百六十一話:クラック、クラック、クラック!






 ――おいおい、勘弁してくれよ。と溜息まじりの声が熱波にはねられ霧散した。


 ソロモン本部、第四層。魔法使い法定監査部の天井をぶち抜いて、現れたのは小さな隕石と見紛うような炎塊で出来た怪物だった。


 深い橙色と明るい朱色。二色入り混じるその炎は、不可思議なことに床に焦げ跡一つ残していない。


 反面、あらゆる魔法や物理的な衝撃を防ぐ弾性結晶因子で出来ているはずの天井の大穴は、まさしく高熱で融かされたと思しき状態で、固まり切らないそれがぽたりぽたりと床に落ちては、小さく跳ねてガラス玉のように固形化して散らばっている。


 散らばる欠片は色とりどりで、それらが炎熱の光を反射してはほどけるように気化していく七色の靄の中――、


 セリアとミルキーの視線の先で、炎塊は巨大な猫科の猛獣の姿を模したかと思えば、次の瞬間には狼のように鼻先が伸び、炎の牙が閃いてはまた猫科の姿に戻っていく。


 あるいは短毛種のそれかと思えば唐突に毛足が長くなり、犬歯が伸びたかと思えば縮んでいく――そんな惜しげもなく矛盾を孕んだ炎の中心に、その生き物は座していた。


「――こんばんは」


 吐息をつくような、小さな挨拶。ひどく落ち着いた礼儀正しい響きなのに、どこか浮ついたような不可思議な声が、を見ていたギャラリーの鼓膜を打った。


 荒れ狂う赤はゆっくりと収束し、それは人の姿を取り戻していく。まず炎に隠れていた腕がのぞき、次第に鮮烈な赤の紋様に彩られた全身が顕わになる。

 

 黒に近い深い藍に染められた八分丈ズボンカプリパンツに、それより少し淡い灰青のタンクトップ。

 更にその上には、黒地に赤と銀の複雑な陸狼ロードル模様を染め込んだ、厚手の肩抜き貫頭衣ラーフドール


 むき出しの肩にも、首筋にも、中性的な顔にまで赤の紋様は入り組んでいる。ただし首から上の鮮烈な赤は、顔の左半面と、鼻梁をまたぐようにのたうつものだけ。


 呑み込まれた左目は深紅に輝き、対となるはずの右目は深い茶の色に沈んでいる。左右非対称の黒い髪、男とも女ともつかない顔立ちに、左頬に大きく刻まれた火傷の痕――そこまで見て、炎の正体に思い至ったセリアが呻く。


「――〝狛犬〟」


 現実世界で聞くはずの無い名前を聞き、それは小さく首を傾げた。赤と茶のオッドアイがぎょろりと動き、発言者であるセリアをじっと見つめる。

 確かな反応に、セリアは目を細める。斑鳩いかるがからの報告で、セリアはソレが此処に来るということは把握していた。


 斑鳩からの報告は、沈鬱でいて諦めの混じる響きだった。


 【Under Ground Online】にて〝人災〟と呼ばれ、樹海一つを焼き尽くした火の申し子たる〝狛犬〟が、此処、ソロモンにて、恐らくは炎に関する魔術特性を持った魔術師としてやってきた。


 白井狛乃と名乗るソレは、友人であるロンダルシア家の若旦那への攻撃に対する報復として、黒の蛇を追ってそちらに行く、と。


 それらの情報を加味し、目の前で炎を纏うその存在が、仮想世界から這い出してきた異物であることを確信し、彼はゆっくりと間合いをはかる。


 瞬く星のように燃える赤の虹彩と、暗い湖の底のような冷え切った濃褐色ブラウンが、それぞれ両極の感情を抱えていることに気が付いて、セリアは慎重に声を発する。


「……俺は、セリア。セリア・ドァ・ライオネット」


 彼の静かな名乗りは、どこか野生動物に向けて銃を構える挙動に似ていた。警戒と、牽制。二つの意思が込められた自己紹介に、対するそれは見定めるようにセリアを見る。


 その目に宿るのは両極の感情だ。即ち――欠けたる者に、与え、生かしたいという正の感情……満たされし者を、奪い、殺したいという負の感情。


 魂の半分を持ち出され、項垂れる人々を見る赤の瞳は穏やかだ。反面、被害の無いセリアとミルキーを見る濃褐色ブラウンは暗く、冷たく、視線に晒されるだけで凍えそうなほどの圧力がある。


