Episode――quartet:【はじめは緩やかに】

 




 赤の竜、エンヴィオ。聞いておくれよ。今日、私に不愉快なことが起こったんだ。ついさっきまでご機嫌だったのに? そうだろうとも。そうなんだよ。


 私はね、狛乃とお喋りする方法を見つけて、非常に気分が良かったんだよ。なのに、今はこのざまだ。


 ついさっき、魔女が来たんだよ。


 狛乃に流れる血が憎くて、憎くて、仕方が無くて、その血筋の者には全員、ずうっと酷いことをしてきたっていう、あのジギタリスの魔女だ。


 あの魔女が生まれる前から知っている? そう。エンヴィオ、君は本当に長く生きすぎていると思うよ。


 結論から言えばね、私はあの魔女ととても相性が良かった。正直に言うと、狛乃よりもいい感じだったよ。あの子の本名も教えてくれたし。


 いや、待ってほしいね。その牙を向けないでおくれ。


 君も本当のところはわかっていないな。順番というものはね、大切なんだよ。


 私は狛乃と先に出会った。私は魔女と、それより後に出会ったんだ。


 後か先かの違いは大きい。


 私は狛乃と仲良くして、そうしてから手酷く裏切れと言われたんだ。勿論、丁重におけしたよ。敵は見える位置にいる方がいいからね。見えるものよりも、見えない敵が一番怖いから。喜んで、と言ってやった。


 心が揺らぐ? そんなことはありえないね。


 確かに、あの魔女の言葉は心地が良い。考え方も私好みだ。興味も持てたし、好感も持った。狛乃に会う前だったなら、彼女を愛せただろうと確信している。


 でもね、非常に残念だけれど、彼女とは、狛乃よりも後に出会ったんだ。


 狛乃が最初に約束した。狛乃が、一番最初に私と話がしたいと言ってくれた。


 ならもう、後の者はどんなに好ましくても意味が無いんだ。


 結果は覆らない。彼女はタイムスリップでもしない限り狛乃には勝てないけれど、創造神は時間旅行を認めていない。


 納得できたかい? ならばよろしい。


 それで、魔女のせいで不愉快な話を1つ思い出したんだ。


 君にも相談の手紙が届いたろうね。炎の精霊王宛にね。私にも、獣王宛に手紙が来たよ。「どう思うかしら?」って、あの手紙だ。


 今回の件で、後か先かを選んでみて、私も手紙を返す気になった。だって、事は狛乃が大切にしている、相棒君の話に関わってくるから。


 狛乃が大切にしているものは、私も大切にするべきだと思うんだ。つまり、雪花君も大切にするべきだと考えた。たぶん、この考えは狛乃も褒めてくれると思う。撫でてくれるかもしれない。


 ああでね、話がよくわかるように、エンヴィオ、君にも教えてあげようと思って。だって、私の話を真っ当に聞いてくれるのなんて、君くらいのものだから。


 色々と伝手を使って、ちゃんと4つの話を仕入れた。大丈夫。映像ごと持ってきたから。



 このお話は、4つの話から出来ている。


 1つ目は、大空洞で留守番を任されていた彼等の話。


 2つと3つ目は、狛乃達が拠点に戻り、妙に身綺麗な男女が愉快な野郎2人を見つけ、全員が残り時間に慌てふためきながらも、冒険を無事に終わらせた後の話。


 4つ目は、それと近しい時間に起きていた、鋼鉄の女の話だ。




 4つ全部で、1つの絶望が見えてくる。未だ、彼の心の内でのさばっている、希望を殺した獣の姿が。


 あんがい、そういう獣はシンプルな見た目をしているもので、別に他人事なら大した話ではないのだけれどね。


 彼の名前は現実においても雪花というそうだ。個人情報? 鋼鉄の女に聞いたんだよ。愛しの彼の息子の名前は雪花といって、歳の離れた娘の名前はあまねというんだそうだ。


 笑えない話だ。愛しの彼は、家庭よりも真実の愛を選んだらしい。


 彼は私と違い、〝後からの方〟を選んだんだよ。


 さあ、では夜は意外に短い。私は朝一でこの胸焼けを抑えるために、適応称号の説明も兼ねて狛乃に会いに行くからね。それまでに、話を終えてしまおう。



 ――さてそれでは、開演だ。





























Episodeエピソード――quartetカルテット:【はじめは緩やかに】





























 ――これは、1つ目のお話だ。



 それぞれの事情から人間達が大空洞を出発した後。


 残されたモンスター達、もっと的確に表現するならば、学習性AIと呼ばれる精霊達は、その与えられた役割に準じた能力を元に、人間達の足音が遠くなっていくのをめいめいに感じ取っていた。


