第百四十一話:灰溜まりの赤
第百四十一話:
くろくもが
もくもくとしたかげは すべてをおおう
あれはなんだと りゅうがほえる
あれはハブだと おおいぬがいう
そらは すっかりくらくなり
そのひ かれのたのしみがはじまった
ハブ・エント紀、もしくは迷暦1年 『さいしょのおうがい』より エヴィン・S・アルキード
積乱雲が空を覆う。黒一色の空には横這いに赤い何かが走り、ぽつり、とそこから水滴が落ちる。1つ落ちれば、2つ落ちる。2つ落ちれば、一呼吸でもっと増えた。
雫は瞬く間に小雨になり、小雨は豪雨に変わっていく。エフラーの街に建つツリーハウスの
帰ってきた仲間たちに申し訳なさそうに頭を下げる狛犬は、その様子を横目で見ては小さく唇を噛みしめる。
オーバー大樹海地帯はほぼ全焼。【
草原の青草には灰色の染みがこびりつき、雨に流されては人に踏まれて汚れていく。歩けども歩けども夜空に続く黒雲は、自然現象というにはどうにも不可思議なほどに巨大で異様だった。
実際に、それはただの雲ではなくなっていた。積乱雲、とプレイヤー達は言うが、事件を知り、遠目にそれを見やるNPC達はこう言った――〝
それは歌う、と彼等は言う。
羽化の時に歌うのだと。その産声は美しいが、それを聞く者は注意すべきであるともいう。
何が歌う? と
――精霊だ、と彼等は言った。
誕生と共に、それは歌う。目に見えない幻精霊が、羽化して精霊になる時に。
だから、謳という字が使われている。
彷徨い人は、こうも聞いた。では何故、そこに
彼等は少しの沈黙の後、恐ろしそうに囁いた。
――精霊は、羽化した直後に肉を食う、と。
正確には肉に、その細胞に含まれる純因子のことだがと、彼等は静かにそう言って、それから気の毒そうに
視線は、黒い雲と、そこに走る赤い何かを見つめている――。
オーバー大樹海地帯には、火属性の幻精霊が集まっていた。何故と言えば、そこに大量の餌があったからだ。超規模の炎獄系魔術による、火属性の赤い因子が大量にばら撒かれていたからだ。
術者が放つ、鮮烈な赤の因子。幻精霊は狂喜乱舞してそれを喰らい、それを目当てに他所からも赤の精霊達は集まった。
それだけならば、まあ特に問題はない。集まった幻精霊はたらふく餌を食べて成長し、羽化のために純因子を求めて移動していくだけで終わる話のはずだった。
けれど、オーバー大樹海地帯は燃えていた。木々が燃えれば、当然、木々の細胞に含まれていた純因子がばら撒かれることになる。
それは、常ならば考えられないような規模と量だった。しかも、積乱雲によって絡め取られたそれは、散らばることなく上へ集められることとなる。
特定の色の幻精霊が多い所に、大量の因子と純因子がばら撒かれた。それは積乱雲と共に空へと昇り、形無き幻精霊は因子を吸って精製しながら急速に成長する。
成長した幻精霊は同じく大量に散らばる純因子を使って
羽化したての精霊は、大量の純因子を消費して存在を確立する。そうして有り余る
純因子も因子も途中で足りなくなり、栄養を求めて肉のあるところへ移動する。火属性の性質は――増幅と加熱。
積乱雲を膨張させ、雨と共に彼等は増える。
爆発的に増えていく。
「……なんだ?」
それは、彼等にとっては引っ越しの最中の出来事だった。
狛犬と、雪花と、ギリーと子竜達、モルガナという、ギルドに入る前からのメンバーにブチ猫のケット・シーを加えた集団は、ギルドマスターであるノアの決定に従い、懸賞金がかけられている間は、『ランナーズハイ』の遊撃部隊として活動することになったゆえの引っ越しだった。
本拠地として購入した〝光を称える街、エフラー〟の拠点は残しつつ、外からの追及を避けるために表向きは狛犬一派を追放した、と宣言することになったのだ。