 燃えて爆ぜる音が絶えず響くのに、凍えるような空気の中、黙っていろ、動くな、という上司のハンドサインに従って、ぴくりともしないミルキーは目だけを動かして窺うように両者を見た。


 方や、目も髪も黒灰色の優男。ソロモン本部にて、情報統括局の局長であるセリア・ドァ・ライオネット。もしくは、VRMMO――【Under Ground Online】で〝世界警察ヴァルカン〟という名の巨大自警団の幹部に名を連ねる〝セリア〟。


 方や、〝力〟を振るうにつれて六迷を見失いかけ、ずるずると亜神としての魂に引きずられつつある人外のともがら


 ソロモンにて未だ名は無く、けれど仮想世界の中でだけ振るえるはずの力を引きずり出し、人としての情というものを見失いかけていたその存在は――、


「……セリア? 〝世界警察ヴァルカン〟の……トルニトロイの、セリア?」


 不意に投げられた記憶の鍵に、ほんのわずかに〝人の部分〟を取り戻し、疑問に彩られた問いを投げる。投げられ、受けた男は静かに、そうっスよ、と小さく答えた。


 息を吐く動作すら最小限にし、身動ぎすら自身に禁じて瞬きをする。透き通る黒灰色の瞳には複雑な感情の色が混じり、どこか金属質メタリックな光が走る。


「アンタの――名前は?」


 名乗りに質問で返した存在に、セリアはつとめてゆっくりと声を出した。高すぎず、低すぎず、先程までの牽制を捨て、威嚇する迷い猫に声をかけるように。


 何も事情を知らずとも、何百年とソロモンにて、裏社会にて過ごした彼は、目の前の存在の危険性を正しく肌で感じ取っていたからだ。


 無駄に動けば、灰にされる。不意に話せば喉を焼くことすら躊躇わないかもしれない。


 目の前の存在に、見知らぬ者にかける情は無い。共感する悲しみも無く、死に恐怖する人々への同調もない。全ての行動に後悔は無く、あらゆる悪意を持たず、焦燥がその身を焦がすことは無い。


 それら六迷を欠く、とはっきりと理解したわけではないが、セリアはこれが最善の道だと自身の勘を信じていた。最善の道、即ち、自身の名前を口に出させることによって、怪物の不確かな意識を繋ぎとめる狙いは、


「――……狛乃。白井、狛乃」


 辛うじて、成功したように見えた。


 狛乃はどこか苦し気に、けれどどこか忌まわしそうに自分の名前を名乗り、それから幾度か、確かめるように口の中でその名を転がした。


 赤い左目が閉じられる。深い濃褐色ブラウンの右目だけを動かして、狛乃はいまだ鋭さの残る眼差しでセリアとミルキーをじっと見つめた。


 けれど、セリアも、動いて良しと言われていないミルキーも動かない。両者共に窺うように狛乃を見つめ、お前たちがこの惨状の犯人かと無言のまま問う狛乃の視線を誘導するように、セリアはゆっくりと人差し指を右へと向けた。


「黒蛇属のリトは――先天悪魔だ。産まれながらに魂を喰らう悪の魔獣。奴らは後天悪魔とは違い、魂を丸呑みすることはない」


 そう、彼らは常に食い差しを残す。何故なら、そうするのが一番悲劇が多くなると知っているから。


 諦めきれない被害者の家族や友人が、呑まれた魂がまだ無事かもしれないと腹を裂きにやって来ることを知っているから。


 そうして、彼らは勇気ある者達にこう言うのだ――食事が自分からやって来た、ご苦労様、と。


「……何が言いたい」


 低い声で狛乃が言い、セリアは狛乃の理性を確認してから、斜に構えた態度で鼻で笑う。


「つまり、今ならまだ――間に合うかもしれねぇよ?」


 その台詞に狛乃は深紅と濃褐色ブラウンの目を丸くして――


「――ありがとう、セリア」


 天使のように微笑んでから、迷いなく走り出した。


















 第百六十一話:殺しクラック生かしクラック奪い、与えるクラック!




