第百九話:あなたの隣にいる人は

 





 窓には水色の水玉カーテン。ふんわりとした天蓋付きの薄ピンクのベッド。床に敷かれたラグはハートとくまさんの形をしている。


 白いふわふわの毛皮で作られた特注のラムキャットは、番号が縫い込まれた足を投げ出して、飾られていたはずの机から落とされたままになっていた。黒曜石で作られた無機質な瞳が、気分で空模様を変えられる空天井を映しこみ、星空がきらきらと光っている。


 窓もカーテンも閉め切った人工的な夜空の下、ラグの上で大人しく座るロボット犬が、不思議そうに首を傾げ、一人の少女を見つめていた。


 少女は机の上の大型端末の液晶に齧りつき、興奮気味にサイドモニターとそれを見比べては、その小さな頬をばら色に染めている。

 サイドモニターには先程から〝特例〟として限定公開されている、ゲーム内のプレイヤー掲示板が映し出されていた。


 本来なら、プレイヤー以外が閲覧することは出来ないそれは、〝現場〟の空気感をほどよく現実まで伝えている。今年、ようやく14歳になる少女は、キラキラとした瞳でそれを見ていた。


「いいな……いいなぁ!」


 憧れと、興奮を胸に。群像劇のようなそれに魅入りながら、少女は小さなオレンジ色のクッションを胸に抱え、じたじたと素足をラグに叩き付ける。


「あたしもVRやりたい! 【あんぐら】やりたいぃぃ!」


 叶わない望みを口にしながらも、その目は画面に、『DDD支部局』の生放送に釘づけだった。今、正に【あんぐら】にログイン中の兄の端末とアカウントを使うことで、閲覧用の年齢制限を掻い潜った少女は、画面に映る兄に向かって届かない野次を飛ばす。


「押し退けてばっかじゃなくて、使い手倒し――ああ、また来た! 危ない!」


 ちらちらとしか画面に映らない兄の必死な姿を酷評しながら、少女は我がことのように気合を入れて腕を動かしたり、百面相を繰り返す。


「そこだー! いけー!」


 クッションがつぶれるほど強く掴み、少女は威勢のいい声を上げる。ぐるぐるとキャスター付きの椅子を回し、あー、ダメだ―! と叫びながら机を叩いて出た大きな音で、ロボット犬を驚かせた。


「そうだ、そこだっ! 〝水竜の色 精霊のなんとかかんとか〟!」


 家に誰もいないのを良いことに、兄の真似をし、片手を突き出して少女が叫ぶ。


「いっけぇ! 〝せいれーおうの恵みとならん〟! フル・ラドーナ!」


 画面の向こうの兄の手からは濁流が溢れ、現実にいる少女の手のひらからは、鷲掴みにされていたクッションがロボット犬目がけて発射された。


 慣れている様子で転がって避けるロボット犬に顔をしかめながら、少女は不貞腐れた顔で机に顎をつけ、恨みがましい目で液晶をじっと見上げる。


 画面に映る美男と美女、竜に乗って空を駆け、格好良く赤い竜と戦う兄のお仲間さん。掲示板で名前の出ている木馬と一緒に戦っている兄。竜と竜がぶつかり合い、粉雪の中で舞い散る金の鱗の雨。



「――本当に、〝生き物〟みたい」



 画面の中で、VRの中で、必死になって金色の竜が赤い竜に立ち向かっている。及び腰で、今にも泣きそうな声を上げながら、それでも逃げ出したりはしない。

 他のモンスター達だってそうだ。画面に映る分だけでも、そこには心と感情の色が見える。


 まるで、本当に生きているようじゃないか、と少女は言う。床に伏せるロボット犬の中身とは違う、感情を持つと言われている・・・・・・〝学習性AI〟は、本当に生きているかのように振る舞い、喋る。


 母と兄は頑なに学習性AIは電子回路のロボットだと。作り物だと言い張ったが、少女にはそうは見えなかった。特にあそこまで必死に言う兄に向かって、面と向かって否定する気は起きない。けれど、小さな疑念は心に芽生えた。



「……もしも」



 少女はじっと考える。



「でも、じゃあ――学習性えーあいが本当に生き物だったとしたら」



 少女の喉からは、小さな悲しみが零れ落ちた。




「――どうしたらよかったんだろう」




































 第百九話:あなたの隣にいる人は、あなたのために何をしてくれますか?






















