第八十三話:魔法の言葉はどこにあるの?

 


第八十三話:魔法の言葉はどこにあるの?




 酒をしこたま飲んで、呑まれて、目が覚めた時、いつも思う。


「……」


 何故、こんなになるまで飲んでしまったのか、と。


 毎回思うのに、やはり飲んでしまうのは何故なのか。それはもう、酔いという誘惑に抗いきれない人間のさがなのだろうか。


 しかし、そんなことはどうでもいい。抗えなかったものは仕方がないし、これからも抗えないだろうことは分かっているのだから、悩むだけ人生の無駄だろう。それはいいんだ。では何故、そんなことを思うのかと言えば――。


(……頭痛い)


 ああいや、そんなことより頭が痛い。もう脳裏を埋め尽くすのはその言葉だけだ。頭が痛い。酷く痛む。それはもう、がんがん、なんて比喩が、ちゃちなものに感じるくらいに頭が痛い。

 そう、酒を飲んだ後はいつもこうだ。そうそう強くもないくせに飲むからいけない、というのは分かっていても、飲まなきゃやっていられないこともある。


 二日酔いの重たい頭を振りながら身体を起こして、そして驚く。何故、自分はベッドに横たわっていたのかと。身体を起こせばするりと柔らかな羽毛布団が落ちていくし、尻に感じるスプリングは間違いなく自分のベッドの感触だった。いやしかし、何故。


 思えば、自分が酒を飲んで、酒に呑まれなかったことがあっただろうか。いやない。


 だから、毎回酒を飲んだ後に目覚める場所は、ソファだとか、机だとか、床の上だとか、酷いとキッチンでビール缶を手にしながらとか、それはもう酷いものがあったのだが、はて、ベッドで目が覚める何てこと、今までにあっただろうか。いやない。そんな綺麗な落ち方をしたことは無かったはずだ。


 痛む頭を諦め悪く振りながら、思わず習慣でベッドサイドを探り、指先に慣れた感触。すぐさま引き寄せ、頭に装着し、スイッチを入れて視覚を手に入れてから更に困惑する。

 いや、いやいやいや。待て、待てよ。いつも酒を飲んだ後はこれまたお約束のように、まずはゴーグル探しから始めるのが常だったのに、何故いつものようにベッドサイドにあった?


(……明晰夢でも見てるのか?)


 見えるようになった〝目〟で辺りを見回せば、これまた強烈な違和感を感じる。何故だ。何故、飲み散らかした跡が無い。ビール缶なら3本は適当に後ろ手に放ったはずだ。床に缶が1つも落ちてないとかあり得ない。


 あり得ないはずなのに、部屋の中にはビール缶どころか、食いっぱなしだったはずのカップ麺の容器すらない。食べかけの林檎もない。それどころか、普段からあまり換気をしない部屋なのに、酒の臭いどころか、淀んだ空気すら一新されている気がする。妙に空気がクリーンだ。


 あり得ない。普段から淀んでいるところに、酒なんて飲んだ日にはもっと空気が淀むというのに、これは一体なんだ。空気清浄機を多重稼働させた上に、大窓を開け放ったような空気の変わりよう。


 毎日、目覚めの空気最悪、と起きるたびに思っている自分が言うのだから間違いない。何もかもがおかしい。いや、換気しないととは思ってたんだ。ちょっと面倒だっただけ……いや、いやいや、そもそも酒を飲んだ記憶が間違っているのだろうか。


(いやでも、この頭痛は間違いなく二日酔いだ)


 思わず首と額に触れるが、間違いなく平熱だ。微熱すらないと思われる。ここまで考えて、ようやく監視カメラの存在を思い出した。本来の目的は泥棒に入られた際に、外部に泥棒がどの部屋にいるのかを知らせるためのカメラだったが、最近はもっぱらルーシィが自分の動向を〝見る〟ために使われている。


(そうだ、ルーシィ!)