 















 ――大蛇の行進に相応しいのは、無力な人々の絶叫だ。


 誰もがすぐ後ろに迫った脅威に悲鳴を上げ、突然、日常を叩き潰される恐怖にわめく。

 もがきながら走り出し、怖れに震える足がすぐに縺れる。そうして1人が倒れれば、まるでドミノのように出入口で密集していた人々は倒れていった。


 重なりあう悲鳴と怒号。


 上級幹部が常駐していない部署を狙い、黒の大蛇と化したリトは、我が物顔でその一帯を制圧していた。


 此処はソロモン本部、第三層の南地区――皮肉にも、罪人を定め、それらを抑制するために様々な手続きや法を定める、危険指定違反対策室。


 ――そんな場所で、今まさに悪魔が猛威を振るっている。


 腕に覚えのある者も、無い者も、誰もが戦う前から逃げることしか考えなかった。

 武器を扱える、武道の心得がある、多少の魔法が使える――そんなことは、反抗前からその強大さで知られたリトの前では何の役にも立たないからだ。


 この世界は基本的には理不尽に出来ている。絶対強者は常にはるか高みにあり、人間だろうが化物だろうが、その存在が何だろうが強さの序列に大して関係はない。


 強者とは、大抵が素質あるものだけが這い上がれるステージで、大半のものは彼等の足下にも及ばない。


 人間だろうが、悪魔だろうが、吸血鬼だろうが、強い者は強く、弱いものは弱いのだ。


 確かに100層を越えて第一層以下の所員は、肉体的にも、精神的にもしぶとい者がほとんどだ。


 日の当たる場所に生きる一般人と比べれば、とんでもなく強い者達でもあるだろう。彼らは森を歩き、たとえヒグマに出くわしたとしても悲鳴を上げるような者は1人もいない。


 一般の魔法使い犯罪者ぐらいなら一対一でも倒せるくらいの試験に受かり、日夜恒例のイベントのように起こる問題に晒されて、それでも尚生き残っている猛者達でもある。


 けれど、そんな彼等でさえも此処、ソロモンでは強者ではない。幹部と名が付くバッジが貰えても、下級・中級の有象無象と、上級幹部では生き物としてのが違う


 たとえその精神や性質に致命的な問題があるが故に幹部のバッジを渡されなかったとしても、ソロモン本部に勤める者は、戦闘における能力順位が高い者のことは自然と覚えていくものだった。


 むしろ、それだけの力がありながら幹部では無い者は、ソロモンでも特に危険生物と言えるからだ。


 彼らは権力を与えることで制御出来るようなものでもなく、その後ろだて故に処分されることも無かった者――俗に、不発弾ジゼロと呼ばれるそれらは、いつどこで爆発するかわからない。


 大きな罪を犯して、初めて彼等は捕縛対象となり、数多の所員の犠牲という生け贄を経て、ようやくその首と手足に枷がつく。


 だからこそ、ソロモンではこう言われる。


 ――最終的には、運が全てさ、と。


 運が良ければ爆発の瞬間に居合わせない。運が良ければ、爆発しても生きて帰れる。


 けれど運が悪ければ?


