第三十五話:ナンパ男、ていく・わん

 


第三十五話:ナンパ男、ていく・わん




 昔、本当に小さな頃。まだ目も見えて、世界が極彩色に輝いていた頃のこと。

 森に行った記憶がある。お母さんの記憶はないが、お父さんと手を繋いで。二人だけで、森に行った記憶がある。


 森といっても、小さな頃だったから本当にどれだけの広さだったかはわからない。それでも小さな自分にとっては全てが巨大で、青々と輝きながら陽光を反射する緑が美しく、いつまでも見惚れていた。


 キャンプでもしていたのか、夜まで森にいたと思う。夜の森と昼の森は全然違う。温かな気持ちになった昼の森はどこかへと去り、自分は冷たく冴える夜の森の中にいた。

 テントの傍だったから、迷子ではない。しかし、迷子になったような不安を抱えて木々を見上げた記憶がある。


 暗く、暗く、闇は梢の縁をぼかして滲ませ、吸い込まれるような黒があちらこちらに出現する。鳥の声まで不気味になり、梟のようにホウホウホウ、と鳴く声がする。

 後に、それがキジバトの声だと知ったのは、すでにこの目が光すらも映さなくなってからだった。


(……デジャヴュ)


 それは既視感とも言い換えられる。見えずともギリーが近くにいるとはいえ、1人で歩く夜の森は、そんな幼い頃の記憶をやんわりと刺激する。


 月も隠れる夜の森。ただでさえ暗い世界は、重なり合った葉によって星明りさえ遮られ、沈み込むような重みすら錯覚させる。

 不気味な声が時折響き、ギリーのものか、それともまた別種のものか。遠吠えの声が近く、遠く反響する。


(匂い……?)


 不意に、嗅覚が森の中にない筈の匂いを拾い上げる。煙の匂い。何かが焦げるような匂いに集中し、ゆっくりと辿れば次第に得られる情報は増えていく。

 野生動物になりきって、暗い森で息を殺す。夜行性の猫科のように目を見開き、少しでも暗闇を透かしながら足運びに気を使う。


 隠密スキルが発動しているとはいえ、気配に聡いモンスターがいれば意味がない。そんなモンスターの存在はまだ知らないが、用心は必要だ。

 隠密スキルが隠してくれるのは匂い、音、影と姿。早く動けば揺らぎがあるし、葉が擦れる音は隠してくれても、葉が動くのは隠せない。


 【索敵Ⅰ】のスキルはある程度の距離まで誤魔化せることがわかっているが、隠密スキルも掲示板では有名だ。敵方が何の対策も取っていないとは思えない。


 ゆっくりと、自分の身体が飛び出た枝に触れないように、木々の隙間を歩いて行く。装填したままセーフティーをかけた銃を引き抜き、地面に向けて両手で構えながら匂いの元へと距離を詰める。


 隠密スキルがある自分と一緒に居ては、逆に足手纏いになるからと別行動を提案したフベさんに文句はないが、1人と2人では全然違う。

 スキルのおかげでこちらに大きなアドバンテージがあるのは理解できるが、それでも環境が環境だ。震えそうになる足を叱咤して、そっと静かに耳を澄ます。


「……が、ぁ」


「どこ……さ…な」


(……さかな?)


 聞き取りにくいが声がする。木々の隙間からちらりと見えるのはテントだろうか。野営?森の中の敵の本拠地か。

 その予測と共に途端に足元が不安になり、そろそろと辺りを見回しながら完全に動きを止める。


 グレーゾーンの人達がPKに走っているという情報から考えて、どこまで連帯感があるかは疑問だが、手を組んでいるとかそんなことを考慮せず、PKをしている人数だけを仮定するのなら50以上はいるだろう。


 ユアのギルドを潰した事で、10人は減ったようだがそれでもまだ全員が結託していた最悪のパターンで、残り40。


 流石にその予測は無いという部分も含めて考えても、残り20はいると思った方がいい。少なめに見積もって不意をつかれるのだけはごめんだし、そもそもの分母自体がもっと大きい可能性すら捨てきれない。


