第百五十話:逃げ道の先に道は無く、そして君は立ち止る。

 



 大階段の隅にうずくまりながら、鳥達が自分に気が付かずに立ち去ることを期待した。耳は自然に伏せられ、尾はくるりと丸まっている。


 強者たる〝狛犬〟から一転、弱者である〝子犬〟として。極大の恐怖を抱えながら空を見る。

 真っ暗な夜空を旋回する死神の群れに、震えながら息を殺した。彼等はいるはずの獲物を探して旋回している。いつ地上へ降りてくるかもわからない。


 空を飛んでいるうちは大丈夫でも、地上で探されたら見つかってしまうかもしれない。そうすれば今度こそ、魔のスパイラルに突入だ。大量のくちばしで延々とついばまれ、死んでは戻り、戻っては痛みと共に殺される。


 雪花が此処に死に戻りをしていると気が付いてやって来るか、翌日になり、誰かが〝迷宮都市、アルバレー〟に辿り着くまで、それは終わらないだろう。あるいは、鳥達の妙な動きを気にして、奇特な学習性AI入りのモンスターがやってくるまで。


 相手は学習性AIではなく、情けも容赦もない高性能AIだ。そこにはプログラムされた一定の行動があるだけで、途中で飽きるということはあり得ない。それこそ、彼等の腹が満たされるまで、この恐怖は続くことになる。


 そうなれば、もう自分はログアウトをしてやり過ごすしかない。魂の無い、空っぽの肉の器を放置して、助け出された頃合いを狙ってログインする――。


 本当は、そうするべきだ。むしろ、今まさにログアウトするべきだろう。打開策は存在しない、スキルも無ければ道具も無い。もう今日の間に出来ることは何も無い。残り時間は後17分。どうせ、助けを待つしか能がないのだ。


 ログアウトしてしまえ――。しかし、そう叫ぶ理性を、頑なに拒む心がある。何の意味が無くとも、それは〝逃げ〟だと叫ぶ自分が。これはゲームだ。けれど、ただのゲームではない。


 自分は、この世界で〝力〟を得て変わったから。この世界で、色々な人達に出会い、そしてそれは現実へと続いている。続いているのだ。

 VRとは、仮想世界とは素敵な別世界ではない。便利な逃げ道でもない。何故なら、


 問題から逃げ切ることなど出来ない。仮想世界へと場所を変えても、目を背けても、聞こえない振りをしても、何も言えない振りをしても。心の底から嫌なことを取り払うことは出来ないし、忘れ去ることも出来ない。


 反面、仮想世界で得たモノも消えはしない。記憶は経験になり、経験は人を変え、そしてそれは同じ重さで現実世界に持ち込まれる。【Under Ground Online】のような、現実と変わらないように見える世界ならばなおのことだ。


 嬉しいことは、嬉しいことのまま。辛いことは、辛いことのままで。


 それをよく理解した今だからこそ、聞いた言葉が殊更に脳裏によみがえる。




 ――『〝擬似〟だからと気を抜けば、ゲームだからと手を抜けば、それは現実で明確な形になって返って来る。一朝一夕に一生懸命にはなれないし、一朝一夕にいい加減にもなれはしない』




 かつて、陸鰐に追われ、絶体絶命だった時に聞いた声。




 ――『その魂がどこに在ろうと、一瞬でも手抜きの生き方はしてはならない』




 聞く人が聞けば、鼻で笑われてしまうような人生観。それを、フベさんは静かな声で滔々と語っていた。あの時、その横顔に浮かぶわずかなにがさを見つけなければ、自分も鼻で笑っていたかもしれない言葉が、どうしても〝逃げ〟を許さない。


 チクショウ、と悪態をつきながら。怯え、震え、頭を抱えてうつむきながら。それでも自分は、ログアウトだけは出来なかった。



「……もし」



 小さな意地とプライドと――……かつて聞いた静かな声を、忘れることが出来なかったから。だから、うつむく自分の耳に、思い出と同じ静かな声が届いた時。自分は初め、それを幻聴だと思っていた。



「――もし」



 けれど、2度目にはっきりと響いたその声に、聞き間違いではないとがばりと顔を上げた。自分がいる場所は暗く、比較すれば外は明るい。逆光と弱い視力ではよく見えずとも、自分はその声をよく知っていた。



