第八十二話:酔っぱらいは無敵



第八十二話:酔っぱらいは無敵




 ひっく、と酔っぱらいのようなしゃっくりが自分の喉から滑り出た。ゴーグルをつけたまま壁掛けの時計を見れば、もうすぐ午前1時になるそうだ。

 目線を正面に戻せば、特別な時にしか使わないモニターに、それに接続された音声パソコンと、文字を打つためのキーボードが見える。


 モニターに映るルーシィの顔はなんだか妙に呆れたような様子だが、そんなことは今はどうでもよかった。


「例えば、例えばさぁ」


 キーボードに指を添え、完全に我流の打ち方で滑らかに文字を打ちこめば、エンターキーを押し込むだけで、機械が音声で自動的に喋ってくれる。


『……』


「もしだよ? レジナルドが言うように、自分が〝魔術師〟で、ルーシィ曰く――取り換え児ならさぁ」


『……』


 腹立たしいことに、ルーシィは相槌すらうたなくなっている。最初はスピーカーの故障かと思ったが、表情を見るにそんなことはないらしい。


 だが、理由は分かっていても愚痴は止まらない。またしても、ひっく、と喉から妙なしゃっくりが漏れ出るが、喋るのは自分の口じゃない。音声パソコンに内蔵されたソフトだから、しゃっくりなぞ関係ない。


「――なら、なんで居間に金が降って来ないんだよ」


 だぁん! と自分の指がエンターキーを押し込み、その文章が音声化されるのを聞き届けながら、缶ビールを勢いよく煽る午前1時。

 つまみの林檎を丸齧りしながら、ひたすら缶ビールを煽る。やっぱあれだ。困った時は酒だ。


 音声パソコンに愚痴を喋らせるほど、自分は色々と参っていた。いや、参っているのだ。自分は今、疲れている。だから、これくらいは許してくれたっていいのに。


「なんでだんまりなんだよ、ルーシィ」


 じだじだと、立膝で椅子に座り、行儀悪く酒を煽る28歳を前に、沈痛な面持ちで沈黙を保つルーシィにひたすら返事を催促する。


 相棒なら話くらい聞けや、と思うが、酔う前の記憶だとわりと親身になって色々と語ってくれていた気もする。あれ? これは自分が悪いのかな、とも一瞬思うが、そんな迷いは酒が全部流してくれる。


「第一、取り換え児ってひたすらネット検索したけど、ろくな末路辿ってないじゃん」


 しかも死ねないってなんだ、と打ちこんでエンターキーを乱暴に叩けば、流石に虐めすぎたのか、メキッ、と嫌な音が聞こえた。

 遅れて聞こえてくる合成音声に、チッと舌打ちをしながらもう一口林檎を齧る。甘酸っぱい、うまい。


『これは、かぁーなぁーり。酔ってますね』


「酔ってないよ。自分はこう、もっとこう、なんかこう、ほら、結局聞くって言ったってレジナルドに何聞けばいいとか、そういうのを」


『支離滅裂ですよ半分くらい! マトモな相談のふりして、そのセリフ出てくるために何回『こう、こう』書く気ですか!』


「うるっさいよ、〝はじめまして!〟これだから真面目ちゃんは、あっれ違うっ、〝はじめまして!〟〝はじめまして!〟う聞きたいのは取り換え児って結局、〝はじめまして!〟あ何なんだよってことで」


『相棒! 間に4回も関係ない定型文のキー押してますよ! はじめまして、でもないし、それ何回言う気ですか! ていうか、質問変わってるし!』


 はっはっは、と、もう酔いが回って最高な気分になりながら、ルーシィのツッコミを聞き流す。いや、違うんだ。悪酔いするタイプではないはず。うん、そんなことないって。へーきへーき。


「それよか、結局、取り換え児ってなんだよ!」


 何が出来て何が出来ないんだよ、ぶっちゃけネット検索通りの取り換え児っていうなら、願えば居間に金も降って来るはずだし、真夏日に涼しい風が吹くはずだし、イケメンか美少女が自分に愛を囁いてくれるはず――まで打ちこんだところで、ルーシィに無理やり回線を切られた。


 どれだけ打ち込んでも、エンターキーをめきょめきょ、いうまで虐め抜いても、音声ソフトはぴくりとも反応しない。部屋に沈黙が降り積もり、自分は声なき声を上げながらキーボードをひっくり返した。