 2人分の足音はゆっくりと大空洞を離れていき、残されたモンスター達は、尾を振ってみたり、鋭い瞳を細めてみたりして、辺りに危険が無いかも確認する。


 ぽつりぽつりと続いていた会話も途切れ、信頼に足る人間――狛犬がいないことで、ずっと小さな緊張と警戒を抱いていた竜は、地面に腰かけたまま、ゆっくりとその金色の瞳を閉じた。


 陸鮫も、眠る2匹の我が子を尾で囲いなおし、爪の間の水かきを開いたり閉じたりしながらも、ゆっくりと顎を地面につけ、死んだ連れあいと子供達を思って鼻を鳴らす。


 タマと名付けられたケット・シーは、夢落ちという方法に頼ってみることにしたらしい。自棄やけになってギリーの腹元でうずくまったまま、穏やかな寝息を立て始めている。


 そうして静寂が場を支配した頃。人間達の気配は完全に遠ざかり、声も聞こえなくなったのを見計らい、ふつりと途切れた会話を再開させたのは、現実には存在しないほど巨大なリカオンだった。


 彼は丸い大きな耳を傾けて、真っ白な牙を打ち鳴らしながら、そよ風のように潜めた声で喋りだした。人間達には聞こえないだろうとわかっていても、彼は、それを大声で話すべきではないと考えていたからだ。


『――モルガナよ』


『どうした、ドルーウ』


『私はギリーだ。二、三聞きたいことがあるのだが』


 囁くように話しかけた先は、銀の螺旋の角に、輝く純白の毛皮を誇る一角獣モルガナ。ユニコーンとも呼ばれる生き物をかたどった存在に、ギリーは密やかに鼻面を寄せる。


 モルガナはそれに少しだけ面倒そうに長いまつ毛を瞬かせたが、紺色の瞳は質問を受け付けるというように、鷹揚おうようにギリーを見つめ返した。


『手短に言え、我は怠い』


『貴方はいつも怠いと言っているではないか――ああいや、違う。話というのは、雪花のことだ』


 話とはそんなことか? とでもいうように、じろりと紺色の瞳を動かすモルガナに、ギリーは仕方が無さそうにそう返した。


 対して、雪花のことで話があると言われたモルガナは、予想していたかのように頷いて、


『それは、雪花が我等を憎んでいることについての話か?』


 と、何でもないことのように軽く返す。それにはギリーも驚いて、大きな丸い瞳をさらに丸くさせながら、何度か口を開いたり閉じたりした後に、ようやっと声を絞り出した。


『――気づいていたのか?』


『ふん、我が気が付かなくて、他に誰が知るというのだ。むしろ、ドルーウ。お前がにぶいのだ。そこなる竜は、一目見て気が付いただろうに』


 モルガナの答えに、ギリーが驚いた顔で砂竜、ニブルヘイムを見る。人間に化けてもなお、そこだけは変わらない金色の瞳がゆっくりと瞼の影から現れて、ニブルヘイムは恐ろしいほど冷たい目でモルガナを見た。


