第百五十五話:踊れ、明けない夜のために

 


 ――日本のとある海辺。黒々とした海水を湛える海原と、それを繋ぐ砂浜でのことだ。



 凍るような海風が吹き渡る、どこまでも続く海岸線。青い月が浮かぶ空の下、奈落のように黒い海からゆっくりと砂浜に上がっていく影があった。

 影の形は大きな犬。それは遥か昔に存在したエジプトのアヌビスによく似ていた。


 大きな耳はぴんと長く、琥珀色の瞳は夜空の蒼月と対をすかのようだった。流れるような美しい体躯は細身でありながら過不足なく筋肉に覆われていて、尾は鞭のようにしなやかに揺れている。短い漆黒の毛並みから塩水がぽたぽたと滴り、その黒犬は足元の砂と滴るそれを嫌がるように足踏みを繰り返す。


 黒犬は波打ち際でしばらくそうして嫌そうに大きな身体を揺らしていたが、おもむろに小さく唸って動きを止めた。琥珀色の視線は闇の中の光点に向けられていて、それはどうやらパトロール中の警官が持つ懐中電灯のもののようだった。


 警官は最近、ここらで不審者が目撃されているという通報を受けて夜間のパトロールをしていたのだが、不意に何か大きなものが真夜中の海から上がって来たことで、注意を黒犬の方に向けたらしい。


 まだ距離があるためにそれの正体が大きな犬であることはわからないようで、警官は慎重に、けれど迷いない足取りで黒犬に近付いていく。

 その様子を暗闇を透かして見ていた黒犬は、少しだけ迷ったようだが逃げようとは思わなかったらしい。黒犬は頭を低くし、足にぐっと力を入れて構えの姿勢。そのまま警官が近くに来るのを待ち、懐中電灯が正面から黒犬の正体を照らし出すのを待つ。


「――犬?」


 そして、警官の男がその姿を認め、怪訝そうに呟いた――次の瞬間、黒犬は砂を蹴って弾丸のように飛び出した。

 警官は何か大きなものが足元を突風のように駆け抜けたことで尻もちをつき、痛みに腰をさすりながら呆然と周囲を見回した。

 しかし、どれだけ首を巡らせても、すでにそこには何もいない。男は不思議そうに首を傾げ、よっこらしょ、と立ち上がってから、犬だったよな? と、またふらふらと視線を彷徨わせる。


 ――あれ? なんだか、変に怠い感じがするな、とも呟きながら。


 そんな男の様子をそこからは遠く離れた岩場の影から見守る黒犬は、まるで食事の後のように大きな舌で口の周りをぺろりと舐めた。そうしてから、その黒犬は満足そうに長く息を吐く。


 〈ごちそうさま、見知らぬ紳士よ。思ったよりも魔力が多くて大変結構。悪くない味だった! やはり日本はいいな! 祖国、ラングリアの次によい! はてさて、それで此処は何処で、ソロモン本部とやらは何処にあるというのかな? 1階層までは外部の者が入れると聞いたのだが――ふうむ、魔獣の身には難儀なものだな!〉


 いっそ人に化けられれば楽なのだがな! と独りちながら、黒犬は溜息を吐くようにかぶりを振る。それにこの砂は我が身にはつらい! と、長い前足でやはり嫌そうに砂浜をたしたしと踏み叩き、尾を振りながら黒犬は空を見る。


 〈ああも簡単に人に化けられるニブルヘイムが羨ましい――どうして彼はあのように器用なのか? むう、魔獣の身で人の姿を望めないのは道理だが……まあ、別にこの姿でも困ることはあるまい。はてさて、夕食も済ませたことだし、ちょっと散歩がてらソロモン本部を探してみるか〉


 黒犬は人ならぬ言葉でぶつぶつとそう言いながら、岩場の影からひらりと飛び出した。そのまま機嫌よく砂浜を渡り、軽い足取りのままに住宅街へと進んで行く――進んでしまった。


