断章:「Ju lemeny」
「おかーさん」
小さく、はにかむように笑う人だった。どこかの国の言葉で書かれた絵本が大好きで、自分にいつも読んでくれた。
「おかーさん、どこ?」
小さな自分を柔らかく抱きしめて、いつも〝愛しているわ〟と囁いてくれる人だった。彼女はいつもこう言うのだ。いつも大事なものには優しくしなきゃダメよ、お母さん、狛ちゃんがそうしてくれたら嬉しいわ、と。
「おかーさん」
春の野花のような人だった。温かくて、柔らかな甘い匂いの。彼女はいつも微笑んでいて、小さな自分の頬をふんわりした手で挟み込み、額にキスを落としてこう言うのだ。狛ちゃんもいつか、この絵本の主人公みたいに本当の友達を探すのよ、と。
「あ、おかーさん!」
絵本の中の主人公は人狼で、時々すごく怖い姿になる。でもね、と彼女はこう言うのだ。この子の中身は、なんにも変わっていないのよ、と。
「これね、おとーさんが捨てたから狛乃が拾ったの! 兎の骨!」
自分はいつもこう言った。でもね、おかーさん。この主人公は怖い姿になった時、狼みたいに遠吠えもするし、お肉も生で食べちゃうんだよ? と。
「まあ……ダメよ、狛ちゃん。兎の頭なんて……」
すると彼女はこう言うのだ。だって狼さんだもの。でも、お友達の名前も顔も、忘れたりなんかしてないでしょう? だから別に、そんなことは何てことないことなのよ、と。
「そんなぁ、ダメ?」
そっか、と自分は言った気がする。それもそうか、と思ったのだ。確かに、本当に大切なことさえ忘れなければ、そんなことは何てことないことなのだろう、と。
でも、どうしておかーさんはその絵本がそんなに好きなの? と尋ねると、彼女は本当に嬉しそうに微笑んだ。
「ええダメよ。こういうのはね、ばっちいんだから――ちゃんと綺麗に洗わないと。お父さん、狛ちゃんの宝物、消毒してあげて!」
――「お母さんね、信じているの。きっと狛ちゃんにも、この絵本に出てくるみたいな、素敵なお友達が出来るんだろうって」
「違う! なっちゃん、違うだろう! まずは娘が骨なんか拾って来たことに対して言うことがあるだろう!」
父はいつも母の教育方針に物申したいことがあったらしいが、自分はそんな母が大好きだった。彼女はいつも祈らないのだ。彼女はいつも、信じていた。彼女はいつも、満面の笑みで自分に言ったものだった。
「狛ちゃんの宝物に骨なんかって言わないのよ。狛ちゃんは頭の骨とか、卵とか大好きなんだから」
――「狛ちゃんはいつか、きっと誰よりも幸せになれるわ。お母さん、信じているの。きっと、きっとよ」
「だからトルカナ様に、男神様と同じ好みとは大物になるぞ、とか言われるんだよ! 狛乃、それは捨てなさい。もういっぱい持ってるでしょ!」
――「だからね、大丈夫よ」
「いや! この森では、はじめてだもん!」
――「寂しくなっても、ほんの少しの間だけよ」
「いや、じゃない! 来なさい狛乃――あ、なっちゃん、止めて、それめくっちゃ……!」
――「……もしも、1人になっても。狛ちゃんなら、きっといつか、大切なもの何でも守れるくらい強くなれるわ」
「狛ちゃん、ほら。兎もいいけど、お父さんが隠してた鹿の頭があるわよ。うふふ、やったわね狛ちゃん。大物よ☆」
――「だって」
「兎いらない。あげる。おかーさん大好き!」
――「お母さんとお父さんの、大切な子だもの」
ぶらり、と銀の虎の首をぶら下げながら、何故、今ふと浮かんだ思い出がそれなのだろう、と思ってから、すぐに理由に気が付いた。
雷撃と炎で塵になってしまった草原を踏みしめて、聞き慣れた足音が近づいて来ているからだ。
おろおろしながらギリーがその足音に走り寄り、その足音は背を向ける自分を前に立ち止まる。
溜息と、息切れの音。ギリーの不安そうな声が、雪花、と足音の持ち主の名を呼んだ。
「……」
雪花は一言も喋らない。自分もまた、振り返らないし喋らない。
そうして少しだけ時間が過ぎて、自分は思い出したように雪花に言う。
「――怖くない?」
すると、雪花は振り返らない自分の前まで回り込んで来て、虎の首をひったくった。橙色の瞳が自分の目を覗き込んで、彼は珍しく真剣な表情で言う。
「――俺がボスのこと本気で怖がったことあった?」
少し迷ってから、ない、と答える。彼は、そうでしょ、と言ってから、帰るよ、と自分の腕を掴んで歩き出した。それに逆らうことなく歩きながら、自分は雪花にこうも聞く。
「――雪花って、友達いる?」
「急にどしたの。友達なら、ボスがいるでしょ」
そっか、と自分は呟いて、歩き続けながら目を閉じた。ギリーが安堵した息づかいで後ろに続く。
歩きながら雪花が文句を言う度に、自分は生返事をしながら頷いた。
瞼を上げれば、空にはもうすっかり月が上がっていて、待って、と自分が呟けば、雪花はぴたりと足を止めた。
何を言おうと帰るからね、という目つきで自分を見る雪花を無視しながら、『レッドデヴィル』を両腕から外して、それに包まれていたおかげで真っ白な素手を晒す。
地に捨てられる爪を見ながら、察しの良い彼はただ黙って一歩下がった。
「ギリー……おいで」
『――!』
一言呼べば、すぐさま駆けてくる。赤と、黒と、白の斑の、大事なギリー。彼は耳を目一杯に伏せ、尾を丸めながらも必死になって自分に近付き、その濡れた鼻先を自分の頬にすり寄せた。
「ギリー……――怖い?」
『――』
『レッドデヴィル』を外した両手をだらりと垂らしながら、ギリーに触れることなくそう問うた。一瞬で声を失い、息を詰まらせたギリーの喉から、ひゅん、と哀れな鳴き声が零れ落ちる。
『いや――いいや! 怖くない!』
ギリーの必死な叫び声。けれど隠しようがない恐れが彼の瞳に現れていて、その声を聞いてゆっくりと腕を上げる自分に向かって、彼は焦ったように言い募る。
『本当だ、主! 本当なんだ、怖くない! 怖くな――』
「……ギリー」
『――』
「――……怖かったね」
ごめんね、と言いながら――ギリーの頬を手で挟み込み、額にキスを落として、その頭を抱きしめた。
「大丈夫。何も変わったりしてないよ」
でも、急だったからね、怖かったね。そう言いながら、かつて自分が安心した動作をギリーにも繰り返す。素手で柔らかく抱きしめて、何度も何度もその頭を撫でていれば、震える声があふれ出した。
『い、いいんだ。いいんだ。そんなことは、私はただッ……主が、主が……』
その続きは、ギリーの喉からは上がって来なかった。
ただ、涙声が〝いいんだ〟を繰り返し、ギリーは必死になって、自分が此処にいることを確かめように、その鼻先を寄せ続けた。
かつての母のように花の香りはしないかもしれないが、自分はギリーを抱きしめ続けた。
――その震えが止まるまで。
「
(「あの子は言った」――「怖くないかと」)
「
(「その子は答えた」――「怖かったよ!」)
――「
(――「大事な友達が、いなくなったかと思ったんだから!」)
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