信じる者と信じない者がいるだろうが、全ては建前なのだから大した問題は無いと狛犬は頷いた。むしろ迷惑をかけて本当に申し訳ないと平謝りしたのだが、ギルドメンバー達いわく、そこは仕方が無いから気にしなくて良いと温かいやり取りの末の決定だった。
連絡には木馬の陸鮫やデラッジの赤猫などを使い、指示もメッセージ機能とそれらのモンスターを活用することに決まり、目指すは竜脈、今はモルガナとギリーの背に必要と思われる荷物を積み込んで、子竜達が陸鮫の子達に束の間の『お別れ』をしている所だった。
モルガナを傷つけたことを謝りつつも、でも確かに胸や尻を見つめるのは止めて欲しかったんだけど、と。
エロをこよなく愛するモルガナに無駄な説得を続けていた狛犬の耳が、微かな異音を捉え、その顔がふと窓の方へと向けられた。
その様子を見て、ふんふん、と頷くばかりでまともな返事をしないモルガナが、気怠そうに狛犬に声をかける。
『どうした、狛犬?』
「いや、なんか――歌?」
『歌?』
怪訝そうに狛犬は眉根を寄せ、遅れてギリーも主人と同じように耳をぴんと立てて頭をもたげた。視線は窓の外に向けられ、警戒するように顎を引いて耳が拾う音に集中する。
足元では子竜達が悲し気な声と共に、自身の宝物であるアドルフの骨を陸鮫の子達に差し出していた。橙とネブラがそれぞれ、狛犬と連携して戦闘し、初めてしとめたアドルフの骨だった。
狛犬が骨を愛でるせいもあるのだろうが、野生の肉食モンスターが手軽な玩具として獲物の骨で遊ぶように、彼等もまた、適当な大きさの骨を噛んだり振り回して遊ぶのが好きだったのだ。
お気に入りの、時に陸鮫の子達と遊ぶ時に取り合いになることもあったそれを、別れを惜しんで子竜達は鼻先で子犬達の前に押し出した。木馬によって、親は
雪花が肩にタマを乗せながら、そんな子供達の頭を交互に撫でて、また会えるからと慰めの言葉を口にしていた。なんだかんだ言いながら、狛犬や木馬よりもこまめに世話を焼いている雪花の懐に、両方の子供が泣きつくようにもこもこと群がり、ぎゅいぎゅいと人にはわからない声を上げている。
そんな別れを横目にしながら、狛犬はモンスター用の小屋に取り付けられた晶石窓をがらりと開けて、緊張した様子のギリーと一緒に顔を出す。
ツリーハウス共々、統括ギルドの真横の土地をギルドメンバー全員で出資して借りただけあり、1億の賞金首となった今でも、セーフティーエリア内だから窓から顔を出すのも安心だった。
何の騒ぎだと目を細める狛犬の目に、すぐさまわかりやすい異変が映る。夜空を覆う巨大な
「……雪花」
「あー、よしよし。寂しいよなぁ、わかるよー……ん、はい? どしたのボス?」
聴覚強化のパッシブスキルを持たない雪花に、耳はあまりよくないというユニコーンと陸鮫とケット・シーは、狛犬とギリーの警戒に、なんだなんだと顔を上げる。
けれど彼等もセーフティーエリアの内側にいるからか、その警戒心は普段よりも緩められているようだ。のんびりとした語調で雪花が言い、狛犬がそれを叱りつけるように短く、低い声でぴしゃりと言う。
「何か、あの雲……変だ。雪花、支度をしろ。モルガナ、何か知らない?」
『どれ……ああ、足が痛む。やはり、後で狛犬にさすってもらわなければなぁ……』
狛犬に言われ、えっこらえっこら、傷はもうすっかり良くなっていると言うのに、わざとらしくびっこをひきながらモルガナが窓から外を覗き込んだ。モルガナはそのまま硬直し、紺色の瞳をわずかに見開いてから、すぐさま頭を窓から引っ込める。
『――謳害だ』
「おうがい?」
聞き返す狛犬に、モルガナは早く移動するべきだな、とだけ返し、次の瞬間、狛犬にむんずと螺旋の角を引っ掴まれて悲鳴を上げた。
「聞き返したら説明をしろってことだよ!」
『わかった、角は止めろ、止めるのだ!』