『テメェ! どうして俺の言うことを聞かねぇんだ! 聞いて当たり前だろうがふざけんな!』


『今まで怖くて言えなかったけれど、貴方のその考えはおかしい! どうして私が貴方の食料調達やら、寝床の掃除やらしなきゃいけないんですか!』


『あったりまえだろ! お前は下! 俺より弱い! 従うのは当たり前! これ終わったら本気でパシリにしてやるからなテメェ!』


『みっ――見下せるのも今日までですよトロイ! 今に狛犬が貴方の首吹っ飛ばしますからね!』


「お前その先生に言いつけてやるスタイル止めろ! カメラ回ってるってのに格好悪すぎる!」


『だってぇぇ! アイツ今、ガン飛ばしてきましたよ!?』


「ずっと熱視線だろ、何を今更――それより早くしろ! 制限時間あるんだから!」


『俺を無視して仲良さそうだなテメェらァアアア!!』


 竜同士の壮絶なバトル――もとい、今はまだ地味な絵面の鱗の毟り合いは、黒飼竜ネロが現れてからすでに10分以上も続けられていたが、未だ、目的を達成するためには剥いだ鱗は足りないどころか、狙った場所の鱗は全て健在というありさまだ。


 それよりも、はっきりいって現状、トルニトロイの被害よりもニブルヘイムの方が被害が大きい。そこはレベルの差か、ステータスの差か。


 同種の中の分類でどの程度の差があるのかはわからないが、そういった物理的な問題の他、やはり今までのパシリ根性に由来する腰の引け具合が原因じゃないかと思う。


 この10分ちょい。延々と掴み合いからの罵倒合戦が続いているが、最終的にはトルニトロイが暴論を押し付け、それに対し、罵倒の語彙ごいが少ないニブルヘイムが言葉に詰まり、最終的に「狛犬がお前なんか倒しちゃうんだからな!」で見事に話がループしていた。


 いい加減に他力本願を止めて、もう少し強気になれとその度に言うのだが、長年に渡って染みついた弱者の立場というものはそう簡単に抜けはしないらしい。社畜根性のように、がっつりと染みついたそれが、トルニトロイに近付くことさえも極端に嫌がるのだ。


 それはもう無意識レベルの話で、何とか頑張って掴み合いをし、自分の指示通り鱗を剥がそうとしているとは言えども、それも自分から向かっていっているわけではない。


『黙って首を縦に振ってりゃいいんだよォ!』


『冗談じゃないですよ――!』


 向こうが積極的に突っ込んで来るから、悲鳴交じりに掴み合いをしているという、何とも残念なサイクルが出来上がっている。始終相手のペースで仕掛けられる取っ組み合いは、相手の気迫とこちらの弱気も相まって、常にトルニトロイに分があるのだ。


 今もまた、怒りの咆哮を上げながら突っ込んで来るトルニトロイに押し負け、鱗を散らす余裕もなく、ひたすら距離を取ろうと鎧でその爪と牙を受け止め、翼を掴んで投げ飛ばすばかりだ。


 投げられたトルニトロイはこの10分で慣れたもので、涼しい顔して空中でくるりと体勢を立て直す。トルニトロイをぶん投げた直後のニブルヘイムは、トルニトロイから離れたことにホッとするばかりで、即座に攻撃してこないことを知っているからだ。


 一呼吸置かないと、落ち着いて行動出来ないニブルヘイムの心理を読んでいる。


 トルニトロイはニィッと笑みのように牙を剥き、鼻を鳴らしながら、ニブルヘイムを見下ろして吐き捨てた。


『――だからお前はダメなんだ』


『……ッ』


 その言葉に言い返すどころか、うつむいてしまうニブルヘイム。その態度がどうにも腹立たしくて、片足を振り上げてその背を蹴りつけ、怒鳴りつけようとした時だった。


 うつむいてるな、言い返せ! そう言ってやるつもりでいたのに、ふと、そういえば同じように歯痒い思いから橙を怒鳴り付けようとしたことがあったことを思い出したのだ。


 きっかけは、まだ正規サービスが始まるまでの間に起きた、他愛ない兄弟喧嘩だった。いつものように、橙よりも口が立ち、手が早く、気が短いネブラに押され気味で、橙は悪くないのにぎゃんぎゃんと文句を言われ、橙がうつむいてしまった時のことだ。


