6:Under Ground(意訳――蓋然性禁忌)

第百十六話:question

 





「おとーさん」


 小さな声が父を呼ぶ。周りの景色は曖昧な緑で埋められていて、自分の目には小さな赤い炎だけが映っている。ここはどこだろう。森の中だろうか? そうかもしれない。懐かしい、と思う自分と、新しい場所だと新鮮さを楽しんでいる自分がいる。


「ん、どうしたー? 狛乃」


 父が答える声が聞こえる。自分の視線は動かずに、小さな指がそれを示す。身体は自分の意思のとおりには動かない。けれど自然に動く、手と唇。


「これ、おとーさんが消したたき火、またもえてるよ?」


 父が近付いてくる気配がする。後ろに立って、父はしまった、というような声で言った。懐かしい声に、自分の目が細まる――ことはない。自分の目は大きく開かれていて、小さな炎をじっと見つめている。


「あっちゃあ――残り火だ」


 のこりび。その音が耳に反響する。自分はその意味を知っている。けれど、ここにいた自分は知らないらしい。わからない言葉は自然と頭に入らずに、オウム返しに同じ言葉が吐き出される。


「のこり火?」


 疑問に、すらすらと答えが返って来る。


「そう。消したつもりでも、こうして火が残っていることがあるんだ。これを残り火という」


 今の自分は知っていても、かつての自分はそれを知らない。


「へぇー、すごーい!」


 無邪気にその現象を喜び、面白がる自分に、父は曖昧な声で小さく唸った。


「いや、火事の原因になるから、よくはないんだけど……」


 小さな自分はそんなことには気が付かない。ただ純粋に、思ったことが口から出る。


「すごーい、おとーさん、つよい火だね!」


 幼子おさなごを言い負かすほど、父は大人げない人ではなかった。話を合わせ、大きな力強い腕が自分を抱き上げる。大好きな父親の高い高いに、喜ばない子供はいない。


「――そうだな。強い火だ。狛乃も強くなるんだぞー!」


 つよくなる、その意味もわかりはせずに、幼い自分にとっては強さの象徴だったものの名前があがる。戦隊ヒーローの名前を口にするように。


「うん――こまの、つよくなる! ガオーマンみたいに!」


 父はその正体に思い至り、とたんに嫌そうな声を出す。ハイエナの着ぐるみは不気味なはずだが、当時の自分は、それが格好いいと本気で信じていた。


「え、ガオーマン? ……レジナルドの被りモノかッ、あれガオーマンって言うのか!?」


 ガオーマンは視線だけで木を倒す。どんな理屈かは知らないが、あの頃の自分は、それをとにかくすごい、で片づけていた。子供って怖いと思う。


「ガオーマンすっごいんだよー。木とかね、ばきばきばきーって! 見るだけで倒しちゃうの!」


 その仕組みに理解があるのか、父はそれを聞いた途端に青褪あおざめて、子供のちゃちな思考を誤魔化しにかかった。


「へ、へぇー……。あ、狛乃、ジュースあるぞ、ジュース!」


 目先のジュースにつられ、自分はガオーマンのことなど一瞬で忘れただろう。喜びながらジュースに飛びつく自分に、父は安心しきれないというように微妙な笑みを浮かべている。