「おや――やっぱり、ログアウトしなかったんですね」



 その声は愉快そうにそう言った。愉快そうに、けれど、ほんの少しだけ憐れむように。



「辛い生き方になるでしょうが、それでも貴方は道を選んだ。色々なことを聞いて、見て、知って、そして今日まで歩いてきた。最初の日から、貴方はずいぶん変わりましたね」



 この声を、自分は知っている。



「まさか忘れたとは言われないと信じていますが、自己紹介をしましょうか」



 影が屈み、腕が伸ばされて自分の小さな身体が両手で抱き上げられる。子供に高い高いでもするように持ち上げて、その人は静かに自分と目を合わせた。



「――藤堂とうどう博樹ひろきと申します。お久しぶりですね、さん」




 VR世界の中に、現実の存在を引きずり込んで。その人、フベさん――いや、藤堂博樹はそう名乗った。

 ウルフカットの白い髪が海風に揺れて、少し垂れた瞳が星を映して銀色に光る。血色の良い唇が滑らかに動き、微笑みと共に彼は言う。



「さあ、この身体は雪花君の所に届けておいてあげますから、現実世界に帰りますよ。貴方は今日から、ソロモンの幹部の助手さんという身分ですからね。授業の前に一通りの知識は入れなければならないでしょう?」



 貴方の家の玄関先で、ブラン君が待っていますから――そう続け、銀目の魔王は有無を言わさない様子でほら、さあ早く、とログアウトをせっついてくる。


「っ、わふっ!?」

(なに、どういうことですか!?)


 未だに状況を飲みこめないでいる自分が声を上げても、現実世界の名を名乗り、暴き、更にとんでもない爆弾を披露したフベさんは動じない。

 それ急げ、やれ急げ、と言うフベさんはぎゃんぎゃん吠える自分とぴたりと視線を合わせ――、


「後で全部わかりますよ」、と。あらゆる疑問に蓋をする台詞を吐いた。そして自分はその圧力に押されて思わず、ログアウトの文字をタップしたのだ。


 途端に暗闇が四方から迫り、小さな身体から魂が解放される。そして、意識は混乱を抱えたまま浮上していき――真っ暗闇の中で、わけがわからないまま現実世界の肉体が目を覚ました。
































第百五十話:何故ならそこは――君が逃げ出した場所に続いていたから。































 混乱したままログアウトをし、現実世界で〝ホール〟の蓋を開ける。ベッドのような内部から這い出して、素足が冷たいフローリングに触れてようやくホッと息を吐いた。


 人間ではないものにせいか、いつもよりも戻った時の違和感が強いような気がする。


 二本足で立ち、腕を伸ばして屈伸を1つ。そうしてから、ログアウト直前に起こった衝撃的な事件を思い起こし、自分は混乱している情報を1つ1つ整理していく。


 まず、フベさんは時折ニュースでも名前が出てくる藤堂博樹だった。これについては、まあまだいいだろう。

 ルーさん=前埜まえの優太ゆうたという前例もあるし、というか【あんぐら】に四六時中ログインしている人達は、時間とお金の余裕から逆算すると、有名人がチラホラといるらしいというのも有名だし。


 次に、フベさんは藤堂博樹で、どうやら自分のこともソロモンの事も知っていて、ブランのことも、自分が琥珀さん達に頼んでソロモンの授業に助手として潜り込むことも知っているらしい――、とそこまで考えてから自分は思わず絶句した。


(――あんがい世間って狭い)


 ニブルヘイムといい、フベさんといい、直接自分とは関係ないが、どこか間接的に関係のある人が多過ぎる。それとも、現実に人と関わると、知り合いの知り合いは友人で、世間というものはあんがい狭く固まっているものなのだろうか。


(えー、で。他には何て言ってたっけ……)


 こうなりゃもう自棄だと、続けてフベさん――藤堂さん――ああもうフベさんでいいか。フベさんが言っていたことを思い出し、自分は2度目の絶句。

 慌ててサイドテーブルの上をまさぐり、ゴーグルを装着。玄関まで大急ぎで走りこみ、スコープを確認する手間も惜しんで鍵を開け、扉を開けば――、


「あ、狛乃さん! こんばんは! 僕、ちゃんとお迎えに……あれ……? ちょっと早いですけど、もう【あんぐら】終わったんですか?」


 ――鼻先を寒さに赤くした少年が、腕時計を確認しながら首を傾げてそう言った。


「ブラン! 寒かったでしょう!」


「――ぇ」


 青い長袖シャツに、ベージュの長ズボン。首には同じくベージュのポンポンマフラーを巻いてはいるが、その鼻先はほんのり赤く、指先をすり合わせる動作はどう見ても寒かったとしか思えない。