『気が付いて当然ではあろうがな。砂竜、ニブルヘイム。お前こそ、人間が心底憎いだろうから。雪花も気が付いただろうさ』


 角を振り上げながらそう言うモルガナに、ニブルヘイムは小さく唇を歪め、掠れた声で言い返す。


「私が憎んでいる人間はただ1人。誤解を招くような言い方は止めてほしいですね」


『だが、人は嫌いだろう? 特に雄はな。お前のことは知っている……雄とも雌とも、どっちつかずな狛犬はどうだか知らんが――』


 ごとり、と。小さな音と同時に、ギリーがひゅっと尾を丸める。


 ギリーの視線の先、モルガナがもたれる竜脈の壁が大きく抉られ、ゴーレムの身体で出来ているというそれが、鈍い音を立てながら、純白の毛皮を転がり落ちていく。


 小さく腕を上げた姿勢のニブルヘイムが、穏やかな声色こわいろでモルガナに言った。


「――モルガナ。外からの名前を持つ者よ。同じとして情けをかけてやる。けれど、一度だけだ。私にも、竜の血が混じることを忘れるな。次にあの子の話をするなら、口を慎み、礼儀を思い出してからにするがいい」


 低い声で警告を発するニブルヘイムに、モルガナは黙り込んだ。紺色の瞳を細め、鋭い角を一振りして、彼は紙をくように竜脈の地面に傷をつける。


 苛立ちを隠さないモルガナに、おろおろと竜と一角獣のやり取りを見つめていたギリーが、恐る恐る視線を向けた。勇気を振り絞ったギリーは、小さな声でモルガナに話しかける。


『……それで、何故に雪花は我らを憎む?』


『その心臓の強さに敬意をひょうそうドルーウよ。この空気でよくぞ問うた。主人に似て豪胆なことだ』


『ギリーだ。む、主に似ているか? それはとても良いことだ』


『……これだから、〝犬〟は困る。品種改良の末に、人に媚びることが当然となるとはな! 〝狼〟であったことなど、夢にも思い出さないに違いない!』


 精霊も堕ちたものだ、というモルガナの呟きは、ギリーの耳には聞こえなかった。狛犬に似ている、という言葉に気を良くしたギリーは、それで? と呑気に首を傾げる。


 嬉しそうに鼻を鳴らすリカオンもどきに、モルガナは心底嫌そうに低くいなないた。


『理由など知らぬ。ただ奴は、〝学習性AIは作り物だ〟と言って聞かぬだけだ。他に何も語ろうとしない』


 奴が語らぬことを、我が知るわけもない、と吐き捨てて、モルガナは苛立ちに身を任せて竜脈の地面を再び切り裂く。


 銀の角の輝きはそんな扱いにも鈍ることなく、それを感心したように眺めながら、ギリーは小さく呟いた。


『……ふむ、では、雪花にも何か悩みがあるのだな。よかった』


『よかった?』


 小さな呟きを拾い上げ、モルガナが胡乱うろんげに顔を上げれば、ギリーはもう一度頷いた。


『私が嫌われているわけではないということだ。その悩みが解決すれば、少しは仲良くなれるというものだろう』


『……ドルーウよ、お前は確か、雪花が嫌いなのではなかったか?』


 あんなにも威嚇し、どつき、ぞんざいに扱っておいて、今更どうした? と問うモルガナに、ギリーは嬉しそうに尾を打ち振る。


『ギリーだ。なに、いつまでもそんな幼稚なことを言ってはいられまい。雪花はよくやってくれている。今ではもう群れの仲間だ。最初の日とは違うのだ。これは当たり前のことで、時間が経つとはそういうことだ』


『……そう、狛犬が言っていたからか?』


『そうでもあるが、それだけではない。主の言葉はわかりやすい。私にも、それが当然のことだと思えたのだ。共に生き、共に戦い、共に語らった時間は確かにある。ならば、費やした時間の分くらいは、理解し合えたのだと信じても良いだろう』