 寝落ちする直前までルーシィとは会話をしていた。素面で思い出せば薄ら寒さが8割どころか、9割を超えるメールのやり取りをレジナルドとしていたこともしっかりと覚えている。やはり、昨日の自分は素面では無かった。絶対に酒は飲んだはずなんだ。


 毎回きっちり酒には呑まれるが、記憶が吹っ飛んだことはない。そのことに感謝しつつ、慌てて音声端末へと飛びついた。見れば、昨夜、ルーシィの表情を見るために設置したモニターはそのままで、すぐさま電源ボタンを押す。


 一昔前より早くなったといっても、まだ一瞬、とはいかない起動を待つ。いや、起動が一瞬じゃないのは、ひとえにうちの端末の値段がお安めだからなんだけれど――。普通の値段の買えば一瞬なのは分かっているんだけれども――!


『はい、相棒! 起きました?』


 起動音と共に内部モーターが忙しく回り始める。急激な動作に比例して発される熱を逃がすために、排熱機関がうるさく唸った。


 学習性AIの干渉は機械に意外と負担をかけるらしい。買い替え時期が早まりそうな不安を覚えつつも、意味は無いが宥めるようにつるりとした機体ボディを撫でる。ルーシィに返事をするために、これまた繋ぎっぱなしだったキーボードを叩けば、ルーシィは心底安堵した顔ではにかんだ。


「昨日、一体、何が」


 打ちこんだ言葉が即座に音声再生されて、逆に自分が驚いた。すぐに、昨夜自分で設定したものだと思い出し、ボタン1つで音声をオフにする。

 急に響いた音が頭痛を誘発し、眉間にしわを寄せた自分を見て、ルーシィが画面の向こうで笑った。


『二日酔い以外は問題無さそうですね。記憶はありますか?』


 ――ある。ある、けど。なんで部屋が綺麗になってて、自分はベッドに寝てるのか。記憶によれば、この机でそのまま寝落ちしたはずなんだけど。


 一番の疑問はそこだ。記憶があるからこそ、何故なのかわからない。昨夜、自分は間違いなくこの机でぷっつりいった。


『あー、それは琥珀さん付きのレジナルドさんが、相棒をベッドに運んで……部屋をパッと綺麗にしたのは琥珀さんですよ』


 ――ごめん、もう一度。


『文章にしましょう。打ちだします。よく噛み砕いて、理解したら言ってください』


 冷静なルーシィが即座に内容を文章にまとめ、モニターに映し出した。自分が文章をゆっくりと、3度読み返したのを確認して、続けて監視カメラの画像を貼りだす。


 ――……こっちの、金髪の彫刻が琥珀さん?


『上手いこと言いますね、相棒。そうです、その人形みたいなのが琥珀さんで、もう一人がレジナルドさんです』


 ――何故、うちの部屋に。


『私が連絡しました。机の上でそのまま寝たら、翌日身体ばきばきで大変だろうと。後、空気をチェックしたら淀み過ぎてたんで、丸ごとクリーニングしたいとは兼ねてから思ってましたから』


 ――動機は後半の願望が6割と見たぞ、自分は!


 4割は前半の心配が主だろうが、重きを置いたのは部屋のクリーニングに違いない。あっけらかんというルーシィに思わずエンターキーを連打すれば、まあまあ落ち着いて、と宥められる。


『手を出したら警察に通報する予定でしたから、防犯上は問題ありませんよ。第一、あちらさんが本気出したら相棒どころか、どの家屋でも防げませんから。レジナルドさんの苗字、グランドハイヴっていうんですよ、あの、医療会社の』


 ――グランドハイヴ。


 覚えがあるその名前に、キーボードを叩く指先が止まった。グランドハイヴ。覚えがある。医療会社、というだけではなく、何かもっと身近で、懐かしいものに、その名前が――。


 ――……生まれた病院の名前だ。


『はい?』


 ――自分は、グランドハイヴ医院で生まれたって、父さんの日記に書いてあった。




 12月25日。特に寒い日。可愛い娘が生まれた。グランドハイヴ医院にて、知人が取り上げてくれた。




 日記に書かれた、短い文字。可愛い娘、というその言葉は、寂しい時に何度も自分を慰めてくれた。子供の頃は、毎年、誕生日になるとそれを開いた。古びた革の、父さんの日記。そこには、母さんとの出会いから、自分の誕生、成長の様子などが、言葉少なに、短く、でもしっかりと書かれていた。


