第百六十三話:遠雷に吼えるヴィーナスⅡ




 東の空に星が瞬く。


 夜明けを連れて、それは瞬く。


 金色の星。


 明けの明星と名高い金星が、段々と明るくなっていく空に浮かんでいる。遠くからの太陽の光にかき消され、次々と退場していく星々に取り残されながらも、金星は東の空で瞬いている。


 深い灰色に染まる空。夜明け前の――世界が最も暗くなる薄明の刻。


 彼らは、グリフォンは、その一時だけ人々の目に留まる場所を飛ぶ。金星の女神に仕える聖獣のように。あるいは、金星の化身としての義務を果たすかのように。


 彼らは絶滅した、と叫ばれた現代でも、それは変わらない。


 その日、ガルマニアとドグマ公国の国境で、1頭のグリフォンが空を舞っていた。黄金と朱色の混じる羽根を目一杯に広げ、夜明け前の一瞬を祝うように空を駆ける。


 燐のように燃える緑の瞳が世界を睥睨し、雄々しくも美しい獅子の爪を見せつける。鋼色のそれは月と太陽が同居する空に閃き、反らされた喉は、地上のどこかにいるはずの愛し子へと祝福の声を上げていた。


 長く……果てが無いかのように、国境線沿いの空を舞いながらグリフォンは歌う。それが誰に向けての歌なのか、何を祝ってのものなのか――。


 それを知る者は、此処にはいない。


 けれど歌声は遠く離れた地上の、否、地獄にほど近い地下世界にて――引き継ぐように紡がれ始めていた。






















 第百六十三話:遠雷に吼える金星ヴィーナス



























 それは歌のようだと、誰もが思った。



「〝遠雷――それは遠き者〟」



 鈴を転がすような声で彼女はうたう。



「〝夜明けを連れてやってくるもの 夜が明けていくのを見送るもの〟」



 細くたおやかな足は流れるように小さなステップを刻み始め、緩く、そっとおし開かれた緑の瞳は、残光を残しながら宙に美しい紋様を描いていく。


「〝遠雷――それは明星〟」


 萌黄もえぎ色の、流水のような薄いケープが半歩踏み出すと共にひるがえり、先端に並ぶ飾り房が小さな火花のようにパッと散っては流れていった。その度に、空気に柔らかな震えが走り、ほう、と誰かが吐息する。



「〝夜明けを告げる金の禍星まがぼし 日没を告げる赤銅しゃくどうの鐘〟」



 粉々に砕かれた瓦礫の上で、黒の蛇と炎がぶつかり合う轟音の中で――けれど、狛乃が約束した通り、舞台にはそよ風一つ吹きはしない。


 今や、ソロモン本部、地獄への階段を3つほど下りたこの場所から、逃げ出そうとする者は1人もいない。誰もが舞台の上の弥生に魅入られたまま、恐怖さえ忘れて陶酔に感嘆の声を上げるばかり。



「〝遠雷――それは1人の王の名前〟」



 右に、左に、前に――進んだ先で、弥生の細腕がひるがえる。片割れの血に染まり、朱に染まる白のキュロットの腰襞から、彼女は銀の輝きを抜き放つ。

 全身、血に塗れている中で、曇りないのは彼女の瞳と、その銀の輝きだけだった。



「〝もっとも黒き翼の王 空より舞い降り地を制したもの〟」



 それは、白銀に煌めく鈴蘭が刻まれた銀の討鋼うちがね。戦いのためだけに作られた、長鎚と呼ばれる魔法使いのための、長杖にも、あるいは敵を貫く槍にも似た優美な魔法のための鎚。


 警棒のように腕の一振りで伸ばされて、それは魔力の流れを作り出す。軽やかなステップと共に振られ、回され、世界を変えるための全てを鋭く刻み込んでいく。



「〝遠雷ガルメナ――それは今は遠き者〟」



 不意に、詠唱に涼やかな声がだぶる。遠くで遊ぶ、無邪気な子供のような声。それが呼び声に集った精霊の声なのだと、一体何人が気が付けただろう。


 彼らは嬉しそうに囁き合う。弥生が〝遠雷〟と謳う度に――〝ガルメナ〟と。かつてガルマニアにて空を捨て、自らの黄金のために地を制した、最も古き王の名前を。



「〝遠雷ガルメナ――それはいずれ此処に至るもの〟」



 銀の長鎚が振るわれる。くうを打ち、因子をとどめ、張られた陣に決定的な力を打ち込んでいく。魔法陣から跳ねる紫電に焦がされて、金色の髪が舞い上がった。新緑の瞳はますます輝きを増していき、今や照らし出された宝石よりも美しい。