『もうVR来てくださいよ鬱陶しい!』


 と叫ぶルーシィに、電気代が――という現実的な思考が掠めてちょっとだけ酔いが醒めた。金の話を思い出して最悪の気分になった。これはもう飲んで忘れるしかない。と、いうことで千鳥足になりながらも慣れた足取りでキッチンへ向かえば、室内の監視カメラをジャックして逐一自分の行動を〝見て〟いるルーシィが、これ以上お酒飲んでいいわけないでしょお! と叫ぶ。うるさい。


 冷蔵庫の扉を開ければ、今日はゴーグルをしているのではっきりと冷蔵庫の内部が見える。久々に見たが、視界に入るのは銀色と赤色だけ。つまり、いっそ林檎、林檎、缶ビール、林檎、缶ビール、缶ビール、あっはは、笑える。


 冷蔵庫に半分頭を突っ込み、冷気を楽しみながら冷えたビールをゲット。冷たい缶に火照った頬を押し当てながら、冷蔵庫を閉めてその扉に寄りかかる。

 立ったままプルタブに指をかけ、ぶしっと開封すれば気分は上々。飲む前から上がるテンションに水を差すように、ルーシィがぎゃんぎゃんとモニター越しに騒いでいる。


『なに次いこうとしてんですか、この酔っぱらい! ていうか、酔うってことは――』


 と、気になるところでルーシィが黙り込むので、ぐびぐび次いきながらデスクに戻る。ひっくり返したキーボードを戻し、久々の飲酒で震える指先でキーを叩いた。


「酔うってことは何だよ?」


『普通の酒で酔えるってことは、相棒がさっき心配していた問題が解決したってことです』


 モニターに映るルーシィのちょっと拗ねた顔を肴に、もう一口ビールを喉に滑らせる。そのままキーボードに指を乗せながら、アルコールで鈍くなった脳でルーシィの言葉を反芻した。というか、いつのまに回線が戻ったのか、また音声パソコンが文字をでかでかと読み上げている。うるさいったらない。


 しかしはて、問題が解決? さっき心配してた?


「――なに心配してたっけ?」


 アルコールは忘却に効く。すっかり忘れた悩みの元を尋ねれば、ぎりり、と歯ぎしりしそうな勢いでルーシィがモニター越しに眉をしかめる。


『さっき! 魔術師って取り換え児のことですよってお話をして! いろいろ調べて! 真っ先に青くなって、じゃあ自分はあの火事の時に一度死んでるんじゃないか!? とか心配していたでしょう! でも普通のビールでここまで酔えるなら、そんな心配するまでも無く一度も死んでませんよって話ですぅ!』


 私の心配を返せぇ! と叫ぶルーシィの顔を画面越しに指でつつきつつ、いい感じにほろ酔いの自分は、ちょっと前のちっちゃな自分の悩みを思い出す。いや、まてよ、小さいか? なかなかヘビーな悩みじゃねぇ?


「いやでも今の自分はちっちゃな悩みだなぁと――うん? てことは、まだ一度も死んでない? というかさ、まだ確証ないのにそれ前提で話してるけど、これ違ったらただの自意識過剰の阿呆じゃね? それこそ、中二の頃に夢想する、実は自分は特別な魂を持っててとかそんなん……」


『……正直、相棒の健康診断表を盗み見た所だと、あながち夢みがちとも言えませんよ。身体的には何も問題ないのに、声も出ない、目も見えない、妙な形の火傷は残ってる……ほぼ確実におかしいです』


「ルーシィ」


『はい、なんですか』


 長々とした戯言の文から一転、落ち着いた表情で短く名前だけを打ちこむ自分に、途端にルーシィは表情を引き締める。じっと、自分の発言を待ち、彼女はえらく真面目な表情でこちらを見ている。


 自分は、ゆっくりとキーボードを打った。


「――たこわさ注文しといてくれない?」


 出来るだけ早く、データ通貨支払いで。続けてそう打ちこめば、なんか急に画面からルーシィが消えた。音速で注文に行ったのかな? とかお花畑な感想を抱いていたら、いつまで待っても戻ってこない。


 時計を見れば5分経ち、10分経ち。仕方がないので飲み終わった缶を適当に後ろ手に放り投げつつ、新しい缶ビールを取りに行く。戻って来て、林檎を齧り、更に5分待ったところでようやく見慣れた彩色が画面に戻って来た。


「〝おかえり〟」


『た・だ・い・ま・も・ど・り・ま・し・た!』


 ぽん、と簡単。定型文登録キーを打ちこめば、指先一つでおかえりも言える。今度、〝酒注文して〟を定型文に入れておく所存だ。今回ので備蓄がだいぶ減った。


「ずいぶんかかったね?」


『他にも色々やってきたんですよ! この酔っぱらい! チョイスが完全におっさんじゃないですか! モニターの前で立膝で缶からビール直飲み! つまみはたこわさ! いくら両性でも捨てすぎでしょう!』


