第二十九話:あなたと私で笑いましょう

 


第二十九話:あなたと私で笑いましょう




「――――」


 声が、出ないのではないかと疑った。


 生身の肉体ではないのに、肉を持った声帯ではないのに、夢の中に逃げ出した先でもまだ、自分の意識に裏切られるような予感に震えた。


 掌の温もりは現実に置き去りに、ただ明確な、冷静な意識を保つためだけの白い空間。

 平衡感覚がおかしくなりそうな膨大な白一色の空間に、ぽつりと目を見開いたまま突っ立っている自分がいる。


「……」


 見える、ということが。こんなにも意識に影響を与えるとは驚きだ。いや、それとも自分は仮想現実という夢の中に逃げこんでいる間だけは、しっかりとした別の自分を演じているのだろうか。


 しっかりとした明るい自分。色んなことを楽しめる自分。明るく、無邪気で、理想とする精神と姿。力を持ち、自信に満ちて、理想的な自分の姿。


「……現実じゃないんだから」


 声が出ないかもしれないなんて、馬鹿げている。現実ではないのだから、VRの中で声が出ないなんてありえない。馬鹿げた考えに振りまわされて、自分は何を怯えていたのか。


「ふーぅ……」


 VRの中でだけ、明瞭な意識があるような。さっきまでの躁鬱状態が自分でも信じられない程に、落ち着きを取り戻した自分の脳は冷静に問題を提起する。

 何もかもが、問題だらけだ。


「……チッ、取り乱しすぎた」


 舌打ちと共に油断しすぎだと冷静に今までのことを振り返る。泣いて何も持たずに家を飛び出すとか自分は馬鹿か、うん馬鹿だな。

 有り得ない、と自分で自分を嘆きながら、瞬時にゴーグルの損失が今月の家計にどれだけ響くか計算する。ざっと――いや、やめよう。考えるだけで気が滅入る。


 ゴーグルの回収は諦めよう。再びのこのこ尋ねていって、予備のゴーグルまで壊されたら月のバイトを3つは増やさねばならなくなる。


 次にあの“暫定、男”。あれは一体何なのだろう、しっかりと考えればおそらくは愉快犯の1人だろうか? 理由としては最悪な形で警察沙汰になるのを避けたか、声は違ったはずだから複数の犯人か……。

 善意の他人とするにはタイミングが良すぎるし、家を飛び出したのを見ているということは、そういうことだ。


「1人はマトモに頭が回るのがいたのか、どうかな」


『何がですか?』


「ああ、ルーシィ。ちょっとね、愉快犯がいてね。多分複数だと思うんだけど、ゴーグルの損失を考えると、いや――微妙なガキをしょっぴいても“無い袖は振れない”で、手間だけかかって意味がないか……」


『ああー、犯罪者から常に損害賠償をきっちり回収できるかっていったら、そうでもないですもんねぇー。現実って大変なんですね、というか反撃が出来ないぶん損してる気分です!』


「そう、そうなんだよ。前回の時も壊れた分の半分も回収できなくて……。貧乏人の『金が無い』は無敵だと思い知ったよ。まったく腹立たし――」


 ぶつぶつと自分の思考に没頭していた中、ふと聞き覚えのある声に顔を上げた。


「――ルーシィ、なんでいるんだ」


『気がつくのが遅いですよ、相棒』


 からからと笑いながら白一色の世界に彩りを連れて、感情あるAIがくるりと空中で一回転する。得意のポーズを披露して、それからにっこりとこちらに微笑みかけるものの、その笑みはどこかぎこちない。


「いや、だって……」


 どうして、と言いかける自分の懐に、ふらふらと独特の飛び方でやってきて、とん、と心臓のあたりに拳を置かれて思わず黙る。

 青い瞳がわずかに揺れて、迷うように眉が八の字をえがく。不安そうに何度か口を開いて閉じてを繰り返し、溜息を呑み込むように小さな妖精が目を伏せる。


『鼓動が――おかしいですよ、相棒』


「……」


『普通の心拍じゃありません』


 小さな拳が震えていた。ぎこちない笑みを浮かべた学習性AIが、どうしたらいいのかわからないというように震えていた。

 泣き出しそうな笑顔のまま、無言のまま顔のあたりまで飛んできて、青い瞳と視線が絡む。綺麗な目、綺麗な色。「映像」が映す視界の色に、こんなに綺麗な色はなかった。


 幼い頃の記憶に残る、たった一度の青空の記憶。その色と同じような、綺麗に澄んだ深い青色。青色が泣きそうに瞬いて、自分の心さえ見透かされているような気になってしまう。