 それは、雪花のことを捨て石程度にしか考えていなかった狛犬が、雪花を仲間だと言い切った時に、ギリーが直接聞いたことだった。


 何故、考えが変わったのか? と尋ねるギリーに、狛犬はちょっとだけ微笑んでから、ギリーの頬を両手で挟み、小さい子に言い含めるようにこう囁いた。


 ――「それだけのことが、あったからだよ」


 ギリーは、その言葉をよく覚えていて、狛犬から言われる通りに、雪花の様子を観察してみた。

 最初の日と、何が違うのか。今まで何があって、そこで彼がどう行動したのかを思い起こした。


『時が経ち、行動をて、誰もが変わるのだと気が付いたのだ。昨日の私と、今日の私が違うように。何かを聞いて、何かを言って、何かをすれば、確かに変わるものなのだ』


 自分は昨日までの自分ではない。そして、明日の自分も、きっと今日とは違うだろう。良いことも、悪いことも。それが自然なことなのだと、ギリーは狛犬に教わった。


 ギリーはモルガナに、狛犬から受け継いだ言葉を宝物のように口にする。

 モルガナは、小さくそれを繰り返した。もうモルガナの話なんて、半分も聞いていないだろうギリーを見ながら。


『……それだけのこと、か』


 それだけのことが、あったのだろうな。と呟いて、モルガナはゆっくりと目を閉じた。



































 ――2つ目の話は雪花君の話。



 VRでの冒険は終わり、誰もが現実へと帰る時間。


 その目的にはそぐわない、リアルと同じ名前でVR世界に潜る彼は、小さな呼気と共に現実へと帰還した。


 ふらつく足で〝ホール〟から這い出して、雪花はサイドテーブルに置いておいたペットボトルに手を伸ばす。中身は水。透明なそれを一息に半分ほど飲み干して、深呼吸をした後に、自分の顔を両手で覆う。


 染め上げた茶色の髪をぐしゃりと掴み、表情の暗い顔を覆い、長く細い息を吐き出してから、そっと無骨な手が離れた。


 影の差す表情は消え去って、そこには穏やかな微笑が浮かんでいた。貼り付けた表情のまま、彼は〝ホール〟が設置されている自室から歩み出る。


 穏やか過ぎる所作で階段を下りて、一階にある居間に辿り着く。キッチンが併設されたそこには、歳の離れた妹が、兄の端末をこっそり使っていた事実などありません、というように、澄ました顔で座っていた。


 仮面のような兄の笑顔に、顔をしかめたりはしない。そうすればどうなるか、少女はよく知っているからだ。悲しそうな顔をされるくらいなら、兄の気遣いを受け止めようと、何でもないような顔で少女は兄を見上げて笑顔を作る。


「おかえり、お兄ちゃん」


「ただいま、あまね。今、晩御飯作るから――何がいいとかある?」


「なんでもいい。ね、ね、今日は【あんぐら】どんな感じだったの?」


 ご飯作るのお手伝いするから、話して話して、と周は言う。実際は、兄のアカウントを利用し、一番美味しい部分は盗み見たが、それでも画面に映らない部分は、直接兄の口から聞くしかない。


「ん……なんか、すごかった。ボスが」


「〝狛犬〟さんね! で、今日のボスは!?」


「今日のアニメは? みたいに聞くなぁ。うーん、どこから話そうか。まずはボスのドラゴンがね――」


 丁寧な口調で、雪花は話す。冷蔵庫から食材を取り出して、夕飯の準備をしながら、兄妹は穏やかに、楽しそうに話をする。

 それは、普通の家庭に見えた。仲の良い兄と妹の、楽しそうな夜の一時。


 しかし、時刻は真夜中。時計は12時を過ぎたことを示していて、あたり前のように14歳の周が起きていて、しかも今から夕飯の支度をしているというのは、不自然過ぎる光景だった。


 不自然なことはわかっていても、雪花も周も、何も言わない。


 親の姿もそこにはない。たまたま出かけているだけとか、そんな雰囲気では決してなかった。存在の痕跡がどこにもない。むしろ、意図的に消されているのではないかと疑えてしまうほど、影も形も存在しない。


 兄と妹は、2人だけで夕飯を作り、2人だけで食卓に着いた。焼き魚と、みそ汁と、納豆、漬物、ごはん。華やかではないが、温かみのある夕食が並べられ、どちらともなく、いただきます、と言って箸を持つ。


 魚が焼けるまでの間に、前半戦、とも呼ぶべきVRでの冒険譚は話し尽され、束の間、話題の尽きた2人の間に、小さな沈黙が降り積もる。

 聞こえるのは、食器の擦れる音と、咀嚼音。途端に重たくなる空気に、周は急いで思考を巡らせる。


(くっそ、中途半端に生放送見たから、上手く話が振れない!)