「おおー! ジュース! ジュース!」


 甘いものが好きだった自分は、大喜びで缶ジュースを胸に抱える。


「よしよーし――ガオーマンなんて忘れるんだ。……にしても、やっぱり火の因子との相性なのかなぁ。狛乃がいると、火の消えが悪い……」


 何やら一人でぶつぶつと呟く父に、自分はバックを漁って二本目のジュースを掴み出す。


「おとーさん、いっしょにのもー」


 差し出して、にっこり笑う。


「ああ、そうだな。一緒に飲もう……」


 うわの空な父に、自分は何かを思い出す。子供は、思い出したらその場でその話をするものだ。


「うん……あ、ねえ、おとーさん」


 でもあんまりよくない話だと察してはいたから、まずは父の名前を呼び、子供ながらに言いにくいことを言い出す流れを作り出す。


「ん? なんだー? 狛乃」


 父の声が、イラついていないことを確認して、自分はぽそりとそれを問う。


「きんき、ってなに?」


 きんき。またも、言葉が出てこない。意味がわからないけれど、それが悪意ある言葉なのはわかっていた。


「――――」


 黙り込む父に、子供なりのささいな情報が付け足される。


「あのね、知らない人が、こまののこと〝きんきの子〟って」


 父の声が、低くなった。


「――ど、んな人だか覚えてるかな?」


 けれど、自分は少し自慢するように、少しだけ憧れのヒーローを心配するように、知らない人の末路を喋る。


「ううん。ガオーマンがね、こまのがふりかえるまえに、ふっとばしちゃったから。その人、ガオーマンにもおんなじこと言ってたの。『きんきの子、ようせいの子め』って」


 父は、途端に相好を崩し、にっこりと微笑んだ。


「そうか。流石だ、ガオーマン」


 わずかにぎこちない微笑みではあったが、子供にはそんな違いは分からない。父親が笑ってくれた。それだけで、子供は安心する。


「うん。ガオーマン、すごい、つよい、かっこいい」


 当時の口癖を繰り返す自分に、父は肩を掴んで目線を合わせた。


「いいか、狛乃」


 真剣な顔。でも、きっと今の自分は思い出せない。


「?」


 首を傾げる自分に、父は何度も聞いた言葉を繰り返す。


「狛乃は、お父さんとお母さんの、大切な子だからな?」


 耳にタコができるくらい、きいた言葉。


「――。うん、しってる」


 だから、ただ頷いた。


「――そうだ。狛乃は、禁忌の子なんかじゃない。ガオーマンだって、そうだよ」


 父の声は――泣いているような、そうでないような不思議な心地で――自分をぎゅっと抱きしめて、父はかすれた声でこう続けた。




「――たとえ禁忌だとしても。その結果に、罪は無いんだ」






















第百十六話:あなたはそれを罪と呼ぶのか?





















 ――ピピピピピピ。


 5時半のアラームで目を覚まし、思い出せない夢を思いながらまたたきを繰り返す。何か、懐かしい夢を見ていた気がするが、思い出せない。


 今は何月何日だっけ、と寝ぼけた頭を振りながら、ベットの隅に放り出していたゴーグルを装着すれば、夢のことなんて頭から吹っ飛んだ。


 カレンダーが示す今日は、轟歴ごうれき3802年、10月8日。


 【Under Ground Online】――9月15日に始まった正規サービスから、二週間と少し。


 思えば、あれからの二週間。随分と色々あったものだと、声も無く笑う。


 厳しくもじつのある特訓の日々。戦いの時の心構え。共に戦うという、本当の意味。


 戦力外としていた子竜達の扱いを見直し、実戦に通用するコンビネーションの特訓もした。ソロで前に突っ込む訓練もしたが、仲間やモンスターとの連携の基礎も習った。


 刃物の扱い方。アクロバティックなように見えて、独自の基礎を元にした独特な戦闘術はレベックさんから。


 魔術アビリティの熟練度の上げ方、応用の仕方。必要魔力量の見極め方。範囲攻撃時の仲間への余波の調節法から、魔力設置場所の複数化と集中化の威力と用途の違いは、先生――木馬さんから。


 策謀術。人を騙すすべ。人の心に付け入る術。人の本心を見極める術。人は見たいものを見る、という言葉を教えてくれたのはブランカさん。


 最後に、秘伝だという召喚術を、文字通りアビリティという形で伝授してくださった他。人、モンスターとの連携術。傲慢に、だが謙虚であれ、と教えてくれたのは、今や師匠と呼ばせてもらっている――ノアさんだ。


 あれから無事に朶さんとも合流し、なんだかんだ性格が悪いように見えて、ひねくれているだけのデラッジとも仲良くなった。あの性格なら、敵になっても気持ちよく相対できるだろう。