 さて、轟歴3802年の日本。それは、野良や放し飼いの猫こそたまに見られるものの、野犬などというものは1頭でも存在しない時代である。

 そんな時代に、大型犬よりも一回りも大きい身体の、真っ黒な大犬が首輪も無しに、いや、たとえ首輪をしていたとしても。住宅街を1頭で堂々と練り歩くなんてことがあればどうなるか、想像するのは難しいことではない。


 〈夜の石床の冷たさはどうにかならないのだろうか。ああ、彼等は靴を履いているから気にならないのだな? むぅ、全く、祖国ラングリアならば温熱式の石床が当たり前だというのに、何故に此処では――むむ?〉


 黒犬は夜のアスファルトの冷たさに文句を言いながら歩いていたが、ふと異変を感じて立ち止った。黒犬の常識では――即ちラングリアでは。街中を首輪をしていない大犬が歩いていても、特に何も言われることは無い。


 むしろ、悪魔をうち祓う聖なる獣として犬は、特に黒い犬は重宝されていた。そのため、道行く最中に称賛や肉の塊を投げられたことはあれど、麻酔銃を持った警官に追いかけられることなど黒犬には考えもつかなかった。


 だからこそ、黒犬は不思議そうに住宅街の道を塞ぐように突然目の前に現れた車の群れと、そこから出てきて自分を取り囲む人々を交互に見やる。困惑に耳を伏せ、黒犬は数歩後ずさった。


 〈な、なんだというんだね? この孤高の貴犬きけん、サー・カミロットに対して何をそんなにいきりたっているのだね?〉


 人間達が手にしている麻酔銃や、投網、盾などの物々しい装備を見て、自らをサー・カミロットと称した黒犬は不安そうに後ずさる。けれど、サー・カミロットの声は通常の人間達には理解しえない言葉でしかない。


 問答は無意味であり、彼等は口々に気をつけろ! と言いながら麻酔銃を構えて網を投げようと動き出す。前にも人間、後ろにも人間。進退窮まったサー・カミロットは、一瞬だけ迷ったものの、次の瞬間には風のように走り出した。


 〈――失礼、ムッシュ!〉


 跳躍し、慌てて盾を掲げる人間の肩を少し手荒く蹴り飛ばし、サー・カミロットは夜を跳ねる。〝竜混じり〟か〝魔獣〟だ! 追え、逃がすな! と叫ぶ人間達を尻目に、彼は脱兎のごとく夜の街を駆け抜ける。


 見知らぬ国を走って、走って、何処へ向かっているのかもわからぬまま、サー・カミロットは走り続けた。



























 第百五十五話:踊れ、明けない夜のために






























 1階層でそれに突っ込んだ時のように。ふわふわとした半透明の壁を抜け、自分は気が付かない内に止めていた息を吐く。水、というより泡を突き抜けるような感触が踵にまでついてくるような、経験したことの無い奇妙な感覚。


 止められていた肺腑は自然と自由を求めて膨らみ、反射で閉じられていた目もまた開かれる。ひやりとしていた空気とは裏腹に、そこにはむせてしまいそうなほどの甘い香りと温かい空気が満ちていた。


 ――ソロモン本部、第六層。1階層から100階層を越え、更に第一層から下りに下った地下空間。


 幹部談話室とも呼ばれるそこは、1階層の華やかさ、ファンタジーらしさとは打って変わって、どこか落ち着いた、けれども何ともいえない統一感の無さを感じさせる空間だった。


 落ち着いた色合いのソファが並べられているかと思えば、そこから少し離れた場所には毒々しいほどに派手な色合いの奇妙な高脚椅子だけが並べられていたり、また他の場所では継ぎ目一つない長机が椅子の1つも伴わず、圧倒的な存在感で配置されていたりする。