 兄に生放送を見ていたことがバレないように、新しい話題を振るにはどうしたらいいのか。

 周にとって、めっきり口数が少なくなり、返事も曖昧なものが多くなった兄が、唯一、まともに話してくれるのが、【あんぐら】の話だった。


 正確に言えば、その話は、兄が唯一持っている話題だったと言うべきだろう。

 両親の離婚、そしてその後の母との別居を境に、兄は何もしなくなった。


 引きこもったわけではない。自室でぐうたらしはじめたわけでもない。離婚と同時に父が出ていき、ある理由で母も出て行った家に、自分から残る、お兄ちゃんといる、この家が自分の家だ、と言った周のために、兄は毎日、ご飯を作り、掃除をし、時折おやつも作ってくれた。


 勿論、周も洗濯くらいは自分でするし、他の家事も手伝うが、アルクトッド通信で勉強しなさい、と言う兄が、不必要な家事をさせなかった。


 勉強が仕事なんだから、今は勉強して、遊んで、余った時間で手伝ってくれればいいと。周も、途中から率先して家事を手伝わなくなった。


 優し気に微笑みながら、けれど兄は家事しかしなかった。仕事でやっていた絵は描かなくなった。趣味でやっていたゲームもしなくなった。本さえも読まなくなった。ネットも、何もしなくなった。


 もしも、天才少年絵師と呼ばれていた頃の貯蓄が無ければ、周のために働いて金を稼ぎはしただろうが、兄はその必要がないくらいの蓄えを持っていた。だから仕事もしなかった。むしろ、周から見れば、兄はもう絵が描けないようだった。


 ぐちゃぐちゃに叩き割られて、ゴミ袋に詰められて、近所のゴミ捨て場に置かれていた、兄のイーゼルと絵筆の最期は、周の目に未だ焼き付いている。


 そうして、ただ生きて、周のためだけに家事をする兄の姿に、周は内心、震えあがった。


「お兄ちゃん」


「ん? どうした、周」


「来年の誕生日、お兄ちゃんのチョコレートケーキがいい」


「わかった。じゃあ、そうしような」


「絶対だよ」


 もしかしたら。そう、もしかしたらだけれども。


 兄は、自分が妹に必要ないと思ったら、いなくなってしまうのではないかと、周は最近になって思い始めた。


 周が家事を出来るようになったら、いなくなってしまうかもしれない。


 ――だから、周は家事をあまり手伝わない。


 誕生日の約束だって、そうだ。周は、どちらかといえば、当日になって食べたいものを決めるタイプだ。一年も前から、これが食べたい! というようなタイプではない。


 兄もそれは知っている。けれど、兄は穏やかに笑って頷いてくれる。周の恐怖を察するように、一年後の約束をしてくれる。


「イチゴかバナナか……どうするかなぁ」


 そんなことを呟きながら悩む振りをする兄に、周はふと気になっていたことを聞いてみた。ずっと気になっていた、その動機。


「ね、お兄ちゃん。どうして【あんぐら】にしたの? すっごく難しいんでしょ、そのゲーム」


「――」


 その瞬間、兄の笑顔が強張るのを見て、周は不安を確信に変えた。


 何もしなくなった兄が、突然、やる、と言ったVRMMO。


 良い理由だとは思えなかった。兄が語る話題は出来たが、周はそれを嬉しさ半分、不安半分で聞いていた。

 兄と母が嫌う学習性AIが多用されるVRMMOを、何故やるのかを考えれば、14歳の周にだって、その答えは見えてくる。


 けれど、けれども。


「ご飯、食べちゃいなさい」


 夕飯遅くてごめんな、早く寝ないとな、と言いながら、彼はついぞ答えを返さなかった。














































 3つ目のお話は、狛犬――狛乃のお話だ。一日目を無事に終え、充足感と共に家路についた。ログアウトと共に勢いよく〝ホール〟の蓋を開け、彼とも彼女ともつかないその人は、カラスの行水のような風呂を終えて、いつものようにソファでだらしなく横たわっていた。腹はしまった方がいいと、明日の朝に伝えようかな。