 そう、惨めに死ぬか、死ぬよりも酷い運命に導かれるか、だ。


「――ほらぁ、弥生さん。みんな元気で、楽しそうですねー」


 冗談みたいに間延びした声が大蛇の口からこぼれ落ちる。付き従うのは虚ろな目をした人間の女だった。


 女の名前は、藤堂弥生。いつもなら凛と輝く大きな緑の瞳も、今は霧に煙るように灰色がかった緑となっていた。


 もしもこの場にノルディックがいたならば、あれは魂を呑まれ、悪魔に汚染されている者の主要な症状の1つであると得意気に解説でもしたかもしれない。


 魂と直結しているとされる虹彩の色は、如実にその者の魂の状態を示すもの。灰に曇る今の彼女にまともな意識はなく、言うなれば操り人形のようなものだといえる。


 リトはその大きな口に睦月の死体を引っかけて、楽しそうに悲鳴を上げる人間達を見下ろしていた。


 時折、尾を動かしては新鮮な悲鳴を上げさせ、悦に浸るように微笑んでいるが、まだこの場の誰にも怪我はない。


 どころか――この層に来て、リトが殺した者は、いまだ1人もいないのだ。


 ……リトとて、巨大すぎるソロモンの全てを制圧できるなどとは思っていない。せいぜいが此処と、隣の西地区にまで尾を伸ばせれば上出来と言ったところ。


 被害の規模から、生きたまま捕らえられ、最下層の南地区に流刑となるのが狙いである以上、リトにとってこれはお遊び。


 制限時間付きの娯楽物――しかし、それでもまだ捕まるには早すぎる。


 警報が流されたところで、わざわざ上層、下層から所員を助けに駆けつける上級幹部など、ソロモンでは両手で数えられる程度にしか存在しない。


 そもそも偶然本部にいたとしてもその程度しか動かないのだから、家から本部まで哀れな所員を助けに来る英雄など、それこそ迦楼羅カルラという名の男1人。


 しかし残念ながらその男は仕事で今は遠い海の向こう。手練れの錬金術師の助けがあれば一瞬で此処まで来れるかもしれないが、1人は弱肉強食がモットーの偏屈爺。

 もう1人の錬金術師である琥珀は、魔女との協定で悪魔とは不可侵条約を結んでいる。


 となれば、今、ソロモン本部でわざわざリトを止めに来る上級幹部など、情報統括局の局長でもあり、ソロモン王に留守の間の問題解決係を任されているセリアくらいとなる。


 しかし、リトは知っている。


 セリアという男の種族と、血統と、その能力をよく知っている。


 彼がリトを仕留める気なら、リトを仕留めるまでに周囲に居合わせた不幸な所員が何百人単位で死に絶えてしまうことも。

 たかだか反抗所員一匹に、それだけの被害を出しながらの捕縛は割に合わないと考えていることも知っている。


 彼が来るとしたら、それは彼の宣言通り被害者が200を越えた時か、あるいは、リトの周囲一帯に、助かる命が消え失せた瞬間だけ。


 だからこそ、リトは目の前で震える獲物を引き潰さない。一息に呑み込まない。



 南地区の獲物を7割ほど殺すまで、遊びの時間が続くと知っているからこそ――、



 ――自身の胴体で塞がれた出入口に群がり、逃げ出せないことに気がついては上がる絶望の声に耳を傾け、うっとりとした様子で宝石のような藍色の瞳を細めているのだ。


「あはー、アリ団子みたいですねぇ。ねぇ弥生さん。ほら、あの男なんて失神寸前ですよぉ」


 お気に入りの人形を連れ歩き、ことあるごとに話しかける少女のように、リトは楽しげに弥生に話しかける。


 返事が無いことも気にせずに、きゃらきゃらと幼い声を上げて喜ぶリトに、弥生はぼんやりとした表情で頷いていた。


 悪魔に魂の半分を呑まれ、汚染され、操られる彼女にとっては、それだけが存在意義だ。


 リトが言うことに、どんなことでも頷くこと。


 他の誰かに話しかけられても、心を閉ざして聞かないこと、考えないこと。


 それが、リトが弥生に命じた2つの命令。


 それらが守られないことはない。リトが望めば誰もが悪魔に命じられるままに頷いて、悪魔の思う通りに何も考えないお人形になる。


 魂が欠けている以上、自力で命令をはね除けることもない。


 一度奪われた魂は、よほどの奇跡とそれなりの腕前の悪魔に頼る以外に戻しようがない。


 運良く助けてくれる悪魔がいたとしても、分かたれていた時間が長ければ長いほどに成功率は低くなっていく。

 奇跡を起こそうにも、それには他者との問答が不可欠だ。ならば、直接リトにそれを禁じられた弥生に、もはや助かる望みは無い。



 ゆえに、藤堂弥生のその瞳が、再び新緑に輝くことは二度と――



「――弥生ちゃん」



 二度と――



「今日は〝とっても良いこと〟があるんでしょう?」



 二度と――無いはずだった。



「今日は、君の夢が叶う記念日だったはずでしょう?」



 けれど、初めてできたの声が、不意に彼女を此岸に引き戻し、



「まだ、君の夢のことを聞いてない。〝週末のお出かけの時に教えるわね〟って言ってたじゃない。だから――」




「諦めちゃ、ダメだよ」




 驚きに目を丸くする黒蛇の眼下で――燐のように燃える緑の瞳が、星のように瞬いた。





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