「〝遠雷ガルメナ――! それは私の血に続くもの!〟」



 宣言が、声が、呪歌じゅかにも似た詠唱が謳いあげられ、世界を作り変えていく。それは魔を扱う者の第一法則。傲慢さに裏打ちされて、魂さえをも作り変える奇跡の似姿。



 ――力なき者を力ある者に。凡人を天才に。只人ただびと稀人まれびとに。



 ――……魔術の才なき柔革やわがわの子を、




「〝遠雷ガルメナ――! それは――!〟」




 悪魔をほふる――誇り高き鷲獅子ヴィーナスに。




「〝――私の忌み名と心得よ!!〟」




 銀の流星のように長鎚を振るい、弥生は叫ぶ。ガルメナ――その気高き血の末裔が呼んでいると。精霊に、世界に、何よりも自分自身に呼びかけた。


 彼は冥府の果てより此処にやって来る者であると。遠雷――〝ガルメナ〟。その名は我が忌み名……真実の名前であり、私こそがその依り代になり得ると。



 そして――一世一代の大魔法は此処に成る。



 床に、宙に刻み込まれた魔法陣が新緑の輝きを解き放ち、中央に立つ弥生の影は瞬きの間に膨れ上がった。膨大な魔力と精霊の助けを借りながら、影は凝るように因子を頼りに骨を組み上げ、肉を貼り付け、遠く冥界より呼び起こした魂を入れる借宿を作り出す。


 獅子の尾が転がる瓦礫を苛立たしげに打ち払い、続く獅子の後ろ脚が汚れた灰色の床を踏みしめる。漆黒の毛並みが固い腰骨を覆っていき、それはいつしか濡れ羽色の羽毛に変わっていった。


 巨大な鉤爪が粘土を抉るように床に突き立ち、夜空よりも黒いたてがみのような冠羽が震えながら形作られていく。強靭な筋肉に覆われた太い首に続くのは、丸みをおびた堅牢な頭蓋骨。


 閉じられたままの眼窩に瞳は未だ作られず、先に赤銅色のくちばしが現れる。何も無かった肩口にも影が集まり、人工映像にも似た性急さで巨大な両翼が組み上げられた。


 蝶の羽化のように濡れた感触の強い翼がゆっくりと広げられ、羽ばたきの時を待ち構える。


 そうして最後に、夢の余韻に浸るように震えた瞼が開かれて、燐のように燃える緑の瞳が瞬き、不愉快そうに目の前の人間を見下ろした。



『ふん――くだらぬことに俺を呼びおって』



 低い声が人間の言葉で皮肉を放ち、赤銅色のくちばしが嘲笑うように歪められる。リトに負けない圧迫感を携えた黒の巨獣は、自身にひるまず見つめ返す弥生を見下ろして、クッ、と笑んでは翼を広げてこう名乗る。



『金星の化身が一柱。遠雷――ガルメナだ』



 くだらぬ理由で、よくも再び俺を呼び出したな小娘が、と吐き捨てる声は冷たく、燃える緑の瞳は不愉快そうに細められ――不意に、怪訝そうにガルメナは弥生に問う。


『おい、小娘。此処は何処だ? お前が言っていた〝試験〟とやらの場所ではあるまい』


「――」


 ちら、とリトと狛乃の戦いを横目にし、大して動じた様子もなくガルメナは溜息をつく。


『お前の器ではいたずらに俺を呼びだすことは出来ないと、師にも教わっていただろうに。何故、目的の果たせぬ時に俺を呼んだ? 理由次第では、貴様、八つ裂きにしても飽き足らぬ。だが、どんな些事さじにも因はあろう。弁明は聞く。――小娘、申してみよ』