 胸がある分だらしない女にしか見えない! と騒ぐルーシィだが、はっは、残念。自分はどっちつかずだから別に良い……良い? 良いのか? まあいいか。


「他にって何?」


『相棒の頼み通り、レジナルドさんに話通せるか琥珀さんに聞いてきたんですよ』


「へぇー、あの謎の生命体、琥珀さんか。なんだって?」


 そういや、そんなこと頼んだような気がする。あんぐらの中で捕まえてもはぐらかされそうだし、アイツ妙に強いし、勝てないし、そもそも捕まえられなさそうということで、こうなったら人脈だー、とルーシィのツテを頼った……気がする。


『詳しいことは知らない、だそうです』


「なぁんだよそれ」


 意味ないじゃん、役立たず、と罵りの言葉を連ねれば、ルーシィも微妙な顔で頷いて見せる。ルーシィ曰く、レジナルドは大雑把な概略は知っているものの、それを聞いても混乱するだけで、意味がわからないだろうから、自分で思い出すのをお勧めすると言ったそう――あれ? とアルコールで大半が埋まっている脳が、思考の途中でモニターの表示に気を取られた。


「メール?」


『……ご本人からのメールですね』


 キーを叩いてメールを開けば、そこにはレジナルドからのメール。先程ルーシィが語った内容が丁寧な言葉づかいで書かれ、更に最後に、あまり飲み過ぎないように、と真っ当な注意が書いてあった。


「……なんかマトモな人みたいで腹立つ」


 自分はてっきり、あの濃ゆいキャラクターで、手紙でも気持ち悪く自己ピーアールをしてくるかと思ったが、こう真っ当に真っ当なことを言われてしまうと、逆に反応に困る。

 速攻でメールをゴミ箱に放り込み、更に完全に削除。ビールを煽り、ふん、と鼻を鳴らしながらだらしなく片足を伸ばす。


 でもまあ、なんかちょっと嬉しいのも事実だ。じいちゃんが死んでからは、自分が酒を飲み過ぎても止めてくれる人も怒ってくれる人もいなかった。それがどうだろう。今ではルーシィも怒るし、レジナルドでさえ飲み過ぎるなと言ってくれる。ダメな形であろうと、人と繋がっている感は孤独に怯える脳に多幸感をもたらすのだ。


『あーあー、本当に飲み過ぎですよ。いい加減に止めた方が』


「わーった、風呂入ってから飲みなおす!」


『その状態で風呂行っていいわけないでしょう!』


 ルーシィの叫びと共に、瞬く間に乗っ取られたのか風呂場から停止音が聞こえた。ぴー、という音と共に水が流れる音がして、湯船からお湯が抜かれているのが遠くからでもわかった。この様子だと、シャワーも出るかどうか怪しい。


 ぶつくさ文句を打ちこみながら林檎を齧りつつ、腹減ったと思い再びキッチンへ進軍する。カップ麺を引きずり出し、ポットからお湯を注いで完成。早くていいなぁ、と思いながら割りばしと一緒にデスクに戻る。


『あああ、私に実体があれば!』


 口うるさいだけのルーシィの言葉など、届かない水鉄砲みたいなものだ。ふんふん、と聞き流しながら待ち、完成したカップ麺を啜りながら文字を打つ。


「うんうん、要するに纏めると、自分は一度も死んでないし、もうゆっくり思い出す努力をするか、別の知ってる人を探し出して聞くしかないわけね?」


『そーですね!』


「わぁった。一度、忘れよう。嫌なことばゲーム三昧で忘れるに限る。その時が来れば思い出せるだろう。今は、精神的ひきこもりを治す方向で」


『……まあ、妥当ですかね』


 どうせ、願っても金が降って来るわけじゃないし、と愚痴りながらそう結論付ければ、ルーシィも特に文句は無いようだ。まあ、無理に思い出そうとして暗くなっても本末転倒だし。

 じゃあ、それ食べ終わったらちゃんと寝てくださいよ! と言いながら不安そうに、モニターに大きくなったり小さくなったりするルーシィに、自分はふと思いつきで声をかけた。