 獣王とも、少しだけ話をした。適応称号スキルの担当が変わったと言いに来たのかと思ったが、実際は封印場所から抜け出す口実を得たのだ、という話をしに来たらしい――とわかったのは、残念ながら獣王が去り、ニブルヘイムが獣王の本音とやらを教えてくれてからだった。流石に自分も、あの時は自身の空気の読め無さ具合を悔やんだものだ。


 何度か【ぐらてれ】の生放送も配信できたし、子竜達も戦力になってきた。ニブルヘイムは意外にも過保護ではなく、ネブラの訓練に何も言うことは無かった。ただ後ろをのんびりとついてきては、我が子の様子を眺め、満足そうに目を細めるということを繰り返す日々。


 何度か、ネブラに向かって、「その身体の感覚を覚えておくんですよ」と繰り返していたのが気になったが、彼は最後まで理由を語らなかった。


 ネブラの戦闘訓練がひと段落した頃に、そろそろ帰らないと、とニブルヘイムは思ったよりもあっさりと、アルカリ洞窟群へと帰っていった。少し寂しいが、その寂しさを埋めるように、新しくペットとなったタマが色々とやらかしてくれるので、退屈はしなかった。


 タマは二週間でだいぶ大人しくなったものの、それでもまだまだ性格の悪さは治らない。根っこまでは悪くなっていないと見積もっているので、そこは気長に直していくつもりだ。


 それよりも問題は、今日リリースされる初の公式大型イベント――の、後の話。イベント自体は今の面子で攻略すると決まっているが、それが終わったら解散する、ということも決まっている。


【ぐらてれ】のアルバイトも、第一回公式イベント終了まで。その後は、短期雇用としてたまに協力する、と。朶さんと正式に契約を交わし直したので、朶さんともイベントと共にお別れが決まっている。


 また、雪花と二人、いや、ギリーやモルガナ、子竜達、タマと一緒に、少数精鋭のチームに戻ることになる。弥生ちゃんの時のように、臨時でパーティーを組むこともあるかもしれないが、その後の予定は決めておかなくてはならない。


 イベントクリアで解放されると予測される新大陸を目指してもいい。それか、もっとしっかりとログノート大陸を冒険してみても良い。


 地上の地図は攻略部隊が埋めきったものの、竜脈の地図はまた別の扱いだから、それを埋めるのを目指しても良いだろう。やりたいことは、色々ある。


 今後の予定を考えながら、水筒の中の冷水を一息に飲み干した。始めて一週間で慣れた早起きだが、健康的とは言いがたいかもしれない、と苦笑しながら伸びをする。


 寝汗でじっとりとするシャツを脱ぎ捨て、新しいシャツを羽織はおる。白かったか、黒かったかも覚えていないそれに風を孕ませながら、すいすいと自宅の廊下を歩いていく。


 やりたいことが多過ぎてまとまらない予定はいったん脇に置き、今に目を向けて思考を組み替える。


 目指すは夢の扉。


 足はもう迷うことなく暗闇の中を歩んでいく。壁に激突することもなく、〝ホール〟が設置された部屋へ。


 するりと巨大な機体を撫でる。これは、自分を新しい世界に連れて行ってくれる機械であり、そして扉でもある。


 光差す世界に続く扉。あと数分で鍵は開かれ、暗い部屋から魔法と希望の世界にいざなってくれる。


(――いや)


 本当は、わかっていた。暗かったのは、この部屋じゃない。自分の心が、自分そのものが暗かったのだ。


 今、この身にある心は、前のような漆黒の闇ではない。今は、ルーシィがいる。彼女の声が、この世界にも小さな明かりを灯してくれている。おかげで、今まで見えなかったものが見えてきている。


 暗闇に埋もれ、見えていなかった〝幸せ〟が。


 幸せを数えろとこの口で言ったのだから。自分もそうでなければならないだろう。絶望ではなく幸せを数えれば、もう暗い部屋なんて存在しない。


 逃げるために、この扉を開けるのではない。


 新しい火を探しに。心にある残り火を燃え上がらせるために――。


 残り時間はまだ10分ほど。〝ホール〟に横たわるには早すぎるからと、自分はその機体に手のひらと額をつけて、自分の内に視線を向ける。


(ああ、そういえば、なんでこうまでも炎が好きなのか……今更わかった気がする)