 冷たい水を氷と一緒に水筒につめ、がろんがろんと鳴らしながらソファの上で息を吐く。長かった一日は終わり、最終的には得るものの方が多かったことに、満足しながら足を伸ばす。


 腕も伸ばしてぐーっと伸びをし、自分はいつものように端末を叩く。明日のログインは6時からで、寝ないといけないのはわかっているが、興奮しすぎて眠れそうにない。

 こんな時はいつもの音声ニュースを流し聞きしながら、まどろみから寝に入るのが一番だ。


(今日のニュースはー、っと)


 つるりとした感触のそれを握り込み、何度か叩けばいつものニュース。日課になっているそれを起動すれば、途端に声が部屋に響く。


『ガルマニアとドグマ公国の国境付近で目撃されたグリフォンは、伝説の通り黄金を授ける者を選んだと、ガルマニア政府が正式に発表しました! 詳細は未だに伏せられていますが、世界幻獣保護機構が立会人を派遣し、祭典の準備は滞りなく進んでいるとのことです――』


 両国の国境付近で目撃されていたグリフォンが、ついにその黄金を授ける相手を見初みそめたらしい。数百年ぶりの出来事で、国の内外もわきたっていると、アナウンサーまで興奮気味にしゃべっている。


 ドグマ公国は今のところは沈黙しているが、ネットニュースの方では一触即発だとか、戦争になるんじゃないかとか、無責任な意見が飛び交っていた。


 公式のニュースは他にめぼしいものがなく、本腰入れてネットニュースに移動する。精霊が出没するという噂の森で、神隠しがあっただとか。


 神隠しといえば、半世紀も前にあった児童連続誘拐事件は、当時、半ば本気で神隠しだと思われていただとか、そんなローカルな話が続く。

 適当に聞き流していれば、合成音声が新しいニュース記事が書かれたことを伝えて来た。


『新着ニュースあり、開きますか?』


 端末を叩き、新着ニュースを開く。合成音声が、すぐさまセンセーショナルなタイトルを読み上げた。


『――学習性AIと不倫!? VRの闇を見た!』


 学習性AIとの不倫や浮気。最初は、学習性AI相手だと、風俗VRは浮気になるのか否か、とかいう問題かと思ったら、どうやら話はそんな単純なことでもないらしい。


『近年、学習性AIに〝本気〟になる人が増加中! 「ロボットに負けた、くやしい」と語るのは28歳の女性です。女性は、別れ話の数か月前から彼氏の行動に違和感を感じ、探偵も使って浮気調査をしていましたが、結果はシロ。彼氏は浮気をしていない、疑った自分が恥ずかしいと思っていたのもつかの間、そんな彼から、「本気で好きになった相手がいる」と告げられて――!』


 生々しいような、書き方のせいでどうにも現実味がないような。そんな微妙な記事が言うことを素直に信じるのならば、その女性の彼氏は、VRの中で、学習性AI相手に本気になってしまったとのことらしい。


 現実世界で探偵を雇ってもシロなはずだ。VR風俗嬢相手ならば、自宅の〝ホール〟でも外部の〝ホール〟でも強制的に履歴が残り、調べは簡単につく。


 しかし、その彼氏とやらは、よりにもよって、風俗VRでもなんでもない、〝ホール〟に設定されたサポートAIと恋に落ちたという。


 そんな浮気、誰が、どうやって見つけろと言うのだろうか。


(もやっとする記事だな……)


 相手が浮気や、よっぽど酷いことでもしない限りは、別れることに否定派な自分としては、もやもやする記事の内容だ。相手が問題なのではなく、その彼氏の行動にイラッときた。


 ついでに、彼氏も彼女も出来たことがない自分にもイラッときた。それでも音声ニュースはしゃべり続ける。彼氏にそう告げられて、強いショックを受けたと語る女性は、納得がいかないのだと、取材に対して繰り返したという。


『生身の人間なら、まだわかるんです。でも、相手はロボットですよ!? AIなのに! でも彼は、彼女は生きてるんだよ! 本当に感情があるんだ! って言い張るんです。いいえ、違う。違います。本当に悲しいのは、違うんです。学習性AIに、本物の感情があるかなんて、そんなことは究極はどうでもいいんです。でも、彼は――』