 自分は、自分に非がないんだからうつむな、と怒鳴りつけようとした。けれど、それを雪花が止めたのだ。自分が怒鳴ろうとした素振そぶりを見た雪花は、「――ボス、ちょっと怒鳴りすぎだよ」という言葉と、


 そう、確か、




 ――たとえ同じことを言っていても、怒鳴るだけじゃ、人も、動物も、誰もボスの言葉を半分も聞けないよ。ちゃんと、どうして出来ないのか考えてあげないと。




 あの時、雪花にそう言われた。その言葉を思い出して、うつむくニブルヘイムが、どうして勇気をもって立ち向かえないのかを考えて、自分は目から鱗が落ちたような気になった。



 ああ、自分はどうして、そんなことにも気が付かなかったのだろう。



「――ニブルヘイム」


『なんですか狛犬、今、頑張りますけど――!』


「自分が間違ってた。ごめん」


『……え?』


 ちょっと考え方を変えてみたら、言葉少なになりつつあるニブルヘイムの不安が、手に取るようにわかるようになった。


 鞍を通して、落ち着かなげに身体を揺らす竜の名を静かに呼び、焦燥にかられるニブルヘイムにそう言えば、金色の尾が困惑に右に一回転する。


「間違ってた。一緒に戦うべきだった。急に戦えるわけないのに、気力さえあれば出来ると思い違いをしてた」


『いやそれは私が……』


「【適応称号】に目が眩んで、首を落とすことしか考えてなかった。どうして指示が無いと真正面から立ち向かえないんだ、としか思わなかった。〝騎竜士メルトア〟として、まずは一緒にアイツを倒すことを考えるべきだった。――ごめん、ニブルヘイム」


 間違っていたのは、自分だ。今までずっと顔も上げられなかった相手に、今日になって突然立ち向かえるわけなかったのだ。皆が皆、自分と同じではないのだから。


 心細かっただろう。きちんと向き合えば、その恐怖や不安が伝わって来る。それは〝騎竜士メルトア〟のパッシブスキルの効果だけじゃなく、短くとも言葉を交わし、見知った相手だからわかるものだった。


 もしも彼が今日、一頭でトルニトロイと対峙していたならば、逆襲は小さな反発に終わり、トルニトロイの思惑通り、ニブルヘイムは戦うまでも無く降伏していたかもしれない。


 けれど、彼の背には金縁の見事な鞍があり、その玉座に座っているのは自分だ。この鞍は自分とニブルヘイムで作った。両方の魔力を使い、自分とニブルヘイムが思うままに形作ったのだ。


 思えば、別々にやるなど馬鹿げている。何のための新しいアビリティなのか。〝騎竜士メルトア〟とは、竜と共に戦う者に与えられるアビリティだ。ただ竜を乗り物にして、空中戦をやるためのものでは決してない。


「首なんか取れなくても構わない。どんな手でもいいから、アイツに勝とう。ダメなんかじゃない。お前は、ニブルヘイムは――ダメなんかじゃない」


『――――』


 そう言って、蹴りと怒鳴り声の代わりに励ますように手のひらで背を叩けば、突然、ニブルヘイムが身体を震わせた。


 朱色の手綱を握りしめれば、ニブルヘイムが喉の奥で低く唸る。翼は頼りない動きから力強い動きへと変わっていき、粉雪を孕む突風を金色の身体にまとわりつかせた。


 あるはずのない翼の感覚が伝わってきて、ニブルヘイムの動きが研ぎ澄まされていくのがよくわかった。少し上空で、余裕たっぷりに見下ろすトルニトロイを見上げる金色の瞳が確かな敵意に光り、彼は今まで聞いたことがないほど穏やかな声色こわいろで言う。