 床も同様に、絨毯敷きの部分もあれば、つるりとした大理石であったり、はたまた畳が敷かれている部分さえある。それぞれの床や壁にマッチした家具や調度品が置かれている所を見れば、その狙いや目的が薄っすらと見えて来た。


「そんなに色んな国の人がいるんですか?」


 ――此処、本当に日本の地下だよね? と言外に聞けば、自分の後から第六層に顔を出した斑鳩室長は、さも当然と言うように頷いた。


「そりゃそうでしょう。じゃなきゃ、何のための国際共通語、何のためのソロモン、って話になるでしょう」


「何のためのソロモン……?」


「――ソロモンはあらゆる魔法現象事件を扱っている組織、という面もあるんですよ、狛乃さん! うわぁ……此処が幹部談話室! 感激です!」


 斑鳩室長の言葉を繰り返す自分に、ぷはっ、と最後に第六層に顔を出したブランが、感動に目をきらきらさせながら答えてくれる。けれどそれだけを聞いてもわからないという顔をする自分に気が付いて、ブランがそういえば説明してませんでしたね、とわかりやすく言い変えようと唇に手をやって考え始めた。


「……授業の予習ばかりで、肝心なことを忘れてました。えっと、まずソロモンっていう組織は、豹雅先生曰く、密輸、実験、薬物、犯罪者の討伐――黒いことは大抵やっていると覚えておけ、とおっしゃっていましたが、これはソロモンの裏側であって、全てでは無いんです」


 前にそのことを教えてもらった授業の後に、僕、レジナルド先生から詳しく聞いたんです。とブランは前置きをし、ソロモンとはどういう組織なのかを語り出す。



 ――曰く、ソロモンとは、メビウスの輪のように表と裏が、善と悪が、よじれて繋がっているような組織である。



 ある側面から見れば、ソロモンとは悪である。


 一部の魔法生物に対する非道徳的な実験に始まり、ソロモンの意向に従わない種族への弾圧。世界のバランスを取るためのという名の一方的な殺戮を行うこともあれば、非合法な魔法生物の輸出入を行うこともある。


 ソロモンという組織としては行わずとも、人身売買や奴隷の売り買いを行う者が総会の幹部の椅子に座っていたりもするし、幹部の中にはそんな程度の犯罪など目ではないほどの極悪人やど変態が座っていたりもする。



 ある側面から見れば、ソロモンとは善である。


 世界中の魔法使いの認定資格を出しているのもソロモンだし、魔法使いや化物達にだけ適用される法を整備しているのもまたソロモンだ。

 力あるゆえに奢りやすく、その教えゆえに傲慢になり、民間人を人とも思わなくなるような輩が多い魔法使いや化物達が世間で目立った事件を起こすことを抑止し、違反者を正規の法律の外側で容赦なく罰することで世界中の人々の安全を保っている。


 一般への情報を制限し余計な揉め事を起こさないために、国や企業、様々な団体や個人からの魔法関連の依頼をいったん預かり、ソロモンに所属している魔法使いや魔術師、化物達へと実行委託を行う部署もある。


 その他、霊地の管理や、精霊や妖精、竜などの世界に影響を及ぼしやすい魔法生物の所在把握。魔法関連開発部への出資、各種保護団体への寄付などもソロモンの役割だとか。



 そして、それらの管理をスムーズに、より的確に行うために。ソロモン本部という組織は、魔法学浸透のために選ばれた国際共通語である日本語を組織内での公用語とし、なおかつ――、


「三代目ソロモン王の奥方が日本人で、それ以降、ソロモン王の婚姻は日本人とのものが多かったので、自然と拠点も日本になったんだそうですよ」


「なるほど、確かに言語は統一した方が良いし、元から地盤は日本にあったのか……」


 それにしても、トルカナ様の言う通り、ソロモンが清濁併せた存在であるのは間違いないらしい。感心して何度も頷く自分に、ブランは勉強の成果を示せたことに得意げで、斑鳩室長はブランの解説におおー、と手を打ってその栗色の頭をよしよしと撫でていた。