「ちょいちょい、レジナルドの連絡先控えてるよね?」


 さっき消したけど、きっとルーシィなら記憶しているだろうと聞けば、当然、と胸をはる様子が可愛い。


『でも、何のために?』


「これ、この文面、送って」


 とメールを書き、送り先を指定すれば、ルーシィは素直に頷いてメールを送ってくれた。べろんべろんのままカップ麺を啜る自分に、ルーシィが首を傾げる。


『お礼の返事ですか?』


「ううん、違うよ、あのね」


 なんて送ったのかと声を潜めて聞くルーシィに、ご機嫌でくすくす笑いながら、こう答えた。



 ――あのね、居間にね、金を降らせることもできるんですか? って、送ったんだよ。



 勿論、いくらなんでも失礼すぎると、特大の怒声が響き渡ったのは、言うまでもない。今日一番の音量で、ルーシィの声が居間に反響する。


『いくら変態でも、一応は真っ当に相棒の心配をしてたんですよ!? 飲み過ぎて倒れなきゃいいけど……、って! なのに何ですか貴方さっきから金と暑さとイケメンと美少女の話しかしてないじゃないですか!』


 そんなルーシィの怒声を聞きながら、自分は、ぽちぽちぽちと思った事を正直に打ちこんでいく。


「レジナルドも顔は好みなのに、なんであの人、目に光ないんだろうね。イラストでいうところのあれだよ、ハイライト無し、ほら、ガチ目ってやつ」


 泥に絵の具ぶちこんだみたいな色までは許せるのに、何故光が宿らないって、多分あの人の心に光がないから光らないと思うんだよ、とつらつらと書きながら、ルーシィのお説教を完無視する。


「まあいいや、送った? 返事来た?」


『そんな秒速で返事来るわけ――来ました!』


 悲鳴のような声を上げ、驚愕に彩られたそれが返事の到着を語る。ワンタッチでメールを開けば、金は出ないけど、宝石みたいなものは慣れればぽんぽん作れるよ、という返事が返って来た。


「……宝石みたいなもの?」


 疑問をそのまま打ちこんだ瞬間に、それを見ていたかのように次のメールが届く。開いてみれば中身は画像だけ。透き通っているのに、まったく光っていない宝石のようなものが映っている。直感した。まず間違いなく、これはレジナルド作だ。透き通ってるのに光らない所とか、クリソツだった。


「こんな宝石いらねぇー」


『……なんか不気味ですね』


 欲しい? とメールに書かれていたので、もちいらない、と即行で返事を返す。こんなもの送って来られた日には、10日はやまいで寝込みそうだ。呪われた宝石というタイトルをつけて、画像フォルダに放り込んだら、即行で酷いよ、そのタイトルはと返って来たので、思わず自分は噴き出した。


「これ、確実にウイルス付きメールと見た。流石レジナルド、ストーカーみたい!」


『あああ、何ですかこれ! すごいタチ悪いウイルスが!』


 レジナルドの行動の速さに大爆笑しながら、何個目かわからないプルタブを開けた。これだよこれ、このぶしっ、と感が大好き。

 ぐびぐびと喉ごしの良い液体を飲みこみ、撤退して、と冷静なつもりでメールを送る。2秒で返って来た。


「見てよルーシィ、あの男2秒でメール返信して来たぞ!」


『それは送信のタイミングが被っただけじゃないんですか?』


 なるほど、それもそうか、と思いながらメールを開けば、自分は笑ったものの、ルーシィは凍り付いた。


 ――嫌だった? ごめんね? 撤退する。もうしないよ。


 ほら、ちゃんと2秒前のメールの返事だ、と胸をはれば、大問題ですよ! とルーシィに怒鳴られる。やばい、怒られるの楽しい。レジナルドとのメールも、癖になりそうだ。素面じゃ悪寒がしてメール出来なさそうだけど、酔ってると何でも面白く見えるから不思議だ。


「なんかこう、すごい楽しい。この一人じゃない感、たまらない」


 思わずそう打ちこめば、コミュニケーションに飢えてるだけです! もう少しマトモな人としてください! とまたも怒られた。そりゃそうだ。でも楽しいんだもん。

 第一、毎日毎日、VRを始める前は、それこそずぅっと誰とも話さず誰とも会わず、死んでるんじゃね? みたいな生活を続けてきたのが、夢みたいな状況だ。


 ビール片手に誰かと語らう? 語らってる? うーん、なんか違うけどこう、お話してるのがすごく楽しい。これはなんだろう。直接会って話したら、もっと楽しいんだろうか。もっと大人数で話したら、もぉっと楽しいんだろうか。