「――」


 静かに、だが偽りを許さない王の命令。しかし、弥生は揺るがない。燃える緑の瞳を睨み上げ、弥生は緊張に頬を強張らせながらも迷いなく弁明を口にする。


「王よ、恐れながら申し上げます。――あの黒蛇、あの牙に貫かれた男が見えますでしょうか?」


『……ふむ、あれがどうした?』


 さして興味もなさそうにガルメナは問い返す。哀れよな、と口では言うが心底どうでもいいと思っているのがよくわかる態度でガルメナはその場に座り込む。


 対する弥生は唇を噛みしめ、理由次第では八つ裂きにせずとも俺は動かぬ、と態度で示すガルメナを睨む、睨もうとして、その輝く緑の瞳にすがるような色がかすめたのは、無理からぬこと――などとは、ガルメナは思わない。


『……不満か、小娘』


 呼び声に応じたとしても、ガルメナには自由意思がある。彼は最も古き王の1つ。ましてや、人の理は知りながらも、そんなものに従う謂われなどない身の上である。


『挫けるなよ――八つ裂きにする価値もなくなる』


「……ッ」


 その精神は竜にも似て、けれど決して同じではない。ガルメナにはガルメナの信念があり、それが揺らぐことなど、死して冥府に居を構えるようになった今でもあり得ないことなのだから。


『二度は言わぬぞ、小娘。……申してみよ』


 欠伸まじりのガルメナの声に、弥生は骨が軋むほどに拳を握る。ガルメナの言うとおり、ここで挫けてしまえば全てが無駄になる。


 二度は言わない、と彼は言った。言ったからには、二度目は言葉にする前に、鈍色にびいろの鉤爪が全てを片付けてしまうだろう。


 息を殺し、不安も焦りも押し潰し、弥生は震える声で黒獣の王に申し立てる。


「あれは……あれは、私のいとこです。私と共に育てられた、私の兄弟、私の家族です」


『……』


「だから……だから、あなたを呼びました。私に、私にとっては……彼は……」


 ――上手く説明しなければ。


 どうにかして自身の価値を示さなくては、今にその爪で切り捨てられる――そんな強迫観念に責め抜かれ、弥生の震えは増していく。


 混乱する弥生の脳は、どうすればいいの、と悲鳴を上げていた。わからない、わからない……何を言えば睦月を助けられるのかがわからない、と。


 何故、試験でもないのにガルメナを呼んだのか? そんなの、本当は弥生自身でだってわかっていない。


 だって、それしかないと思ったのだ。自分がリトに打ち勝つためには、ガルメナを呼ぶしかないと。


 でも、じゃあ、それはどうして? だって、このまま狛乃に任せても、目的は達成できる。〝睦月を助け出し、リトを倒す〟だけならば、一言狛乃にこう言えばいい。


 ――〝狛ちゃん、睦月を助けて。リトを倒して〟と。


『そうさな……それは最も合理的だ。現にあの狛乃とかいう者は、お前よりも簡単にそれが出来るだろう。……小娘、お前は激情になど流されるべきではなく、冷静に判を下し、最もふさわしい場所にて俺を呼びだすべきだった』


 まるで弥生の心を読むように、ガルメナが相槌と共に肯定の意を述べる。いや、いいや、ガルメナは心を読んだのではない。


 今や弥生とガルメナは、影を通して異体同心のようなもの。そう、本当ならガルメナは、聞くまでもなく弥生の事情などわかるのだ。その想いも、感情も、ガルメナを呼びよせた衝動の根源だって、彼は手に取るようにわかるはず。


 けれど彼はそうしない。誇り高き黒のグリフォン――ガルメナは、人の心を無下にはしない。魂、心、その精神――それらは全て、一切不可侵の聖域であるとして、その旗の下にガルメナはかつてガルマニアという一国を治めたのだから。


 それでもガルメナに伝わったのは、それだけ弥生の心がそう叫んでいるからだ。心が、魂が、その表層が叫んでいる。


 お前の決断は間違いだ、と。何故、意味の無い選択を貫いたのか、と。どうしてもっと賢くなれないのか、と。弥生の魂の一部がそう叫んでいるからだ。


 では、その叫びはなのか。


 心が、魂が、一部でもそう叫ぶのなら、それは弥生という存在が導き出した、心の奥底の真実ではないのか?