『トロイ』


『ああ?』


 唐突に自身の名を呼ぶニブルヘイムに、トルニトロイが怪訝そうに首を傾げた。鼻面に皺を寄せ、牙を剥きだす赤い竜に、金色の竜も同じように小首を傾げ、牙を剥き、



『貴方の隣にいる人間は、貴方のために何をしてくれることもないし、貴方がその人間のために、何をすることもないんでしょうね』



 赤の竜に投げられたその言葉と共に、パッシブスキルの効果でニブルヘイムの動きが分かった自分が手綱を掴みなおすのと、ニブルヘイムの身体が再び矢のように空を駆けるのは、全く同じタイミングだった。



 三度みたび、黄金の矢が放たれる。



 一度目はがむしゃらに。二度目はわけもわからず指示に従い。しかし、三度目は――確かに彼自身の意思で。



『貴方の言い分も一部は正しい、けれど、もう貴方の言いなりにはならない! ダメなんかじゃないと、私の友がそう言っているのだから――!』



 叫びながら、ニブルヘイムは今までで一番早く飛んでみせた。トルニトロイが迎撃のために後脚の爪をぐわりと開き、牙を剥いて炎を吐くのも気にせずに、彼は初めて彼自身の意思でトルニトロイに一撃を与えんと空を駆ける。


 猛スピードで背景が流れ去る中、友と呼ばれたそれに恥じないよう、自分も自分がやるべきことをするため、スキル一覧から最も適していると思われる魔術を選びだした。打ち合わせも何も無いが、ニブルヘイムは心得たというようにその意図を察してくれる。



「【竜心同化】! 〝創造せよ 思い出せ その魂が持つ色を〟!」

『【人心同化】! 〝片親の魂よ聞け! 冷たさを欲する名を与えた者よ!〟』



 ――〝騎竜士メルトア〟、その呼びかけの声は常に竜と共に。



 ニブルヘイムにあるはずの、砂竜ではない半分に呼びかける声を重ねていく。詠唱と共にニブルヘイムの滑らかな尾が、白いしもに覆われていくのが見えた。


『〝炎よ従え 俺の名の下に〟!』


 トルニトロイも再びガル・ブラストの詠唱を始め、迎撃の準備を整えようとするが、今までで一番早く動いた金色の矢が、容赦なくその顎を下から撃った。


『がァッ、テメェ!』


 予想外の速さから繰り出される頭突きに体勢を崩しながらも、黒い棘がびっしりと生え揃う尾を下から上に振り上げるトルニトロイ。


 ニブルヘイムはその尾をショベルのような爪で受け止め、掴み、ぐるりと遠心力でトルニトロイをそのまま放り投げる。

 今までと同じように放り投げられたことに安堵し、トルニトロイがゆっくりと体勢を整えようとするが、ニブルヘイムはもう追撃の手を緩めたりはしなかった。


 バランスを崩した身体がぐらりと傾ぎ、羽ばたいて真っ直ぐになろうとするトルニトロイの頭上を取りながら、ニブルヘイムは詠唱によって白くけぶる、まだ滑らかな尾をめいっぱいに振り上げる。



「〝氷の竜は凍てついた大地を抉る 二つめの牙を持つ〟!」

『〝聞け 彼等の勝鬨かちどきの声を〟!』



『「【氷尾フトスロ・ログ】!!」』



 呼び声に応え、白く煙る尾は一瞬の停滞の後、まるで花が咲くように氷の棘が生え揃った。鞭のようにしなるその尾が振り上げられた場所から瞬く間に振り下ろされる――赤の竜の首を狙って。


『――――!』


 声にならないトルニトロイの悲鳴と共に、斜めに振るわれた氷の棘付きの尾が彼の首の一部を抉り取った。


 凍てついた大地すら穿うがつ氷竜の尾を模したそれは、頑強な竜の鱗をも抉り取る。深紅の鱗にびっしりと覆われていた首の側面からは血が零れ、桃色の筋肉に、滲む血が赤の斑となって浮かび上がるタイミングで、




