「――」


 悲鳴の中に、か細いノイズが入り混じる。すすり泣くような声。転んでしまった幼い少女が、母親を呼ぶかすれた声。


 意味を、理解しかねて――いいや、理解したくなくて、弥生は止まった。息をつめ、耳をそばだてる。空耳だろうかと祈る気持ちを無視し、リトは牙を砕かれた痛みにすすり泣きながら母親を呼んでいた。


「いたいよぅ、いたいぃぃい――……」


 耳を塞ぎたくなるような声だった。不愉快からではなく、声が、あまりに悲痛に過ぎたから。


 復讐を果たさんと、長鎚ハンマーを握りしめていた右手から力が抜ける。代わりに左手は――ガルメナが何も言わないのを良いことに――握るその手に痛みさえ感じるほど黒い羽毛を握りしめた。


 吐く息も、吸う息も浅くなる。焦燥に押しつぶされそうな心が、矛盾を声高に叫んでいる。


 ――リトの行いは許されない、殺さずとも叩きのめせ、と叫ぶ自分。


 ――睦月は取り戻したのに、まだ追い打ちをかけるのか、と囁く自分。


 それは、弥生の甘さゆえの迷い。あるいは、真っ当な人間としての理性が叫んだのかもしれない。


 睦月は死んだわけではない、というのも大きいだろう。既に一撃、牙を一かけ打ち砕いた、というのもあった。リトが想像よりあんまりにも、哀れっぽく泣いているから……。


 最初から、殺すつもりはなかった。ガルメナが自ら手を下す気が無い以上、無理に殺す必要も無いと考えていた。


 だが、本当に、これ以上の戦いは必要なことなのか?


「……っ」


 悪魔は、何者をも愛せない。彼らは、何処にも属せない。


 その鱗の下にぎっしり詰まったはらわたには、髄まで悪逆が染み渡っていると信じていた。


 悪魔に身をやつした魔獣達は、調教師に飼われる魔獣と同じく、魔女の手先として動くだけの人形だと、弥生はずっと信じていたのだ。


 だがしかし、リトのか細い声は母を呼ぶ。涙声で母を呼び、痛いよぅ、と泣く彼女は哀れだ。いいや、それだけではなく、それ以上に、


『……悪魔堕ちの魔獣が情を持つとは、面白い時代になったものだ』


 それが血の繋がった母かは知らんが、と。低い声が呟いた。その声に、感情を見つけるのは難しい。けれども、召喚者である弥生には、ガルメナの感情がぼんやりとわかってしまう。


 ――哀れみだ。


 影より伝わるその感情が、哀れみだと気が付いた時。弥生の震える唇は、考える前に動いていた。


「どうして――っ、どうして、あなたは魔女ジンリーに従っているの!」


「いた……」


 痛い、とすすり泣く声が止まる。潤んで、濡れた果実のような藍色の瞳が、ガルメナに乗った弥生を見た。


「どうして、どうしてよ! 私、あなたに何もしてない! 魔女にだって何もしてないわ! おじいさまが魔女と対立したから? それだって、私には関係ない!」


 悲鳴のような問いだった。ずっと心の内側に抱えていた疑問が、今になってあふれ出していた。


 何故、私や睦月が狙われるのか。何故、リトは魔女なんかに従うのか。何故、あんな酷いことが出来るくせに――おかあさま、と呼ぶ声に、確かな愛が滲んでいるのか。


 理不尽だ。あんなに酷いことをされたのに。やられたのは自分なのに、何故自分が、こんな罪悪感を抱かなければいけないのか。


「答えてよ!!」


 ぐちゃぐちゃに混ざり合った感情に揺れる声に、リトは泣くのを止めて頭を上げる。

 鎌首をもたげ、二股に分かれた舌を出し、鞘鳴りのような威嚇音と、藍色の瞳いっぱいの涙と共に咆哮する。


 三つに欠けた牙を開き、ガルメナに乗る弥生に向かってリトが動く。ガルメナが顔をしかめて防御のために翼を広げ、弥生が答えの得られなかった問いの結果に、細い眉を下げた瞬間。



「――ダメだよ、聞かれたことにはちゃんと答えなきゃ」



 怖気を感じるほど静かな声がそう言って、がリトを叩き落した。



「弥生ちゃんが聞いてるんだから、ちゃんと答えなよ」



 まるでそれが、当然だというように。



「ね、弥生ちゃん」



 悪意も無く、共感する悲しみも無く――狛乃は、微笑んでそう言った。






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