「よく勉強してますねー。流石はロンダルシア家。吸血鬼や動物系の化物は快楽ばかり追い求めて勉強に弱い子が多いんですが、それがまあ……そこらの幹部よりわかりやすいですよ」


「お母様は『努力をおこたる者は死ね! いやむしろ我が大剣の錆にしてくれる!』、が座右の銘ですから!」


 息を弾ませ、嬉しそうにブランが言うが、そのフレーズを聞いて幹部談話室に座っていた何人かがびくり、と肩を震わせていた。


 吸血鬼の旧家、と自他共に認めるお家なだけあって、その知名度は高いらしい。恐る恐ると言った様子でブランを振り返り、肩を震わせた何人かの内、2人ほどがそそくさと立ち上がってこっそりと談話室を去っていった。


 そんな様子を斑鳩室長も横目で見ていたが、彼女はそれについては何も言わず、さあいつまでも壁際に居るのもなんですから、どこか好きな所を選んでいいですよー、とブランに優しく話しかける。


「えっ、僕が選んでいいんですか?」


 途端、ブランは自分を振り返り、自分と畳を交互に見比べた。そりゃあ確かに自分だって畳は好きだし落ち着くが、別に畳じゃないと落ち着かない、ということもない。第一、我が家の畳はじいちゃんが死んでから使われてないし。


 それに、他の様式も気になっていたので、もちろんブランが選んでいいんだよ、と微笑みかける。すると、ブランは目に見えて嬉しそうにパアッと笑い、じゃ、じゃあ――! と1つの様式を指さして、


「鴫様もお気に入りだっていう、ベヅネット式が――……ぁ」



 ――喜びに跳ねるように浮いた右手が、困ったように揺れて固まった。



「……ブラン?」


 どうしたの、と言いかけて、微笑ましい気持ちでブランを見ていた自分は彼の指さす先を見る。するとそこには、ブランがそこを選ぶまで誰も座っていなかった長机にニヤニヤといやらしい笑みを浮かべた灰色の髪の男が座していた。


 自分達から見て真正面。避けて奥にいけば座れるスペースはあるが、どう見ても脇を通り抜けることを許しはしなさそうな笑みと敵意を浮かべて、男はひたりとブランを見据えていた。


 男は、静かにブランに言う。


「どうぞ――? ロンダルシア家の若旦那様。此処がお好みならお座りになればいかがです?」


 軋るような声にたっぷりと含まれた、仄暗い、いいや、どす黒い感情。それは滴る毒のように談話室に散っていく。

 灰色のマッシュボブの隙間から覗くのは、ブランと同じ赤い虹彩に、細い瞳孔。俗に、純血種に近い吸血鬼の特徴であるとされるそれを細め、男は表面上は恭しく腕を上げ、どうぞ、と軽く頭を下げた。


「ぅ、あ……クライム、さん」


「いいんですよ――いつもの通りに、クライム、と呼び捨てて頂いて」


 クライム、と呼ばれた男はやけに神経に障る声でそう言うが、対するブランは酷く悲しそうに顔を歪める。状況がわからず戸惑う自分に、斑鳩室長がひそひそ、どころか周囲にもばっちりと聞こえる声量で語り出した。


「――あれは、元ロンダルシア家の執事、クライム・アンドレフですね。最近になってトルカナ・ロンダルシアから息子の直属執事となるように命令され、それに反抗して出て行ったとのことでしたが……」


 いくら高貴な血とはいえ、純血種である自身に子供のお守を任せるなんて、いたくプライドが傷ついたと仰っていたと聞きましたが、と斑鳩室長は続けるが、ブランはそれに気まずそうに、クライムという男は不愉快そうに赤い瞳を細めてみせる。


 斑鳩室長は酷く面倒そうに唇を歪め、狛乃さんって戦えます? と肘で小さく突っついてくるが、戦えるわけがない。仮想世界でならともかく――あれ? VRでの戦闘技術ってどこまで現実世界に持ち込めるのだろうか?