 ――アナウンスします。【適応称号クエスト】の残り時間が5分となりました。




「――知るか!」


『狛犬、砂を!』


「〝鉛の色持つ我らが偉大な精霊王よ ここに我らの敵がいる〟!」


 手綱を掴んだまま鞍から立ち上がり、赤の竜を見下ろせば痛みと怒りに燃える青い瞳に、初めて一抹の恐怖が掠めた。

 解けるように氷が消えた尾を振り上げて速度を上げながら、ニブルヘイムは攻撃の手を緩めない。


『砂の原色たる我らが幻精霊よ 我らを害するものを阻め!』


「『【砂鼠レミング】!!』」


 【適応称号クエスト】の条件達成など関係なく、何としてでも仕留める気なのだと理解したトルニトロイが、詠唱も何もなくがむしゃらに炎を吐き出した。


 距離を取り、体勢を立て直そうとする赤い竜を追って、恐怖を克服したニブルヘイムが砂で薄めた炎を突き破って肉薄する。


 あっと思う間にその大顎が大きく開かれ、彼は、がっぷりとトルニトロイの鼻面に噛みついた。無理やりに顎を閉じさせ、伸ばされた両腕は振るわれた尾を強引に掴んで抑え込む。暴れる後脚の爪は胸鎧メール・メイルがしっかりと受け止めていた。


 初めは、どうしてそんなことをするのかわからなかった。これでは共同詠唱も出来ないし、自分一人のスキルでは、出来ることなどたかが知れている。

 【首狩り狂犬トールダム】の効果で身体能力が向上していると言っても、ぶん殴って竜に大したダメージがあるわけでもない。


 けれど、トルニトロイの顎を噛んで抑えこむニブルヘイムの金色の瞳がこちらを見た瞬間に、理屈なんて抜きに理解出来た。


 自分がニブルヘイムを尊重するように、ニブルヘイムも自分を尊重しようとしてくれている。金色の目は確かに、首を取れと言っていた。かつて、自分が彼に、さかしげに、誇らしげに語って聞かせた、あの鳥の首を取った時のように。


 予想外の強烈な反撃に驚いたトルニトロイは完全に動きを止めていて、ニブルヘイムの意思を悟った自分は即座に鞍を蹴り、トルニトロイの首に飛び乗った。


 途端、こちらの意図がわからずとも、悪寒を感じたらしいトルニトロイは唯一自由な翼爪をこちらに向けるが、それはニブルヘイムの翼が阻んだ。


 自分を覆い、守る金色の翼が切り裂かれ血が吹き出すが、ニブルヘイムは痛みに声を上げることも、封じたトルニトロイの顎から牙を離すこともしなかった。


 その腕はがっしりと尾を掴み、巨大な牙があわよくば赤の竜の顎を噛み砕いてしまわんとばかりに、がっぷりと食い込んでいる。


 無理やり閉じさせられたトルニトロイの口腔からは炎が溢れ、ニブルヘイムの舌を焼く音と臭い。どちらの竜も飛ぶことを放棄したことによる、高所からの自由落下の浮遊感に耐えながら、自分はトルニトロイの首に跨り、しがみつき、鉤爪を模した腕を振り上げる。


 大丈夫。ニブルヘイムが守ってくれている。あの巨大な爪が背中を切り裂くことは絶対にないと信じられる。自分を死なせないために、彼は今、一番やりたくなかったはずのことをやってくれている。その身に傷を増やしてまで――!


 自身の首に跨り狂相を浮かべ、犬歯を剥き、鉤爪を振り上げる自分を映し、興奮と恐怖に見開かれた青の目の瞳孔が収縮した。何をする気か悟ったトルニトロイがいっそう力を込めて暴れるが、ニブルヘイムは離さない。


「――〝熔魔ようまの色 赤竜の色 精霊を伴う朱の炎〟!」


 赤の紋様は指先までも浸食していて、まるで血が滴っているかのように赤く光っている。【適応称号スキル】――その未知の力を信じ、分厚い筋肉がむき出しになった傷口に、爪を模したそれを叩き込んだ。


 少しの抵抗。弾力のある肉が一瞬だけ押し返そうとするも、【首狩り狂犬トールダム】によって大幅に強化された筋力値にものをいわせて突き破る。


『――グゥゥゥウッ!!』


 くぐもった悲鳴を上げるトルニトロイがどれだけ暴れても、ニブルヘイムの拘束は緩まない。追い詰められた獣特有の必死さで、自分を覆うニブルヘイムの翼を切り裂こうと、がむしゃらに振るわれる翼爪が金色の鱗を散らし、肉を抉り、骨を抉る音がしても、ニブルヘイムは無言でトルニトロイを抑え込む。唸り声一つ上げはしない。