(……とりあえず、今ここに何人いるのか)


 さかな、と聞こえた気がしたが、夕飯の準備でもしているのだろうか。そういえば自分の空腹値もだいぶ減っている。さっさとみんなと合流して、アンナさんの手料理にありつきたい。


 VRの中で明確に空腹を感じるのは、やはり食べ物の匂いがした時だ。食べると僅かな満腹感があり、満たされる程ではないが、感覚が誤魔化される程度に腹は満たされる。


 そもそも、空腹感自体が脳の錯覚に近いと言われるVR内での食欲は、やはり単純に食べることによって満腹になったと錯覚する。まあ、空腹感自体が小腹がすいた程度のものだし、胃が空っぽの状態で長時間“ホール”を使用する人もあまりいない。


(あ、ヤバイ。食べ物のこと考えてたら小腹が減った……)


 脳はかなり複雑で、それでいて単純な器官だと評される。自分の脳も例に漏れず、複雑な造りの割に単純に様々な欲求が浮かんでは沈んでいく。


 今の欲求は温かい食事と、仲間の安全、見栄と虚勢、のし上がりたい上昇志向。ぐっちゃぐっちゃに混在する欲求から取捨選択を繰り返し、自分はゆっくりと野営地と思われるテントに目を凝らす。


(人数はとりあえず……)


 外で動いているのは2人だけ。偵察に行っているのか、交代で追い詰める作戦なのか。テントの中にまだいる可能性を模索しながら観察する。

 男が1人に女が1人。それぞれ手にはフライパンと、聞き間違いではなかったようで、銀色の魚が握られている。

 川魚特有の、マスのような魚に思わず喉が鳴る。美味しそうだと思う前に、油断なく辺りを警戒する。


 自分がテントを張るのならば、周りに何かしらのトラップを張るのは常套手段。音で索敵範囲を補ったり、ダメージを与える落とし穴なんかも有効だろう。

 特に目標を注視しながら近寄ってくる敵に対して、おろそかになる足元へのトラップは有効だ。目線が高ければ高い程、地面すれすれの罠には注意がいかない。


(フベさんなら頭上にも仕掛けそうだ……)


 上から降ってくる大斧の罠は、実際にフベさんが今現在仕掛けている罠である。現実に遭遇したら、まず間違いなくトラウマになるであろう出来ではあった。


 茂みに隠すだけでは飽き足らず、彼は使える物は使いましょうと言ったと思ったらいそいそとロープを取り出し、自分が逃げ込む予定の道の途中に綺麗な罠を張ったのだ。


 敵を追っている最中、追い詰めている感覚が強ければ強いほど人間は油断によって、注意力が散漫になる。追い詰めていると思ったら誘導され、木々の合間から大斧が降ってくるなど、味方でもドン引きの作戦だ。関わり合いになりたくない類の作戦である。


 注意深く頭上と地面を確認しながら、ゆっくりと姿勢を低くして近付いていく。四足獣のように四つ這いに姿勢を近づけて、地面のトラップを探りながら歩みを進める。


 とりあえず無し。そこまで性格の悪い人がいないのか、それともここまでリアルな再現をしているVR自体が数少ないので慣れていないのか。

 両方かもしれないと思いながら索敵に引っかからないぎりぎりで足を止め、下準備は終えているらしい魚を持った男がこちらに背を向けるのをじっと待つ。


(もうちょい、もうちょい……よし、そろそろ)


「――“あけの色 精霊の色 火の精霊と見紛う色 猛火の線を繋ぎ巡らせ 力を得て炎上せよ”」


 小声での詠唱で、且つそれなりの音に溢れる場所でなら隠密が解除されないのは確認済み。楽しそうに会話をしている彼等の声に、更にフライパンで魚が焼かれる音が自分の詠唱を覆い隠す。