 火事で全てを失ったわけではないが、火事のせいで失ったものも多い自分。本来なら、火など怖がりこそすれ、愛するものでも、好むものでもないだろう。けれど、だ。


 今ならわかる。火事は、結果でしかない。悲劇の結末が、家の全焼だったというだけで、あの惨劇は火事が原因ではないのだ。


 時折、夢に見るまでになった、あやふやな過去の記憶。断片的なそれが示すのは、明確な誰かの悪意。ならば、怖がるべきは火などではない。むしろ、火は――、


(火は、炎は……自分にとって、希望と幸せの象徴だった)


 父と2人、夜の森で、キャンプの火にどれだけ安心したことか。火を囲んで、父の膝の上ではしゃぐ夜が、どれだけ幸せだと思えたか。


 人工的な明かりを廃し、キャンドルをテーブルに置き、おとぎ話をしてくれる父の声は、今もあの小さな灯火ともしびと共にある。


 火はいつだって、幸せと共にあった。


 だからこそ、自分は向こうの世界でも火を求める。もっと鮮烈な炎を。もっと強い希望を。


 誰に消すことも出来ない、希望になりたいから、自分はあの熱と光の塊を求め、愛したのだ。


(ざまぁみろ――)


 左手で胸の真ん中をぎゅっと掴み、未だ顔も思い出せない、悪意ある誰かに悪態を思う。


(――お前の消し損ねた火が、まだここにあるんだ)


 心に残った炎。VRという仮想世界での体験を経て、燃え上がる残り火を抱いて。


(――――時間だ)


 さあ、次の一歩を踏み出すために。




 自分は勢いよく〝ホール〟を開いた。




















































 卵と肉の焼ける朝の匂いを嗅ぎながら、夕苑ゆうぞのあまねは大きな欠伸を噛み殺した。


 時刻は朝の5時半。兄の【あんぐら】最速ログイン習慣が始まって以来、二週間目の早起きに未だ慣れない周は、むぐむぐと欠伸を噛み、ぼさぼさの髪を指できながら階段を下りていく。


 朝食を作る兄の背に、おはよう、と声をかければ、兄は振り返って穏やかな笑みでおはようと返す。兄の不自然な笑みも慣れたもので、周は笑顔のまま小さな舌打ちでそれに抗議。わかりきった不満を、端的に態度に出す。


 聞き流すか、妹のはしたない行為をたしなめるか。兄の目に一瞬の迷いがよぎるが、今日の兄は保身に走ったらしい。


「……周、ポスト見てきてくれるか? 昨日、確認し忘れちゃったんだ」


「……はーい」


 聞こえなかった振りをして、ぎこちない声で周に頼みごとを投げてくる兄に、周は一応素直に返事をする。少し前なら、はーい、じゃなくて、はい、だろ? と言ってくるはずの兄の態度に更にむっとしながらも、周はまっすぐに玄関に向かう。


 玄関の鍵を開けながら、また、抑えきれない欠伸が漏れる。べつに、朝御飯も夕御飯も作っておくから、無理に一緒に食べなくても良いんだよ――とは、兄からは言い出さない。


 この家で周と、兄の雪花の二人暮らしが始まり、兄が家事以外のことをしなくなった最初の頃。食事すらもおろそかにしようとする兄を見咎めて、一緒に食事をしないと寂しい、と言い出したのは周だからだ。


 周が嫌がることを、兄は極端に避けようとしてくれる。特に、母が出て行ったのは自分が原因だと言う兄に向かって、寂しいという理由を使えば、一発でほとんどのお願いは叶う。寂しくなったのは、自分が原因だと思っているからだ。


 そんな背景が無ければ兄は周の夜更かしも許さないし、兄の都合に付き合わせて早起きする周に寝ててもいいんだよ、と言わないはずがない。


 ――しかし、そんなことは今の周にとって重要なことではない。夜更かしも、早起きも、睡眠時間が削れることも、周にとっては大した問題ではなかった。


 そんなことよりも問題は――、


(どうにかして……から注意をらさないと)