「それで――おうがいって?」
突き放すように角を放し、狛犬が問えばモルガナはぶるりと身を震わせながら狛犬と距離を取る。雪花の後ろに回り込み、モルガナは咳ばらいを1つしてから〝
蝗害――それは、トビバッタの
バッタが食べるのは草だけだが、同じような現象が精霊によって引き起こされることがある。
これは実際に現実世界でもあることだが、精霊が絶滅寸前である現代では忘れられた災害でもあった。
何せ、謳害が起こるほどの数がいない上に、そういった災害が起きないように、各国の政府と魔法関連総合結社であるソロモンが厳重に注意を払っている。
だが、ここはVR。それも、大自然豊かな世界を再現したファンタジーゲームだ。当然のように組み込まれている精霊という存在は、条件さえ整えば仮想世界でも現実と同じような現象を引き起こす。
名を〝
それは、トビバッタが引き起こす災害などよりも、もっと直接的に生物の害になる。彼等は、羽化の直後に肉に含まれる動物性の純因子を必要とするからだ。
細胞を破壊し、そこにある純因子を喰らうために。普段は腐肉を待ち、そこに群がる彼等は、この時ばかりは生きた動物の肉を穿ち、切り裂いてそれを得ようとする。群体となったトビバッタがそうなるように、群れた彼等は常には見られない強い凶暴性を示すようになるからだ。
例外は、精霊が愛する存在のみだ。竜などの一部の存在以外は、誰もその牙から逃れることは出来ない。
そこまで語り、モルガナはこの混乱に乗じてならば、尾行も無く竜脈に逃げられるのではないか? と呟いた。その話を聞いてせっせと各掲示板を確認し始めた雪花もまた、軽い調子でこう言った。
「あー、確かに。今、攻略最前線でキャンプ張ってた攻略組が大混乱に陥ってるらしいよ。契約モンスターや〝始まりの街、エアリス〟のNPCから情報が出たみたい――うわっ、ひでぇ!」
攻略組の最大の強みはその数であり、その最大の弱点も数である。
少人数のギルドでは護衛の数に不安があることから、とてもではないがセーフティーエリア外にキャンプ地などを築けないが、彼等は別だ。その人数の多さから好きな時間にログアウトが可能だし、ログアウト中の空の器は仲間の内の誰かが守ってくれている。
人員が多いことは必然的に契約モンスターが多くなることにも繋がり、赤竜トルニトロイや猫又:銀鱗刀雷丸などの名のあるモンスターが見張りに着けば、人喰いガルバンでさえ気にする必要が無い。
それゆえに、彼等の拠点はセーフティーエリアだけに留まらない。攻略を円滑に進めるために、オーバー大樹海地帯を越えて北に向かうことを予定して、彼等は最も目指す場所に近い所に拠点を置いた。
生産職プレイヤー達が協力して簡易な小屋を量産し、貯蔵庫を作り、畑を作り、鍛冶場を作り、最近は金のために酒さえも造り始めたというその拠点。
それは、最もオーバー大樹海地帯に近く、そしてその拠点のどこにもセーフティーエリアは存在しない。否、存在はしているが、それはランダムで出現、消失するセーフティーエリアであって、永続性のないそれを〝ある〟というのは
ここで、常ならば気にする必要のない問題が生じてしまった。通常ならば、考える必要すら無いレベルの問題が、今日に限って起こってしまった。
それは、精霊達にとっては馳走の場だった。ご馳走の並ぶ、肉の塊の山。溢れるプレイヤー達は、群体となり、凶暴化した精霊にとってはそう見えてしまったのだ。
「ボス、見て」
「……うおお」
雪花が言いながら公開設定にした動画には、おびただしい数の赤い小さな精霊達。鳥の姿と竜の姿をした彼等は手のひらサイズで1匹1匹を見るならば可愛らしいが、それは数えられる程度の数ならば、の話であった。