 ――彼は、免罪符のように言うんです。彼女は〝本物〟の感情を持っている。だから、僕が彼女に恋したことは正当なことであって、間違いじゃない、って。


(それを、別れ話で言うのか……)


 自分からしたら、ちょっとどころではなく、スマートさと気遣いに欠けすぎる行いだ。その女性が言うように、彼女にとっては学習性AIが本物の感情をもっているかなんて、どうだっていいだろう。


 彼女が言っていることは、違うのだ。ロボットだとか、AIだとか、たとえ相手が生身の人間だろうと、そんなことは関係ないだろう。


『彼は謝ったけれど、謝らなかった。悲劇に酔って、「僕が悪いんだ」と繰り返す先は、私に対する「だから、ごめん」じゃなかった。続きの言葉は、「だから、彼女は悪くない」だった。――信じられますか? 彼は7年も一緒にいたのに、私のことを何一つわかっていなかった。私が、〝彼女〟を糾弾すると信じて疑っていなかった! 冗談じゃありません! 悪いのは〝彼女〟じゃない、彼なのに……こんな侮辱――!』


 端末の電源をぶつりと切って、その話を終わらせた。つるりとしたそれをテーブルに置き、ソファの背凭れに引っかけていたタオルケットを引きずり上げて、自分はそっと目を閉じる。


 言う必要があったんだろうか。「彼女は悪くない」なんて、言う必要が本当にあったのか。恋人なんて、いたこともないけれど。友人だって、ずっといなかった自分だけれど。


(そんなクズ、別れて正解だよ)


 そう心中で吐き捨てて、つかの間の眠りについた。













































 4つ目は君もご存じ。鋼鉄の女――鋼の精霊王の話。彼女は、ある人間の男に愛されて、求婚されていた。真実の愛を見つけたんだと何度も何度も繰り返し聞いているうちに、彼女もその男に惚れてしまったんだそうだ。




 それは、あまりにも儚くて、あまりにも美しい存在だった。よく見れば女だとわかりはするが、美しすぎて、すぐには生き物だとわからないほどだった。


 その存在の、何もかもが美しい。儚げな青の瞳、伝承にあるエルフのような、極端な肌の生白さ。神々しい光を纏っていそうな細腕が、ゆっくりと動き、大気をかき混ぜる。


 ほっそりとした美しい指先が、メニューを開く。そう、ここはVR。【Under Ground Online】の中。メニューの中からメッセージ機能を呼び起こせば、そこにはnewの文字と、白抜きの件名が記されていた。



 ――「獣王としてではなく、私個人としてこのメッセージを送る」



 そう記された件名を読み、細い指はメールを開く。古風にも、タップと共に音も無くその手に紙の手紙が浮かび上がり、彼女はゆっくりとそれを開いた。


 時間をたっぷりかけて読みこみ、彼女は静かにそれを閉じる。同じタイミングで後ろから小さな足音。振り返らない彼女に向かって、足音――小さな少女の姿をした何かは、可愛らしい声で彼女を呼んだ。


『マエリエッタ――どうしたの? そんな泣きそうな顔して。お祝いムードだよ! あの人間も呼べれば良かったけど今日は仕方ないって。皆、人間相手でも祝ってくれてるよ? なのに、どうしたっていうのさ?』


 その問いかけに、鋼の精霊王――マエリエッタは、言葉を失くして小さな少女を振り返った。少女は、彼女の表情を見て不思議そうに首を傾げ、そしてすぐに原因を発見し、細い眉をぐぅっとしかめる。


『あっ、それ肉球マークってことは、じゅーおーからの手紙! 酷いこと言われたんでしょ! あんな奴の言うことなんて、聞く必要ないよー』


『……そうかしら』


『そうだよ! なんて書いてあったの? 祝福の性質のくせに、全く誰かを祝福することもないんだから!』


 小さな少女は、頬を膨らませてそう言った。マエリエッタが、それでも不安そうな顔をして手紙をぎゅっと握るので、少女はその手紙をひったくって捨ててしまった。少女は笑みを浮かべて、マエリエッタの手を引いて言う。