 目下、問題はそれだった。


 二週間と少し前。【あんぐら】の正規サービスが始まった日。周は、あの日から兄の目的を察し、そして言い知れない嫌な予感を抱えていた。


 学習性AIとの愛をうたい、母に離婚を突きつけ出て行ったアホな父。そのお相手の学習性AIを、兄がずっと探していたのは知っていた。


 周だって、思いは複雑だ。その学習性AIにだって、会ってみたいと思ったことがないと言えば嘘になる。


(でも、絶対に会わないほうがいい――)


 会わないほうがいい。周は、兄がお相手を探し始めた頃から、ずっとそう考えていた。だって、会って、話して、それで何かが変わるわけではない。


 いや、違う。変わる、変わらないの話ではないのだ。もう、元の通りには戻れないという話なのだ。


 起こったことは変えられない。時間は巻き戻らない。起こってしまったことが無かったことにはならないように、父が言い放った言葉は、誰の心からも消えはしない。


 ならば。


(会って、どうするっていうの――)


 周には、わからない。


 兄が何を思って彼女を探しているのか、わからない。


 離散した家族の恨みを晴らす? 泥棒猫とでも呼ぶのだろうか? 本当に心なんて持っているのかと問いただす気だろうか?


 わからない。周には、わからない。


 ぐるぐると渦巻き、出口を見つけられない感情を持て余しながら、周は少し乱暴に自宅の郵便受けを開ける。


 ベージュに塗られたそれを持ち上げたまま、いつもの通りにばっさばっさと入っている手紙をまとめて鷲掴みにする。


 大量の手紙の正体は、見なくてもわかる。いつもの通り、ほとんどが兄へのファンレターとアンチファンレターだろう。


 販売用どころか、一枚も絵を描かなくなった兄への励ましの声から、罵倒、催促、応援、ねたみ――好悪と羨望、憎悪の入り混じる雑多な塊に、周もすっかり慣れたものだった。


 束になったそれの中に、自分宛の手紙がないかを確認しながら自宅に向かう足が、奇妙な手紙を見つけてぴたりと止まる。


(……白紙)


 いていうなら、直感だろうか。


 今までにも、白紙の手紙は何度もあった。いつも中身は白紙ではなかったが、宛先も送り主も書かれていない、白の手紙が直接郵便受けに投函されることは、残念ながら結構な頻度であった。自分は隠れながら誰かに石を投げたい人間は、確かにこの世に存在する。


 そしてその中身は、十中八九、兄への誹謗中傷だ。天才少年絵師という称号を妬む人々からの、悪意の塊。兄は、さっと中身を確認すると、そういう手紙はいつも燃やしてしまっていた。


 絵は、生ものだから。と兄はそう言って、悪い言葉は自分の中に取り込む前に、燃やしてしまうのが一番だと、それを拒絶する方法をきちんと身に着けていた。


 だから別に、周も、他の家族も、兄への〝白い手紙〟を不必要に恐れることも、嫌悪することもなかった。


 ああ、嫌だな。とは思ったけれど、そこまで止まり。いつものことだし、と、日常的なものにすらなっていた。有名になるということは、憧れと妬み、両極端な感情を集める誘蛾灯ゆうがとうになることでもあるから。



 けれど、これは違う、と周は思った。



 ただでさえ壊れてしまった〝家族〟という砦に、新たな石を投げる人間の悪意を感じ取ったのだと言ったら、誰か信じてくれるだろうか?