 リラックス状態に銃弾をぶち込まれ、更にその上で視界を真っ赤な炎が覆ったら、自分でも恐慌状態に陥ると確信しての二段構えの作戦だ。


 【フレイム】自身も威力の低い魔術ではないし、連打しているせいで熟練度も上がっている。この距離なら頭を狙って外さない自信があるし、1人、いやいけたら2人は一気に仕留められる。【フレイム】を撃つのはテントから人が出てきた場合のみ、近くに待機している人の存在を考えて、出来るだけ静かに速やかに事は終わらせたい。


(……後ろを向いたら、仕留める)


 念のためにギリーは近くで待機している。合図があれば来る筈なので、人が大勢来たらギリーに乗ってザ・逃走。基本は隠密に頼っているので、派手な音は避けたいところ。

 銃声で隠密が解除されるのも判明しているが、奇襲は最初の一発が特に肝心。それだけ果たせればこちらのペースに持っていける。


 ジュウウウウ、と良い音を立てながら魚の皮目がぱりぱりに焼かれていき、香草を千切っているらしい。何とも言えない良い匂いがしてぎりりと奥歯を噛みしめる。ちくしょう、美味しそうだ。


 狙って、撃つ。スキルを発動しなくとも、この距離なら確実に当てられる。ぐっと抑えながらセーフティーを解除して、しっかりとグリップを握り込む。

 フロントサイトとリアサイトを調節し、頭を狙って――。


(――当てる!)


 ぱん、と軽いような重いような音がして、立っていた男がゆっくりと傾ぐ。おそらく一撃で仕留めたと思われる男が崩れ落ちるのを目撃し、フライパンを揺すっていた女が呆然と目を見開く。


 即座に発射音のした方向、こちらに向けて首をめぐらせ、驚きに固まったままの目がこちらを向くも、次第に困惑の色が浮かんでいく。暗視スキルを持たないのか、中途半端に茂みに隠れる自分を視認できないようだ。


 自動拳銃の利点は次弾発射までのその速度。女がどこから来たのか分からない攻撃に備えようと立ち上がり、次の瞬間、その足を狙っていた銃弾が容赦なく肉を抉っていく。


 混乱しながらでも立ち上がるであろうことはわかっていた。狙いを定めるのにまだ僅かに時間を要する自分の腕では、そう位置を変えない足を狙った方が効率が良い。


 痛みの感覚はoffにしているようなので、単にシステム的に傷ついた足がその体重を支えられなくなったのだろう。ぐらりとよろけ、近くの木に手をついた時には3発目が胸に命中。


 心臓に当たったかと目を細めれば、おもむろに新スキル取得の表示が出て眉を寄せる。このタイミングでの取得とは、銃系スキルか、それとも別のスキルなのか。


 頭の中でのシミュレーション通り、女が倒れたのを確認し、【フレイム】の準備をしながらテントを注視。

 スキルの恩恵があるとはいえ、ギリーよりかは精度の良くない聴覚を研ぎ澄ませる。音は無し、音は無し、音は――と、かさりと何かが擦れる音に、迷わずに唇がスペルを叫ぶ。


「【フレイム】!」


「【フラッド】ォ!」


 テント目掛けて放った魔術の炎が、目の前で濁流に呑まれて消え失せる。熟練度がとんとんなのか、相性が良くないと思われるこちらの魔術は押し流され、蒸発し、白煙を撒き散らしながら余波がこちらにまで押し寄せる。


「冷た冷た冷たッ!!」


 予想以上に冷たい水が膝から下を飲み込んで、枝に掴まることで流されるのをようやく防ぐ。白煙に紛れての追撃を警戒する前に、水流に流されそうになるのを堪えるので精一杯。枝を掴む手が湿気に滑り、ずるりと身体が水に沈むと思った瞬間。


「悪い子は誰だーって……お、子鼠ちゃん。俺と一発楽しまない?」


「……ッ」


 腰に回った太い腕が水没を華麗に防ぎ、片腕で引き寄せられて一気に樹上へ。勢いよく引き寄せられたせいで尖った葉が頬を削り、血の匂いと共に上を見れば目についたのはまずはゴーグル。