「……わからないです」


 ブランを心配してその肩に手を置きながら素直にそう返せば、いざとなったら頑張って下さいね、と斑鳩室長はしれっと言う。え、ソロモンって談話室でもそんな感じの場所なの? と顔に出した自分に、斑鳩室長は無情にも言い切った。


「小競り合いがあった時は勝てば官軍、ってのがセオリーですから。ま、後からどんな報復があるかはまた別の話なんですけど。基本、ソロモン王や総会が出張るほど大事にならない限りは、組織的な罰則は無いんですよぉ」


 語尾を欠伸で滲ませながら、それでも斑鳩室長は小さく威嚇するようにクライムとブランの間に立ち、白衣の裾を払った次の瞬間――、


「でも、ま。第8情報室うちにも似たような歳の部下がいるんで、黙って見てるつもりは無い、とだけ」


 ――ブラン君、良い子でしたしね、と。その背に巨大な翼を顕現させ、斑鳩室長は溜息と共にそう言った。


 翡翠と青の光沢が美しいその翼は、白衣を透かして小さな背中で大きく羽ばたく。揺れるそれはブランを守るようにクライムの視線から覆い隠し、ひりつく空気が戦闘の予感を感じさせた。


 仮想世界では嫌と言うほど味わった馴染みのある感覚に、自分はブランの肩に置いていた手に力を込めて小さな身体を後ろに下がらせる。斑鳩室長、狛乃さんっ、と不安そうに名を呼ぶブランを後ろに庇い、自分は胸の内に呼びかける。


 小さな獣。それは、自分が小さな頃から自分の内側にいる、よくわからない存在。けれど、自分が自分のままで火が欲しい時、いつもその存在に呼びかけていた記憶は薄っすらとだが存在する。



 ――だからこそ、自分はその小さな声を疑うことなく、即座に反応することが出来たのだろう。


(火を――)


 寄越せ、と。そう呼びかけようとした瞬間に、まどろんでいた小さな獣は薄っすらと片目を開き、囁くようにこう言った。


 ――〝うしろ〟


「――――」


 声に従い、自分はほとんど反射で動いたと思う。それは、仮想世界の中で培った技術。仮想世界の中で、嫌と言うほど師匠や先生達に叩き込まれた、戦闘技術。

 たかが仮想、と侮るなかれ。夢の出来事と笑うなかれ。夢の世界で、けれど魂に刻まれたそれは、地続きである現実世界にも等しい重さで持ち込まれる。


 ――――。


 音はしなかった。ただ無音で、柔らかそうな炎が真後ろからブランの首筋に迫るナイフをさせ、ほんの一瞬だけ遅れて、自分の左手が凶行に走った存在の首を真正面から掴み上げた。


 その手には、見覚えのある色と形がのたうつように這っている。適応称号――仮想世界の中だけに存在するはずのそれを想起させる赤の紋様が手のひらを這いあがるように動き、指先を血に染めるように赤くする。


 むき出しの肩と腕には炎がチラつき、首を掴み持ち上げられた女の顔を照らし出した。長い黒髪に、青白い頬。病的なまでに白いそれに鱗を散らす小さな蛇のような女は驚きに目を見開いて、チロリと二股の舌を覗かせた。


「――驚きですー。リトの速さに追いつく人間がいるなんて、いえ、あなた、人間ですか? 魔術師ですか? それとも別の何かですか?」


「ふざけ――ッ」


「ノン。あなた、何か違いますね? 魂のカタチが歪な気がします。リトは驚きですー。でもでも、あなた、まだ甘いんですね。べったべたな菓子みたいに甘い。その子、もう手遅れですよ」