 手紙の束を、足元に置いた。震える指で、そっと手紙の封を切る。


 中身は、たった2行。白い紙に、それだけが浮き上がるように、黒々と印字されている。



 ――――坂木さかぎ雪花せっかは、禁忌の子だ。罪の証だ。坂木武志たけしと坂木藤子とうこの子供だ。



 初めは、わからなかった。


 この手紙の送り主が、何を言いたいのかすら、周にはわからなかった。


 坂木とは、父の姓だ。今では兄も周も母の姓になっているのだから、兄は坂木雪花ではなく、夕苑ゆうぞの雪花だ。坂木武志は父の名で、坂木藤子は兄が生まれた年に死んだ父の双子の妹のなまえ――、


(――――)


 その瞬間。周は、生まれて初めて〝白紙の手紙〟に恐怖した。


 心臓が早鐘のように動き始め、肺が呼吸を拒むように締め付けられる。息が浅くなり、青褪あおざめる周は、思わずその手紙を手のひらの中で握り潰した。


 力を入れすぎて、真っ白になる指を――その中の悪意を見つめながら、周は思わずしゃがみ込む。


(――誰だ。こんなひどいことをするのは、誰だ?)


 手の中の悪意を、情報を無条件に信じるほど、周も馬鹿ではない。けれど、周は知っているのだ。兄が半分しか血が繋がっていないことを。兄は父の連れ子だったと、家族の中ではそんなこと周知の事実だったから。


 いいや、そんなことが理由ではない。気づいてしまったのだ。周は、たった今、ずっと感じていた違和感の正体に気が付いてしまった。兄の周への異常なまでの過保護は、これが理由だったのだと。


 兄は、周が生まれる頃にはすでに天才少年絵師として、子供にしては信じられない額の金を持っていた。母の意向で、兄はそのお金をある程度は自由に扱えたのだ。


 貴方のお金なのだから、貴方が考えて使いなさいと。母は、兄にそう言ったそうだ。

 母は、兄妹きょうだいを等分に愛した。だから兄にも周にも、それなりに厳しく、そして優しかった。


 そんな母を実の母としてしたい、家族という形を愛した兄は、その言いつけをしっかり守った。


 兄はその莫大な財産を、使った。


 兄は――周と同じ当時14歳だった兄は、生まれてきた妹から離れなかったという。特に、父が家にいる時は。


 年頃になれば、防犯だと言って家にロボット犬を買いつけた。思い出してみれば、あのロボット犬は、今も自室でうだついているロボット犬は、ずっと父の後をついて歩いていたのではなかったか?


 AIだけど懐いているのかなぁ、なんて。家族で笑って話している時の兄の顔は?


(――――神様)


 しゃがみこんだ周は、小さく身を縮めて息を吸う。息を吸って吐くだけが、こんなにも辛い。けれど、兄は父に嫌悪を向けていたわけではなかった。


 思い出す。あれは、疑念の目だ。疑いの目。信じたいけれど、信じられない時の悲しい目。


 父には、悪意だけは無かった。底抜けに最低で、頭が悪く、いつも愛ばかり語る大馬鹿者ではあったが、そんなどす黒い悪意を持っているような人間ではないと、今でも思っている。


 今なら、周にも兄の気持ちがわかる。父が、あの無類の馬鹿が、双子の妹を無理矢理に組み敷いたとは思えない。


 そんなことをするくらいなら真っ正面から、愛してると妹さえ口説くどくだろう。奴はそういう部類の馬鹿だ。


 兄も多分、そう考えたから、父を家族から徹底排除しようとはしなかった。


 けれど、信じきれない部分がきっとあった。周も、あまりにも唐突に母に別れを切り出した父を、同じ感覚の人間だとはもう思えない。


 兄は、自分の出自を知っていたのか。その上で、双子の妹さえ口説くのならば、実の娘さえも口説くかもしれないと、疑っていたのか?


 その結果が、父の緩やかな監視なのだとしたら?


「周ー? どうしたー?」


 玄関の奥から兄の声が聞こえて、周は慌てて立ち上がる。握りつぶした手紙をポケットにねじ込み、何でもない風を装って返事をする。


「はーい! 今行くー!」


 そう返事をしながら、玄関を開ける前に振り返る。背後にはいつもの景色。不審者もいない、いつもの道路。


 けれど、確かに悪意ある者がどこかにいたのだ。この道路を歩き、この郵便受けに〝白紙の手紙〟を放り込んだ張本人が。


 わずかに残った家族の絆を、ズタズタにしようとする誰かがいたのだ。



「……絶対に許さない」



 けれど周の心以外は、いつも通りの世界だった。






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