第八十一話:変化は芋虫を蝶に変える

 



 【ぐらてれ】のアルバイト契約も終わり、宿屋へと戻り、時間に合わせてログアウトをする。

 最初は慣れないと思っていたそれにもすっかり慣れた自分は、何の感慨も無く、雪花とギリーにわずかな間の別れを告げて、現実世界へと戻って来ていた。


 明るい世界から、果てぬ暗闇へ。


 ずっとログアウトのたびにそう思ってきたけれど、本当にそうだろうか? と、小さな疑問を抱えながら。





























第八十一話:変化は芋虫を蝶に変える


































 ずっと、現実は暗くて寂しくて、救いのないどん詰まりだと思っていた。実際に、誰の訪ねも無い家は薄暗くて、寂しくて。でも今でも現実は、自分にとってそんな息が詰まる世界なのだろうか。


 でも、もしそうなら。


(……もし、そうだとしたら。なんで自分は、こんなに明るい気分でいるのだろう)


 明るい世界から、果てぬ暗闇へ。それは正しい。間違っていない。実際に向こうでは何の障害も無く見えていた世界は見えなくなり、黒一色に閉ざされることに違いはない。


 では、この高揚感はなんだろうか。この自己肯定感は? 何故、自分はこんなにも、今の自分を肯定的に見ているのだろうか。


 何があった、というわけではない。特別大きな、いや、感動するようなことや、確かに変化自体はあっても、これがあったから、なんて壮大な出来事は無かった。


(でもじゃあなんで、こんなにも――)


 いつもの薄暗いリビングに置かれたソファに座り込み、もう数時間が経った。ログアウトをしてから、ずっと出ない答えを考えている。


 最初は、ゲームをしていた時の高揚感を引きずっているのかとも思ったが、これだけ時間が経てばそういうわけでもないだろう。これ以上は、考えても仕方がないだろうか。


 堂々巡りの思考を終えて、風呂にでも入ろうとゴーグルの電源を入れる。目が見える。立ち上がる。立ち上がった。茶色い床が見えて、次に木のテーブルが映り、更に顔を上げていけば、テーブルの上の鏡が見えた。ぼう、とそれを見ていて、気が付いた。


(え……?)


 気が付いて、しまった。


 そういえば、ゴーグルのバッテリーなど、ログアウト直後に起動した際にとっくに残量がなくなっていて、電源ボタンを押したとしても、それが起動するなんてことはあり得ないということに。


 小さな鏡に映るゴーグルのランプは付いておらず、それの意味するところに気が付いた瞬間に、色のついた世界は消え失せた。


 一瞬で、瞬く間に。それこそ、驚きによる瞬きの一回で、今まで問題なく見えていた世界が、見えなくなった。


 元の通りに、黒一色に塗りつぶされる世界。驚きに、声の出ない喉がひゅう、と掠れた息を吐き出した。


 これは、どういうことだ? 錯覚? 見慣れた光景だから? いや、わかっている。違う。鏡なんて普段は置かないくせに、ざんばら髪を少しでも整えようと数か月ぶりに持ってきたのだ。もしこれが錯覚だと言うのなら、相当に優秀な錯覚といえるだろうが、これは――。



『君の目が治らないのは、見てしまったことを思い出したくないからだ。君の声が出ないのは、聞いてしまったことを話したくないからだ。君の火傷がちっともよくならないのは、それが忘れてはならないことの目印だからだ』



 思わず、喉に手をやった。ひくりと震える声帯に、問題はない。それは知っている。じいちゃんがそう言っていたから。しかし、じいちゃんは、自分の視力は火事の熱で失われたと言っていた。でも、それは、本当に?


 もし、もしも……レジナルドが言うように、そんなことは全く関係なく、目が見えない理由も、喋れない理由も、火傷の痕が少しも良くならない理由も、別にあるとしたら?


(今、一瞬……確かに見えた)


 自分の目は、遠い昔に焦がれた世界を、はっきりと映し出していた。


 ゴーグルを乱暴に剥ぎ取る。乱れた呼吸を深呼吸をして抑えながら、片手で瞼を覆って天井を仰ぐ。唇が、音の伴わない言葉を紡いだ。


(……魔術師)


 魔術師、狛犬。いや違う。きっと、全く意味の異なる言葉。狛犬ではなく、レジナルドは〝狛乃〟をしてそう言った。


(本物の、魔術師)


 自分の中に、何か掴めない記憶がある。それは多分、父の死に関わること。あの悪夢のような、火事が起きた日のこと。記憶がないのも当然だと思っていた。10歳とはいえ、それだけの火事に巻き込まれれば、ショックも大きいから覚えていないのだろうと、そんな風に軽く考えていた。


(あの日、火事が起きた。本当に?)


 本当に、それだけだった?


 忘れていることはない?


 あの日、自分は何をしていた?