空を覆う、黒い積乱雲。そこに走る稲妻と共に、数えきれないほどの赤い精霊達が踊り狂いながら、逃げ惑い、応戦しようとするプレイヤー達に集団で襲いかかっていく。顔に群がられ、魔法使いが喉を詰まらせて仰向けに倒れれば、蟻が死にかけの動物に群がるように精霊達が殺到する。
剣を振り回す剣士に群がった精霊達は、その性質で
彼等の性質は――増幅と加熱。増幅された熱と、際限のない加熱に鎧は溶けだし、飴のように滴るそれと共に剣士はゆっくりと傾いでいく。
剣士は大地に倒れることすら許されず、精霊に群がられて僅かに浮いた遺体が次の瞬間に弾けて光となって消える。明滅する魂は地中に吸い込まれていき、最寄りの教会へと飛ばされていった。
その瞬間に、純因子が得られなくなった存在からは蜘蛛の子を散らすように精霊が散り、次の獲物を探して移動していく。
満足のいく純因子を得た何匹かは、歌声のような声を上げながら
阿鼻叫喚の映像は運営側が例外としてゲーム内限定で配信している動画で、撮影者が不在の中、次々と攻略組の拠点に襲い来る精霊の様子を映し続ける。
「ボス……」
「……」
そんな映像をぽかん、と見つめている狛犬の横で、雪花は別ウィンドウで掲示板を見つめていた。そんな彼が声をかけても、狛犬は映像に釘づけで聞いていない。
「ボスってば!」
「なんだよ、今、すごいところで――」
焦りを含む声が雪花の喉から放たれ、腕は狛犬の腕を掴んでぐい、と揺さぶった。わずらわしそうに雪花に視線を向ける狛犬に、彼は半分自棄になったような顔でこう言った。
「――ボスがやった、って掲示板で言われてる」
「……は?」
なにそれ、と言った顔で首を傾げる狛犬に、雪花ははっきりと言いなおす。
「ボスが差し向けたってことになってる。いや、正確には、謳害の原因がボスだから――その、」
「その、なんだ」
言いよどむ雪花を狛犬が促せば、雪花はもごもごと唇を噛みながらも、思い切った様子で結論を口にする。
「被害がデカすぎて、笑い話じゃなくなった……狛犬を許さない、責任を取らせろ、って本気っぽい書き込みが増え始めてる」
「――――」
――オーバー大樹海地帯大炎上までは、まだ笑い話で済むことだった。
けれど、今回ばかりは笑い話で済むことではない。そもそも、オーバー大樹海地帯を炎上させずに美獣フローレンスを倒せたとしても、その後の森林伐採をフローレンスが許すはずはないという考えは広く周知されていた。
だからこそ、オーバー大樹海地帯が全焼してしまったぐらいでは、まだどのプレイヤーもやりやがった! 程度の認識だった。人によっては、お祭り騒ぎだ! とビッグイベントのように言っていた者もいた。
けれど、これは違う。今回の件は違っていた。
被害は大きく、建てた小屋は加熱の性質によって燃え尽きた。プレイヤーは装備もろともズタボロにされ、畑こそ無事だったが、多くの家屋に保存されていた素材がダメになった。
それだけではない。精神的な被害も大き過ぎた。攻略組に所属する彼等が今見ているのは、自分達が時間をかけて積み上げてきた努力が、ほんの一時で瓦解していく様子だ。
努力が無駄になる瞬間、人は強い喪失感を味わい――そして、その感情を怒りに転化する。
矛先は――、
「〝これは天災ではない、――人災だ〟」
そんな掲示板のタイトルの横には、ある意味で最近のVRにおける、知名度の象徴のような二文字があった。
俗にいう、二つ名。それだけ名が知れているということを示すそれは、ある意味では意外であり、ある意味では頷けるものだった。
狂犬でもなく、首狩りの狼とも言わず。ニブルヘイムに乗った狛犬の頭上にも、オーバー大樹海地帯にてフローレンスを追い立てる狛犬の頭上にも、それはあった、と口にして。
「【
狛犬は、その日、初めてそう呼ばれた。
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