 グランドハイヴ医院で、知人が――。日記には、確かにそう書かれていた。知人とは、その医院に努めている人間か、それとも……。


『なるほど、意外なところから関わりの糸口発見ですね』


 ――もし、知人というのがレジナルドだったら……。


『レジナルドさんが言う、相棒の小さい頃を知っていてもおかしくありませんね』


 不死薬が出回る今、一般人でさえ見た目で年齢は測れないというのに、そういったツテやコネ、権力を持った人々の年齢は、推測すら難しい。

 一般人よりも、誰よりも早く、不死薬を手にしていたのは彼等なのだ。いつ飲んだかなんて、分かるはずもない。


 レジナルドの年齢はわからない。雰囲気と、所作から見るに、彼がグランドハイヴ家の騙りの可能性はほぼ無い。ルーシィの言う〝琥珀さん〟という大物との関わりがある以上、確定といってもいい。


 第一、何度も何度も動画を見返している今だって、信じられない思いでいっぱいだった。指ぱっちん1つで――とは聞いていたが、信じてはいなかった。戯言だと思っていたのに、今目の前の動画の中で、実際にそれがされている。


 夢幻のように現れ、消えていった。しかし、それらが引き起こした〝結果〟は、疑いようもなく現実に残っている。

 部屋は空気ごと綺麗になっているし、ビール缶も転がってはいないし、自分はベッドで羽毛布団をかけてぬくぬくと眠っていた。


 ――なんなんだよ、琥珀さん。


『ホムンクルスですってば』


 国はホムンクルスを隠している。あの噂は本当だったのだろうか。そもそも、ホムンクルスとはなんだろう。何か、何か世界には、自分の知らないことが多過ぎるような気になって、急に安穏と息をして生きているだけの自分に、不安を覚える。


 とっかかりさえなければ、不安にすら思わないのに。一般人のくせにちょっと端っこを知ったが故に、得体のしれない感覚が胃を持ち上げているようだ。

 今まで知らなかったから歩けたのかもしれない。もしかしたら、ずっと、暗い淵を歩いていたのではないだろうか。


 ちょっと道を踏み外せばどこへ落ちるのかを知ってしまったら、もうそんなところ、怖くて歩けなくなってしまう。今まで自分は、何を根拠に大丈夫だと思っていたのか。そんな風に思ってしまう。


 歩いている場所は同じなのに。何も変わってはいないのに。〝知っている〟だけで、世界はぐるりと様相を変える。

 知らないことが怖い。完全に理解していないのに、存在だけを知ってしまったら、怖くなるのは当然じゃないか?


『相棒?』


 ――……あの、さ。これ、この件、首突っ込んで、大丈夫、なのかな?


 怖くなった。


 ちょっとした好奇心で覗いた先が、真っ暗闇すら生ぬるい混沌だと知って怖くなった。

 十代の頃なら、それでもまだ楽しめたかもしれない。冒険気分で、無謀なまま、今の状況を〝面白い〟と言えたかもしれない。


 でも今は、そうは思えない。浮いていた足は地に着いたのだ。地面が揺れても、怖くなかった頃とは違う。もうあの頃のように、何もかも〝自分だけは大丈夫〟とか〝いつかは大成する〟とか、信じられる歳ではないんだ。


 考えなさい、考えている。考えているからこそ、この先の道が見えなくて怖い。

 この問題を問い詰めた先の未来が見えない。幸福な未来が欠片も見えない。いや、幸福じゃなくてもいい、それ以前に、まともな終わりが待っているなんて到底思えないのが何よりも恐ろしい。


 嫌な予感がするんだ。この問題を突き詰めたら、逃げ出した問題よりも、もっと酷いものが待っていそうで――。


『……私も、調べてみますが、これは、無理をして知るべきことかどうか、誰にも判断がつく問題ではないと思います』


 ぐちゃぐちゃになりそうだった頭が、ルーシィの声で少しだけ冷えた。ゴーグル越しでも尋常ではないとわかるのか、自分の視線を受け止めたルーシィが、ゆっくりと続ける。


『とりあえず、落ち着いて下さい。大丈夫です。少なくとも、琥珀さんは中立ですし、レジナルドさんに相棒を害する気は無さそうです。とりあえずは、大丈夫です。不安に思わなくても、大丈夫』