『ちょっと相棒! ビール零れてますよ! ビール!』


 そうかもしれない。きっと、もっと大人数で、お喋りしたらきっと楽しい。うん、そう、いつか、自分も、色んな誰かと笑いながらお喋りをして――


『相棒! 今、寝落ちするんですか!? せめてベッド、いえソファに!』


 いつか、そう、いつか。自分にもたくさんの知り合いや友達が出来て、楽しく――


『くっ……うぅ、ぐ、いやでも相棒の部屋に――あ、琥珀さんとセットなら!』


 もしかしたら、いつか、家族とかだって――













































「これ、かなり酒臭いですけど、自殺とかじゃありませんよね?」


「琥珀君、冗談でも止めてくれる? 狛乃は簡単には死なないけど、もしそうなったらすごく嫌だ」


 君だって奥さんに何かあったら、とか想像するだけでも嫌でしょう? と。育ちの良さそうな声色がそう言えば、実に尊大そうな、それでいて、世界中の誰がどんな風に聞いても完璧に美しい、と褒め讃えたくなるような声が、暗く酒臭い部屋に答えを返した。


「む……それは、嫌ですね。すみません、レジー」


「私は琥珀君のそういう素直なとこ好きだよ。私に怯えない数少ない友人としてね」


 無機物じゃなかったら、もっと良かったのに、とレジナルドがそう言えば、琥珀、と呼ばれた男は男女問わず、陶酔させそうな声で不服を漏らした。


「――僕には、よく理解できませんが、なんでしたっけ? 怯えるはずの存在から、怯えられないことを目指しているんですもんね? レジーは」


 僕だってレジーの親友なのに、とぶつくさ言いながら、琥珀は指ぱっちん一つで、部屋に散らばるゴミを跡形もなく片付ける。一瞬で空気ごと綺麗になった空間の片隅には、すやすやと寝息を立てる塊があった。


 不服そうな琥珀に対し、穏やかに笑いながらレジナルドはその塊に手を伸ばし、ゆっくりと抱え上げ、静かに椅子の上からベッドに運ぶ。


「だって、君が私に怯えないのは当たり前じゃないか。獅子が狼に怯えるはず――いや、この例えはおかしいな。木が空気を怖がるわけない、の方が例えとしてはしっくりくる」


 根本的に存在が違うから、そもそも比べようがない。と言いながら、レジナルドは酒臭い狛乃をベッドに寝かせ、羽毛布団をかけてやり、額に乗った邪魔そうな前髪を払いのけた。

 そのまま、ぽんぽん、と子供にやるように布団を叩き、用事は終わった、ありがとうね、とゆっくりと連れに微笑む。


「? キスの一つもしないんですか?」


「……琥珀君みたいにね、下半身にだらしないわけじゃないから」


「……喧嘩売ってます?」


「……事実だろう?」


 琥珀はその返事に唇を曲げ、彫刻のように美しい顔を子供のように膨らませる。


「好きなら、キスくらいするでしょう」


「相手の了承も得ずに?」


「僕のこの顔でキスして嫌がられたことありませんし」


「……そりゃ、君はね。そうだろうとも」


 自身の自慢の顔を指さし、琥珀は自信満々でそう言い切る。これで、別にナルシストというわけでもなく、ただ単に事実だからこそタチが悪いのだ。

 間違いなく、琥珀――ホムンクルスたるこの男は、全人類が手放しで褒めたたえるような、彫刻のような完成された美を持っている。だからといって、内面まで美しいわけではないが。


 レジナルドは狛乃を見下ろしながら指を噛み、ちょっとだけ首を傾げ、ううん、と低く困ったように唸る。


「私は、これが同類への愛情なのか。それとも個人に対する恋慕なのか、まだわからないんだよね」


「不便ですねぇ。気に入ったらキスして抱く。それでいいじゃないですか」


「だから浮気が原因で奥さんに追い出されるんだよ、琥珀君。そろそろ、その生き方止めた方がいいと思うよ」


「今はしてませんよ! ……あんまり」


 レディが一番ですもん、と、妻の名前をうっとりしながら呟く琥珀を、レジナルドでさえ残念な目で見やる。

 男二人の不毛な会話に、うるさいなぁ、というように狛乃が身じろぎするのを見て、レジナルドは容赦なく琥珀の向こう脛に蹴りを入れた。


「帰るよ、琥珀君」


「思うんですけど、みんなして僕への感謝の念が薄すぎますよね? みんな便利に使うくせに、あんまりいたわってくれないし、好き勝手に言うし――」


「琥珀君」


「――わかりましたよ」


 この空間でこれ以上ぐちぐち言うのは逆効果だと理解した琥珀は、大人しくレジナルドの威嚇の声に両手を上げて降参する。

 上げられた両手の内、右手の指先が鮮やかに閃き、ぱちり、と指ぱっちんの音がした瞬間。


 狛乃の家に突如現れた男二人は、現れた時と同じように、煙のように消え去ったのだった。





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