 ――本気で守る気があるなら、一瞬でもっともっと遠ざけないとー。


 その少女が発する、間延びした言葉がどうにも理解出来なくて、自分は思わず眉を潜めて動きを止めた。思えば、何故この少女は自分に喉を掴まれているのに平然と話が出来るのかがわからない。


 締め上げるつもりで掴んでいる。それこそ、渾身の力を込めて。現に少女の身体が持ち上がるほどの力を込めているはずなのに、少女は苦しんでもいないし、何でもないことのように話し続けている。


 何故なのかを見極めるために目を凝らせば、自分の手からまるで少女に直接触れるのを拒否するかのように小さく炎が噴き出しているのを発見した。発見して、自分は少女の首を直接掴んでいるわけではないのだと理解した瞬間に、後ろから何か小さなものが倒れる音がする。


 そう、何か、小さなものが――、


「――……ブラン?」


 少女が発した、〝その子はもう手遅れ〟という言葉と、その音が今更ながら脳内で繋がって振り返り――。


 青褪めた顔で床に倒れるブランを見つけて、自分は理解出来ずに首を傾げた。


「……え?」


 あれ、どうしてブランが倒れているの? そんな意味の無い問いが脳裏に反響し、自分の左手から力が抜けた瞬間。少女はするりと蛇のように自分の腕から抜け出して、脱兎のごとく談話室から逃げ出した。


 周りで見ていた他の幹部と思しき人達が、あれは流石に不味い、追うぞ! と叫ぶ声が聞こえるが、自分はそんなことよりも、未知の恐怖にただ立ち尽くしたままブランを見下ろしていた。


「え、ブラン? え、どうして――」


「毒です! ブラン君、聞こえますか? 聞こえ――チィッ! 運んでたら間に合わない、医者はいま……せんね。使えない野郎共! おろおろしてないで第十二層からノルディック引きずって来い!」


「ッ……わかった!」


 斑鳩室長の指示に数人が反応し、ものすごい速さで走っていくのが視界にチラついた。けれどそれはどのくらいかかるのだろう? 第十二層? 此処は第六層で、そこから此処まで来るのにどれくらいかかる? その間、ブランは――、


「ぁ……あ、はっ……い、きが……ッ」


 呻く声、苦しそうな声がする。床に倒れたブランは蒼白な顔で苦しそうに自身の胸を掴んでいて、足は小さく痙攣している。震えるそれはどんどん酷くなる。秒単位で悪化していく様子を見下ろして、自分はただ動けない。


 どうして、どうしてブランが? どうして、何故、



『弱い者がこうなるのは、当たり前なんですよ。仕方のないことなんです』



 声が脳裏に木霊する。慈悲深く優しそうな声色で、あの女はそう言った。床に倒れるお父さんを見下ろして、さも当然とでもいうようにそう言って、それから――、



『そう。あなたが弱いから、幸せは――』



「――いやだ」


「……狛乃さん?」


 ブランのそばにしゃがみ込み、唐突にそう呟いた自分に斑鳩室長が訝しそうに名を呼んだ。けれど、それに答えている時間はない。今は、今はそう、ただ――ブランを救わなければならない。自分の大切な友人を。


 その力があるはずだ。あっていいはずだ。何故なら、自分はもう、無力な幼子ではないのだから。自分はもう、力ある者なのだから。


 決意を聞いた小さな獣が、〝たすけるの?〟と自分に向かって静かに聞いた。自分は迷わず力を求め、まどろんでいたそれは億劫そうに両目を開けて立ち上がる。


 ――それは自分の願いと共に。


小さな猫のカタチを取って、現実世界に、倒れたブランの顔を覗き込むようにして現れる。


ああ、どこからか声がする。否定の声。弱者を更に踏みにじる、復讐に燃える魔女の声が。




『あなたには、何もできない。だから、あなたの幸せは何もかも――』




「取り上げられて、たまるか――!」




 過去を跳ね除けるための叫びと共に。




 真っ白な炎をまとい、猫はそっとブランを撫でた。





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