「違う……――違うわよ! そんなわけない! それが私の本心? 馬鹿馬鹿しい……!」



 違う、と彼女はそう叫ぶ。



「私は誓ったの! 誰に?――もちろん私自身によ! 本当に欲しいもののために、もう2度と迷わないって誓ったの!」



 瓦礫の中央に座すガルメナと向かい合い、弥生は抑えきれない熱を吐き出すように、烈迫の叫びを上げていた。



「私はただ魔法使いになりたいんじゃないわ!」



 悲鳴にも似た絶叫が世界を震わせ、ガルメナがゆったりと首をもたげて小さな人間を見下ろした。

 緑の星は瞬き、沈み込むように色を深くし、その内心は読み取れない。



「睦月の隣で、背筋を伸ばして立てるようになる力こそが、私が本当に欲しいもの! なのに、助けも仇討ちも人任せなんてあり得ない!」



 細い両足で床を踏みしめ、弥生は肩怒らせながら叫び続ける。


 そうだ、そんなことは、何においても許されることではない。たとえ誰が許しても、弥生自身が許せない。



「人に任せて、合理的で、大団円で――? それで一体、どんな顔して会えっていうの!? 仇は全部狛ちゃんがとってくれたわよ、って? あんなに散々馬鹿にされたけど、何もかも踏みにじられたけど、最後は助かって良かったね、なんて、そんな、そんなの――許せるわけないじゃない!!」



 吼える――。弥生はガルメナにひた吼えた。



 このまま終わってなるものか、と。


 何もかもを踏みにじられたまま、全てを人に任せて敵を逃がすことなど許されない、と。



「だから呼んだの――そうよ! だからあなたを呼んだのよ! 理由が聞きたいならよく聞きなさいよ! 私はあの蛇女を許さない! あいつに報いを受けさせるためだけに、私が持てる一番の力を呼び出した!!」



 文句があるなら八つ裂きでも何でもすればいい。


 けれど、私は偽らない。譲らない――。



「許さない――」



 睦月の胸を貫いた、あの白い腕を覚えている。



「許さない――」



〝応援してますよっ〟などと弾むように言いながら、残酷な色を滲ませて笑う藍色の瞳を覚えている。



「許さない――」



〝あなたの家族ですー〟と囁きながら、手渡された睦月の身体の熱さも、冷たさも覚えている。


 そしてその大切な片割れの身体を、言われるがままに手渡した――あの瞬間を、覚えている。



「許さない――ッ」



 ――覚えている。



「絶対に許さない――ッ!!」



 叫びと共に散る紫電は、弥生の怒りに呼応して跳ね回る。緑の放電を水のように毛皮に浴びて、ガルメナがゆるりと立ち上がった。


 巨獣の表情は飄々としたまま変わらない。緑の瞳は冷たく弥生を見下ろしていて、それでもなお、弥生は遠雷に向けて吼え猛る。



「王よ! 遠雷――ガルメナよ! あなたが真に誇りを尊ぶならば――」



『もうよい』



 不意に、凍える声が弥生の嘆願を切り捨てた。


 その声に硬直する弥生を見下ろして、ガルメナはゆっくりと膝を曲げ、幼い子供に対するようにかがみこむ。


 赤銅色のくちばしが弥生の頭を小さく小突き、そうではないだろう、と穏やかに言う。


『畏まらなくてもよい。お前の言葉で、お前の望みを言うがいい』


「……」


 その声に、弥生は呆然としたまま震える腕を上げ、巨大な頭にすがりつくように両手を添えた。

 艶やかな羽毛に触れて、その温かさを指先で受け取って――初めて、弥生の大きな瞳から、涙が一粒こぼれ落ちる。


 汚れてしまった頬を伝い落ち、弥生のケープに小さな灰色のシミが浮かぶ。

 ぱたぱた、ぱたぱた、後から続いて落ちていくそれを、ガルメナが柔らかく翼の先で拭いとった。



「私……私が、倒すの。私の家族が捕らわれてるの。私がやらなきゃいけないの。だから……」



 だから、と弥生は囁いて、「私に力を貸してください」と、涙混じりの声が言い、それを聞き届けた彼は、ガルメナは――、



『では、蛇狩りだ――』



 不敵な笑みと共にそう言って、次の瞬間、弥生の首根っこを鷲掴み、



「え……ッ」



 未だ炎と風を散らしながらぶつかり合う、狛乃とリトの戦いに乱入すべく、鋭く地を蹴り、飛び出した。


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