 ルーシィの穏やかな声が、ゆっくりと高ぶった精神を宥めていく。深呼吸を繰り返し、自分はゆっくりと椅子に深く腰掛けた。

 まるでしつらえたようにベッドサイドに置いてあったミネラルウォーターのボトルに手を伸ばし、あるものはあるでいいか、とそれの蓋を開ける。


 ――ごめん、ありがとう。


『いーえ、当然です。無理しなくとも、とりあえず生活に問題があるわけでは――いえ、一部ものすごく問題アリですけど、原因は見えないとかじゃありませんから』


 それは相棒の物臭がいけない、とぶつぶつ言うルーシィは、続けてこうも言った。


『大丈夫、いざとなったら、私がいます。もう、一人じゃないんですよ、相棒は』


 怖くなったら、呼んでください。何があっても、すぐに駆けつけます。


 その言葉を、ルーシィが言った言葉を。ゆっくりと噛み砕き、反芻し、理解して、不意に目頭が熱くなった。


 一人になった時、じいちゃんが死んで、これで本当に一人だと実感した最初の夜。もう、死んでしまおうかと思うくらいに、世界は冷たく、絶望で埋まっていた。


 誰か想像できるだろうか。暗い部屋で、一人ぼっちで。端末の電話帳には、誰の名前も入っていなくて。ただただ寂しくて。外には雪がチラついていて。広い部屋には自分だけしか存在しなくて。


 底冷えするフローリングにうずくまって、何時までも泣いていた。そんな時、人はなんて思うか知っているだろうか。誰とも知り合いでなくても。誰とも顔見知りでさえなくても。誰か、と無意識に思うのだ。当てもないのに。すれ違った人さえほとんどいなくても。


 誰か、誰か――誰でもいいから、大丈夫? と声をかけてくれないものか、と。そう思うんだ。


 誰も入って来れないと分かっている家の中で、そう思うこと自体が諦めている証拠なのに。どうしようもできないと思っているから、叶いっこない状況でそう願う。


 願うこと自体が、寂しさから心を守る呪文だった。


 唱えているだけで、黙っているよりマシな気分になれた。そんなこと当てにしていない。最初から、〝誰か〟が来てくれるなんて思っちゃいない。本気で信じているなら、家の中で唱えたりなんかしない。


 それでもそう呟いたのは、そうするだけで、誰かが来てくれるかもしれないと、嘘でも信じられたからだ。それは〝今〟じゃない。わかってる。〝今〟じゃなくていいんだ。そう呟けば、いつか自分にも、誰かが――。


 ――〝ありがとう〟


 震える指じゃ、キーボードも打てなくて。不器用な子供のように、人差し指がぽん、と定型文のキーを押し込んだ。

 ゴーグルの隙間から涙が落ちる。ぽつり、ぽつり、とキーボードに落ちて、震える指がまたキーを押し込む。


 ――〝ありがとう〟


 定型文だけど、決まり文句だけど、万感の思いはこめた。ルーシィはうん、うん、と笑顔のまま頷いて、ただ大丈夫とだけ繰り返す。

 どれだけ涙を流しても、ゴーグル越しの視界はぼやけない。モニターには、どこまでも優しい笑顔を湛えたルーシィが映っている。


 そこには、かつて人を救えなかったと嘆いていたか弱いAIの姿はなかった。自分の言葉は人を傷つけると、怯えていた姿はどこにもない。

 信じてくれているのだろう。君の言葉をきちんと受け止めると言った自分を、信じてくれているから、だからルーシィは自信を持って大丈夫と言っている。


 言葉は難しい。言う側にも気持ちが必要で、それを聞く側にも受け止める準備が必要だ。


 でも、言葉は素晴らしい。言う側にも気持ちがあって、聞く側にも受け止める気持ちがあるのなら、それは魔法に化けるのだ。

 もしそんな状況にあるのなら、ただの言葉は魔法の言葉に変身できる。


 〝大丈夫〟。そんな何の変哲のない一言が、魔法の言葉に成り代わる。


『大丈夫です』


 ずっと、ルーシィはそう言い続けてくれた。自分が泣き止んで、次のあんぐらのログインが楽しみなんて軽口を叩けるようになるまで、ずっと。


 優しく、静かに、でもはっきりと。


 魔法の言葉を、唱えてくれた。




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