(あの日、あの日は……肌寒い日で、お父さんが、やけに嬉しそうにしていた日で)


 そうだ。嬉しそうだった。親族に反対されながら、駆け落ち同然に結婚した母が死んでから、いつも難しい顔をしていることが多い父の、珍しい顔。その日は朝から嬉しそうで、確か昼食に天ぷらの準備をしていて――。


(天ぷら? お父さんは天ぷらが苦手だった。油っぽいと言って、あまり作ってくれなかった。自分は大好物、というわけでもなかったから、特別気にしていなかったけれど)


 自分のために、てんぷらを作っていたわけでも、父自身のために作っていたわけでもないとしたら? じゃあ、何のために、誰のために?


(まさか、じいちゃん?)


 じいちゃんは、本当に天ぷらが好きだった。特に茗荷みょうがを揚げたのがお気に入りで、そうだ。父は茗荷も天ぷらも嫌いなはずなのに、その日は、大量の茗荷が台所に――。


 じいちゃんが来るから嬉しそうだった? そういえば、じいちゃんと初めて会ったのは火事の後だった。病室で心配そうに、もう大丈夫だから、絶対に守るからと……他、他にも――。



『――見たくないものは、見なくたっていい。言いたくないことは、言わなくたっていい。お前は悪くない。だから、だから、ごめんな、ごめんなぁ……』



 涙混じりの、声。


 あの日、じいちゃんは泣きながらそう言った。声を失い、視力を失い、頬に消えない傷が出来た自分に、じいちゃんは涙混じりの声で、ずっと〝ごめんなぁ〟を繰り返していた。


(あれは、ただの火事では無かった?)


 でも、ただの火事では無かったのだとしたら、一体何が起きたというのか。覚えているはずだ。見ていたはずだ。火事に巻き込まれた自分と父に、何があったのか。そうだ、そもそも、何故火事になったのかを、自分は知らない。


 何が原因で家が焼け落ちたのか、何も知らないのだ。じいちゃんは言いたくない様子で、いつもその話になると逃げてしまった。だから、何も知らない。何も知らないのだ。大事なことを。大切なことを。何一つ、知らない。


(――嘘だろ)


 適当に生きてきたツケが、回って来たのだろうか。見ようとしなかったから、目を背けていたから、何もわからないし何も知らない。


 だって、必要な事じゃなかった。喋れなくても、少し不便なだけだった。目だって、ゴーグルさえあれば見えた。何の問題も無かったんだ。何の問題も無かった。


 だって、と言い訳の言葉を繰り返し思いながら、瞼を抑えていた手のひらをどける。見えるものは何もない。それが何かいけないのだろうか。いいや、何も悪いことはない。そう。見たくないものは見なくてもいいのだ。


 本当に?


 だって、必要ない。今を健やかに生きるために、必要なことじゃない。そうだよ、何のために逃げ出したと思ってるんだ、今更、引き返すなんて――誰だって、見たくないから逃げ出すものだろう。だのに、わざわざ藪蛇をつつく必要があるのか。


 そこまでいって、支離滅裂な自分の思考に引っかかりを覚える。


(逃げ出した……)


 逃げ出した? いいや、レジナルドの言葉がそう思わせただけだ。自分は別に、何からも逃げ出したりは……。


 考えまいとする自分と、考えようとする自分がせめぎ合っているような感じだった。気が付きたくないのに、気持ち悪い物事の一端を知ってしまったような、居心地の悪さが胸を詰まらせる。


 色んな人の言葉が、浮かんでは消える。ルーさんの言葉、あんらくさんの言葉。フベさんの言葉。ニコさんの言葉。アンナさんの言葉。色々なことを言っていたが、彼等は常に1つのことを言っていた。


『よく、考えなさい』


 彼等の言葉を聞いた経験が、何からも逃げ出そうとする自分の足を押しとどめた。混乱する脳が、ゆっくりと落ち着きを取り戻していく。


 考えなければいけない。真っ直ぐに生きるために。


 両手で自分の耳を塞ぐ。どくどくと、耳朶に伝わる心臓の音を聞きながら、自分は静かに考える。どうすればいい? いや、その答えだけはすでに出ている。


 何もかもわからないことだらけだが、幸いなことに、手がかりだけはあるのだから。


(……レジナルド)


 本名だとうそぶき、そう名乗った男。自分のことを知っていると声高に言った男が、【Under Ground Online】にいる。


(つかまえて、聞き出す……)


 耳を塞ぐ手のひらの一部が、ざらりとした頬の傷に触れる。もしかしたら、この声も目も、取り戻すことが出来るのだろうか。もしかしたら、この閉じた世界から、歩き出せる日が来るのだろうか。


 ――意味がないとわかりながら、自分はゴーグルの奥で目を閉じた。


 もう少しで、きっとルーシィの声がするだろう。それを心待ちにしながら、今はまだ、たった一人の部屋で耳を塞ぎ――小さく、唇を噛んだ。








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