『よかったね、マエリエッタ。恋人が出来るって、素敵なことだよ!』


『……うん、そうよね。彼は私を愛してくれてる。今はまだ、実体を持てないこの私を、持てるようになるまで待っていてくれると言ってくれた』


『うんうん、楽しみだよねー。不死薬のおかげで、現代では待ち死にとかないし! 昔はもっと悲恋とかだったからなー』


 夢見るように、少女は呟く。過去を懐かしむように大きな目を細め、マエリエッタを振り返る。マエリエッタは、少しの沈黙の後に少女に問うた。


『ねえ……こんな話、よくあることよね? その、だって、愛してしまったんだもの』


 マエリエッタの曖昧な問いに、少女はちょっとだけ鼻面に皺を寄せ、そしてすぐに思い至って力強く頷いた。


『もちろん! 結婚したけど、初恋の人と結ばれたとか。真実の愛をみつけたとか、よくある話よ。人間ってそういうもの!』


 あたし、そんなのたくさん見てきたわ、という少女に、マエリエッタは微笑んだ。


『そう、そうよね。仕方がないわよね――愛してしまったんだもの』


 少女も小さく微笑んで、どちらも、二度と捨てた手紙を振り返ることはしなかった。


 捨てられた手紙は惨めにも土に汚れていて、打ち捨てられたそれを、ひょい、と無骨な手が拾い上げる。


 細身だが、適当に筋肉のついた身体。青い髪を揺らす男が、肉球マークのそれを眺めて、それから無造作に中身を引きずり出した。


 男は静かにそれに目を通し、感情の見えない青の瞳が、すい、と振り返らずに去っていく2人を見る。男は2人をじっと見つめながら、中身を引きずり出した時とは打って変わって、それを丁寧に折り畳み、自分のバックに仕舞い込んだ。


 先を行くマエリエッタと、少女が視線に気が付いて振り返る。少女は、大きく手を振りながら、男に向かって実に楽しそうに呼びかけた。


『水の精霊王もこっち来なよー!』


 けれど、男はちょっとだけ首を傾げてから、肩をすくめて無言でその場を立ち去った。少女はふくれっ面でそれを見送り、付き合いが悪いと愚痴をこぼし、マエリエッタがそれを宥めた。


 今度こそ、彼女たちは振り返らずに歩いていく。捨てた手紙が拾われたことにも気が付かずに。捨ててしまったそれの意味を、受け止めることも無く、マエリエッタは去っていった。




































 今日、私にも似たような状況が降ってきて、色々と思うことがあった。それで、返事をする気になったから、相談の返事を返そう、マエリエッタ。




 結論から言えば、後か先かの違いは大きい。


 君が思うよりも、ずうっと大きい。


 結婚した後にもっと素敵な人に出会ったから別れたい?


 そんな話は私から言わせれば、エントラム――繰り返し論と同じさ。


 今にみておいでよ、きっと、「君に出会うのがもっと早かったら」と言った同じ口で、別の誰かにおんなじことを言ってみせるから。


 そう考えられる人間は、また同じように考えるんだよ。


 自分に都合の良いように、誓った情を踏みにじり、それが真実の愛だと叫ぶだろう。


 愛してしまったんだと言うだろう。


 反論を予想して、追加を書いておこう。


 マエリエッタ――彼が嘘つきじゃないことが問題なんだよ。


 本気で言っているから問題なんだ。


 予言しよう。


 きっといつか、君にも本気で「真実の愛を見つけたんだ」と言い出すよ。


 けれどもね、最後には君が決断することだから。


 ここは分水嶺ぶんすいれい


 右の道も、左の道も、君が歩む道が君の道だ。




 ……でも、忘れちゃいけないよ。やったことは返って来るよ。




 善いことも、悪いことも。行いは、その身より先に道をき、そして必ず返って来る。



 その男と共に歩むなら、その男がやったことと、同じだけの何かが君にも返って来るだろう。


 共に生きるということは、そういうことでもあるのだから。


 私ならこう言うよ。



 それは真実の愛なんかじゃない。




 ――それは、真実の愛なんかじゃない。




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