 季節はまだ辛うじて秋とはいえ、今は真夜中。午前0時の冷え込みは真冬ほどではなくとも身に染みる。おまけに、いったい何時いつからいたのか、思わずその小さな手を取って両手で包めば、小さな指先は氷のようにヒヤリとしていた。


 かわいそうに、暖めてあげなくては、と思うがままに。小さな手を両手で握ったまま、自分は――、


「――ブラン? どうしたんだい?」


 ヴェールのように柔らかな橙色の炎で彼を温めながら、見開かれた赤い瞳を見つめ返す。ああ、全く。かわいそうに。こんなに冷たくなって、風邪でも引いたら大変だろうに。


「狛乃、さん? あ、どうしよ。えっと――」


「ほら、中に入って。一体いつから居たんだい? 夜中は冷えるんだから、今度からは中で待てるように手配をしようね」


 邪魔なゴーグルを押しやりながら、温かいミルクを用意するからお入り、と言えば少年は戸惑った様子で立ち止る。どうしたんだい? ともう一度聞いてみれば、彼は動揺しているようで、えっと、を繰り返すばかりで動かない。


 何か中に入れない事情でもあるのかもしれないな、と当たりをつけ、自分はそっと栗色の髪を撫でてやる。不安そうな子供は、頭を撫でてやるか抱きしめてやるのが一番だからだ。

 抱き上げてやる、という手もあるが、彼もそれなりの歳のようだから恥ずかしいだろう、と自粛する。


「ブラン、無理に入らなくてもいいんだよ。ほら、温度だけは自由だからね」


 たとえ家の中に入らなくとも、少年を内側からも外側からも暖めることは可能だ。橙色のヴェールを増やせば、途端に秋の真夜中ではなく、暖かな春の陽気になる。


 けれど、彼は喜ぶどころかぎゅっと唇を引き結び、小さな声で「僕が、僕が任されたんだから……!」と呟いて、背負っていたリュックを大慌てで下ろして、開き始めた。


 しげしげと見ていれば、少年はリュックから金属の箱を取り出した。それを手にしてふーっと深く息を吐き、少年は自分の真正面に立ってからこう言った。


「狛乃さん。僕の話、よーく聞いて下さいね」


「勿論。君のことは大事な友達だと思ってるし、聞いてほしいことがあるなら最後まで聞くとも」


「とても嬉しいです――では。良いですか、今から、狛乃さんにあるものを渡します」


「ふむ」


 あるもの、とは恐らく彼が手にしている金属の箱のことだろう。中に何かが入っているのか、それとも箱そのものがあるものか。



「これは――くさびです」



 少年の声が、自宅の庭先に小さく響く。



「これは――亜神である貴方を、コントロールするためのものです」



 彼は、赤い瞳を光らせながら、自分に言う。



「これを吸っている間は、亜神でなくとも大丈夫ということにするんです」



 ――狛乃さんのお友達のために。狛乃さんが無理をしなくても大丈夫な時は、これを使ってください。



 赤い瞳の少年は慎重にそう言って、自分に金属の箱を差し出した。開けば、中には美しい長煙管が収まっている。銀の吸い口と火口ほくちには見事な飾り彫りが施され、繋ぐ胴は黒檀で作られた随分と上等な一品。


 少年はじっと自分の様子をうかがいながら、それは吸えば煙が出る、工房魔法で作られた長煙管だと言った。


「上物だね」


「……」


 怯えているのか、少年は黙ったままだった。じっと拳を握り、肩と足に力を入れ、彼は不安そうに自分と長煙管に視線を彷徨わせる。


「――ありがとう」


 だからなのか、少年は自分がそう礼を言えば、驚いた様子で目を見開いた。自分はもう一度柔らかな髪に手を伸ばし、ゆっくりと彼の頭を撫でながら言う。


「覚えていてくれたんだね――戻すにはどうしたらいいか、という自分のお願いを」


 喋れるうちに、肉声でお礼を言っておくよ。そう言いながら長煙管に口をつけゆっくりと息を吸えば、少年は――ブランは、泣き出しそうな顔で頷いた。


 ゴーグルを元の位置に戻し、苦笑いをしながら自分はブランを抱きしめた。出ない声の代わりに、大丈夫、ありがとう、と伝えるために。

 炎はほどけるように消え、春の陽気から一転、再び秋の冷たい夜風が吹き抜けていったけれども、



「これ、これ僕が作ったんです……効果があって……本当によかったっ。本当に……っ」



 抱きしめたブランは暖かくて、寒いとはちらりとも思わなかった。





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