「〝我が魔力は竜の息吹 炎竜が吐く劫火 精霊王の影となる炎〟!!」


 その信頼に、応えなければいけないと思った。


 肉を抉りながら腕は深々と竜の首に潜り込み、伸ばした五指が太すぎる首の骨を鷲掴んだ。濡れた感触も、熱い肉の感触も、全てが他人事のように遠く感じる中。


 手のひらの中で膨れ、竜の体内で広がり切れずにいる魔力は、腕で塞がれている傷口から流れ出すことも出来ず、竜の身の内で渦巻いている。



 それが行き場もないまま暴発すればどうなるか、自分はよく知っていた。




「――【ガル・ブラスト】!!」




 スペルと共にトルニトロイは目を見開き、膨張する熱に焦がされていっそう酷く抵抗した。最後の足掻きはようやく実を結び、ニブルヘイムの顎を跳ね飛ばし、自由になった大顎が開かれ迷いなくこちらに差し向けられる。


『この、にんげ――!!』


 しかしトルニトロイの声は途中で詰まり、目を見開きながらぱくぱくと口を開くだけに終わる。伸ばした牙も、目にも留まらぬ速さで首根っこをニブルヘイムに噛まれ、引き戻され、すんでのところでこちらまでは届かなかない。


 ニブルヘイムを信じ、微動だにもせずトルニトロイと真っ直ぐに目を合わせる自分を、赤の竜は何とも言い難い目つきで見た。悔しさと、驚きと――少しの悲哀の色。


 首に埋め込んだ腕の中で、威力の分だけ魔力の炎が収束していく。光も無く音も無く、それは一見、不発のように見えて、音も無く首狩りの刃を振り上げる。



「勝ったぞ、お前が見下げた〝混じりモノ〟がな! そうだろ――赤竜、トルニトロイ!!」



 勝利宣言にいっそう悔しさを滲ませ、太陽を名乗った竜は死に際に力を振り絞り、轟くような声で自分に向かって吼えた。



『今日の日を覚えておけ! 暗がりの狼! 俺はお前の名を覚えたぞ――【首狩り狂犬トールダム】の狛犬! 死臭のする狼め! 今日の日を覚えておけ!!』



 牙も届かず、爪も届かず、見下げていた弱者に首根っこを噛まれたまま、人間に首に腕を突っ込まれているという暴挙を許したまま。


 そう喚き散らした深紅の太陽は、



 ――アナウンスします。残り時間、1分です。



 無機質なアナウンスを聞きながら完全に動きを止め、僅かな痙攣と、小さく息を詰まらせる音の後。



 小さな炎が首に埋め込んだ隙間からこぼれ、溢れだし――次の瞬間。




 大きな爆発音と共に、赤の竜の首は呆気なく爆ぜ飛んだ。




 宙に飛んだ首はニブルヘイムの腕が掴み、同じく衝撃に吹っ飛ばされた自分をもう一方の腕が回収した。そのまま自分を鞍に投げ上げ、ニブルヘイムは震えながら胸郭を膨らませ、吼えた。



『――――!!』



 声にならない、意味をなさないニブルヘイムの咆哮を聞きながら、未だ収まらない動悸に、胸に手を当てて息を吐く。

 【首狩り狂犬トールダム】の火耐性性能は随分と良かったようで、衝撃にも耐えた右腕は健在だった。


 緩やかに全身の紋様は消えていき、虚脱感が全身を支配する中。トルニトロイの、首を失くした巨体が血の雨を降らせながら落ちていくのを見送った。


 死の国にて吼えた太陽は今、粉雪に混じって地上へと落ちていく。粉雪を赤く染めながら、いつの間にか巨大な亀裂が生まれていた地上に、吸い込まれるように落ちていく。その様はまさに死を象徴する世界を暗示しているようで――




「……此処は死の国――」




 ――命ある者に死をもたらす、凍れる世界。




 凍れる世界ニブルヘイムが、支配する国。それを証明するかのように、ニブルヘイムは太陽・・の首を掴んだまま、初めての勝利を吼え続けた。




 この世界の誰もが、それを聞き届けるまで。




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