 黒い縁に臙脂えんじ色のレンズのゴーグルに阻まれて、瞳は見えず、感情も見えないかと思われたがその言動とニヤつく口元で状況は把握。


 半ば絶句に近い形で黙りながらも、水流の原因はこいつだと断定した脳が苛立ち混じりにその顎めがけてアッパーを放つ。

 敵は首を横に倒して回避、躱されるのも計算の内で、即座に左手の銃を頭に向ける。しかし発射直前に腰に回った腕が引かれ、引き金を引いたものの弾丸は虚しくあさっての方向へと飛んでいく。


 外したアッパーの形のまま、指先を開き伸ばした手で枝を掴む。腕の力と腹筋を総動員し、畳まれた膝を男の側頭部を狙って跳ね上げながら詠唱開始。


「“朱の色 精霊の色 火の精霊と見紛う色”ッ!!」


「この状況で詠唱まですんの凄いね!? “あいの色 精霊の色 水の精霊と見紛う色”!」


「……ッ!」


 詠唱の規則性を聞き取って、敵が自分と同じ魔術師と知る。それもおそらく【フレイム】と立ち位置は同じ、2つ目の水系スキル。

 威力の程を知っている身としては、相殺も出来ないと即座に判断。熟練度が足りないのか、相性が悪いのか。いずれにしてもこれでは無意味、詠唱を切り替えて、短縮詠唱へと移行する。


「“火の精霊よ 点せ 【ファイア】”!」


「うおっと!? 短縮!?」


 顔面へと迫るファイアーボールを紙一重で躱した男の顎に、今度こそ渾身の膝蹴りをぶち込んで黙らせる。


 反動を利用した蹴りのせいで、投げ出された身体がぬかるんだ地面に墜落、するかと思ったが戦闘音を聞きつけたギリーが間一髪で地面と自分の間に滑り込む。

 唸り声を上げながら距離を取るギリーの背に掴まって、荒くなった呼吸を整えながら男を振り返る。


 黒いタンクトップに明るいベージュのツナギ姿。黒いブーツががつりと枝を踏み鳴らし、焦げた髪先を弄りながら長身の男が枝に立つ。


「あいたたた……ちょっと待ってよ。俺は雇われの用心棒で、依頼主が死んだからそれを殺したアンタに寝返ることもやぶさかじゃないんだけど」


「……それ、最悪じゃない?」


「強い方につくのは道理でしょ? 流石に油断しすぎだと思うね。トラップなしで、呑気にお料理ってのはナンセンス」


「忠告ぐらいするべきじゃない?」


「ガキのお守りじゃないんだぜ?」


 そんなことも言われなきゃわかんないのは、もう仕方がないだろう。と男は言う。雇われの用心棒が、1人テントで寝こけていて良いのだろうか。いや、寝ていたのかは知らないが、起きていたとしても問題に違いない。


 そもそも、信用するかは別問題。使えるのは使えるかもしれないが、騙し討ちされたら勝てないくらいの差は感じる。


「……条件は?」


「向かってこないだけ懸命、とか格好よく言いたいけど、そこのお犬様がいるんじゃ俺はまだ君には勝てない……かな? だから、互いに手を組もうよ。俺の目的にもその方が良い」


「目的?」


 何を目的としてここに居るのか。それは十人十色の問題だろう。ただ単にゲームが好きだから、現実から逃げ出したいから、もふもふしたくてたまらないから、戦闘が好きだから、様々な理由があれど、目的と明確に言い表すのとは微妙に違う。


「そう、俺の目的は――」


「……」


 人に興味を持ちなさいと言われたし、こんな即ナンパをするような人でも真っ当な理由があるんじゃないかとか、そんなことを思うのは。


「――リスク無くー、あはんなことをしまくることー」


 無駄な事だと思い知ったのは、予想したよりも早かった。遠くの遠くでキジバトが、ほうと鳴いたような気がした。


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