第百六十二話:遠雷に吼えるヴィーナスⅠ






 えよ、人と、ヒトの姿をした者たちよ 弱き者とそしられた者たちよ!


 獣のように力をふるえ!


 噛みつき、引き裂き、誇るべき力を見せつけろ!


 されば我も遠雷を呼び、金星ヴィーナスの名に恥じぬ力を示さん!


 さあ行け! 角をへし折れ、牙を砕け、鱗を潰し、血の対価を支払わせろ!



 ――お前の毒牙が我らのなにを貫いたのか、思い知らせてやるがいい!





      轟暦235年 『黒の鷲獅子ガルメナによる蛇狩りの号令』より エヴィン・S・アルキード



















 ――驚きに目を丸くするリトの目の前で、失われたはずの魂が戻っていく。


 棒立ちになり、リトの言うがままに相槌をうっていたはずの人形の瞳に、緑の星が瞬いた。灰に埋もれていた緑石エメラルドが顔を出し、青みがかっていた小さな頬に赤みが戻る。


 乾いた唇は小さく震えながら動き出し、自我を取り戻した余波で重心が微かにぶれたようだった。ふらつきながらも目の前にたたずむ何者かにとられた指先にはわずかに力が入り、夢からさめるように藤堂とうどう弥生やよいという存在が再構築されていく。


 それを見下ろすリトは、身動みじろぎもしない。喰らったはずの魂が、腹から直接抜け出ていくという怪現象に、困惑して動けないのだ。

 そんな話は聞いたことが無い。稀に、喰われた側が魂をすることがあるとは聞いていたが、これは違う。


 だってこれでは、まるで、誰かがリトから奪った魂を取り上げて、元の持ち主に戻してやっているような――、


「――」


 いや、いいや、そうだ。まるで、ではなく、そうなのだ。今まさに、リトの腹から藤堂弥生の魂を引き抜いて、目の前の元人形に注ぎ込んでやっている存在がここにいる。


 その考えに至った瞬間、リトは弥生に釘付けになっていた視線をずらし、そんなことをしでかす不届き者を探し出す。

 ガラスをはめ込んだような藍色の瞳がぐるりと動き、リトは弥生の前に佇むヒトの後ろ姿を見い出した。


 赤い目の狼――あるいは、濃茶色ブラウンの瞳の猫。リトから見れば、魂のカタチもその内面も、魔力の波形でさえチグハグな何かがそこにいる。


 それはリトの視線を面白がるように振り返る。まるで、突然のにわか雨に空を見上げるように。あるいは、友人に肩を叩かれた時のようにゆっくりと。


 先に覗く穏やかな赤い瞳に知らずホッと吐息し、続く濃茶色ブラウンの沈み込むような冷たさに息を呑む。


 何かは気負いなくリトと視線を絡めて、それから――



「こんばんは」



 ――旧友にそうするように、柔らかく微笑んだ。
































第百六十二話:遠雷に吼える金星ヴィーナス




















 ――首根っこを掴まれて、頭を冬の海に沈められたような心地でリトは硬直する。


 冷たいと感じることすら難しいほどの低温に晒され、痛みさえ覚えるような錯覚。見開いた瞳には水中に散る気泡の幻覚さえ映るようで、藍色の瞳を縁取る鱗が微かに震える。


 殺気も、呪いの類いも込められていないはずの視線に捕まり、リトは動けない。


 まるで、まだダメだよ、とでも言うように、何かは微笑みながらリトをその場に釘付けにする。


 優しげに聞こえても、そのまなざしを浴びる方の心持ちは変わらない。

 どれだけ穏やかな口調でも、慈しむような声色だったとしても――その目は、凍てつく冬の海のように冷えきっているのだから。


「――ぁ」


 胴体でふさいでいた出入口が恐怖からの身じろぎでわずかに開き、状況をのみ込めないながらも逃げ出していく獲物にすら気が付かずに、リトは浅くなっていく呼吸に溺れそうになりながらも、何かから視線をはずせない。


 けれど何かは簡単に命がけのはずの睨み合いをひょい、と放棄し、弥生を振り返って二言、三言の言葉を交わし、嬉しそうに微笑んでからようやく真っ直ぐにリトに向き直った。


 首を傾げ、ちょっと振り返るだけで脅威だったそれが身体ごと振り返った瞬間、リトは全身の鱗を逆立てた。


 ――けれど、そんなことよりも。


 そんなよくわからない生き物よりも、もっと怖いと感じるものが突然に現れた。わけのわからないオッドアイの何かよりも、恐ろしいものがそこにいた。


 それは、先程までいたぶって遊ぶ対象だった人形の――否、藤堂弥生という小娘の視線。眼光鋭いそれに射抜かれて、知らず、リトはわずかに後ずさる。


 たかが人間の小娘の視線に、巨大な蛇が射竦いすくめられた。燐のように燃えて輝く、緑の目に。


 それは、はるか昔、リトの先祖が死の間際に垣間見た輝きによく似ていたからかもしれない。

 財宝を狙う不届き者に、その卑しい行いと魂に怒れる鷲獅子グリフォンに幾度となく殺された――黒蛇こくた族の血が叫んだのかもしれなかった。


 毅然とした表情で顔を上げ、巨大な蛇を睨み上げる小娘は、たとえ魔術の才を手にせずとも――確かに、気高き鷲獅子グリフォンの末裔であるのだと。


 そんな直感に、リトは口に咥えていた保険を噛みなおし、より深く牙に突き刺し、咆哮する。


「――――――――ッッ!」


 顎の関節を外し、目一杯に口を広げ、獲物を貫いた牙を見せつけ、撤退を要求する――悪魔の血以前の、蛇の魔獣としての原始の本能に導かれた、精一杯の威嚇行動。


 退くに退けぬ、背を見せることさえ恐ろしいと感じる敵へと向けられる、背水の覚悟を示すそれを前に、状況の変化を感じた者達は足を止め、あの巨大な怪物にそんな行動をとらせた存在を振り返る。


 振り返ったその先で、


「弥生ちゃん、指示は任せるよ。上手く使ってね」


「――――」



 怒れる鷲獅子ヴィーナスが――号令を下す。



「一撃で仕留める――時間を稼いでちょうだい、狛ちゃん」


 静かな声。けれど激昂にも似た感情が秘められたそれに、何かは――亜神の末席たる狛乃は、微笑んで了承する。


「まかせて、そよ風一つ寄越さないようにするよ」


 直後。床を砕きながら狛乃が飛び出し、迎撃のために、柱を粉砕しながらなりふり構わずリトが巨大な尾を振るう。


 それらが真正面からぶつかり合う轟音を聞きながら――、



「〝遠雷 それは遠き者――夜明けを連れてやってくるもの 夜が明けていくのを見送るもの〟」



 弥生は静かに目を閉じて、魔法使いとしての第一歩を踏み出した。







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