「何も、いや……ちょっと混乱してただけで……」


『……“ホール”には一台に1つ、サポートAIがつくんです』


「え? あ……ああ、そういえば面接の時に言ってたな」


『本来なら最初のログイン時に自由に利用者が選ぶ仕組みなんですが、相棒は真っ先にゲームから入ったので、仮登録としてサポートAIの私が登録されているんです』


「あ、それでここに……」


 今この空間にルーシィがいる理由は、ひどく単純な理由だった。勝手に本体設定をすっ飛ばしたから、ゲームと連動していたルーシィが仮登録されたのだろう。

 ふらふらと目の前を飛びながら、ルーシィは自分と目を逸らさない。手探りをするような視線と共に、その小さな唇が迷うように微かに震える。


『――何か、あったんですよね』


「…………何も」


『履歴を見ました、目も見えなくて、ゴーグルを壊されたんですよね? 声も出ない中、どうしてこんな夜更けに出歩いたんです? 殺されてもおかしくないんですよ? 犯されても不思議じゃないんですよ? 現実の方がVRなんかより、ずっと怖いと知っているでしょう!?』


「……ルーシィ」


『そんな危ないことをするくらい、取り乱していたんでしょう! ログイン時の心拍数に気が付いていなかったんですか? どれだけ冷静そうに繕っても、自分がどれだけ動揺していると思っているんですか! 現実じゃないんだから? VRは、そんな都合の良いものじゃ――』


「ルーシィ!!」


『――ッ』


 小さく震える妖精が、ぴたりとその動きを止めた。それと同時に自分もまた、違う感情に責められ、俯く。

 後ろめたさに怒鳴ってしまった自己嫌悪と、弱さを悟られたくはない自分の見栄。


 VRの中でくらい強い自分でありたいという願望が、ルーシィの気遣いを煩わしい騒音に変えていた。

 突然の糾弾に責めるように大声を上げた自分が、同時に自己嫌悪という名の曖昧な感情に襲われるのを見てとって、ルーシィは呆然とした様子で呟いた。


『……人の心は、解しがたいです』


「……」


 どれだけ知識を持っていても、どれだけ心の反応をパターン化していても、どれだけ知識の処理能力が早くても――人の心だけは解しがたいとルーシィは言う。


『…………私、前のお仕事は中高生のサポートAIだってお話ししましたよね? 今は相棒のサポートをしていますが、サポートに特化したAIとして作られたわけではなく、適性があると判断されたから私はサポートAIという立ち位置にいるんです』


「……あらかじめそういう風に、なっているんじゃなくて?」


 唐突に自分のことに関して語り始めたルーシィに、何故と問うには後ろめたくて。この気まずい空気を流すように、分かりきったことを問いかける。


 当然だろう。学習性AIの特徴は、その名の通り学習だ。始まりがまっさらであるからこそ、心には幅が作られ、その行き先を多様性に満ちたものへと変えるのだ。

 わかりきった言葉の羅列に、ルーシィも付き合って頷いた。


『違います。人の心を解し、この世界においてネットワーク利用者の心の安定を最大の目的として、私は選ばれたAIです。人との親和性が高く、穏やかであり、励ましの言葉を口にするAIとして』


 なのに、と彼女は言った。

 それなのに、と。彼女は俯く。


 人を励まし、心の安寧を図るサポートAIとしては、彼女はすでに失格だろう。

 自らの心が千々に乱れているような状態に見えるルーシィは、しかしそれでも自身の役割を捨て切れてはいないようで、ただただ唇を噛みしめて、自分に無力を訴える。


『私は――担当していた中学生の男の子を、救えなかったんです』


 俯いたままそう囁いたルーシィが、きつく拳を握りしめた。彼女の訴え、AIの心の乱れのその元凶。

 人の心を救うのを目的とされたのに、その役目を果たせなかった自責の念。学習性AIもここまできたのかと、なんとも場違いなことを思う。


 過去の現象が今に響く。そんな本物みたいな感情を、人は作り上げたというのだろうか。その偉業と呼ばれる行いのせいで、今ルーシィは悩んでいるのか。


 18歳未満ということは、VRの話ではない。それでいて中高生のネットワークのサポートをしていたということは、彼女はつまり――。


「――アルクトッドの、サポートAI」


『……世間知らずの相棒でも、知ってるんですね。そうです、私は元々は、様々な理由により自宅で通信教育を受ける子供達が利用する専用ネットワーク、アルクトッド通信に所属していたAIでした。終わりの頃には心に問題を持つ子供に対して派遣され、彼等の精神が安定するように努めていました』


 アルクトッド通信とは、VRではなくただの端末によるネットワークだ。様々な理由により、外に出られないものの、それでも勉強がしたいという子供の為に立ち上げられたネットワーク。


 最終的には勉強だけではなく、外に出られない子供達の精神的な安定を求め、学習性AIを取り入れることでその規模を広げていったシステムだ。勉学、交流、ゲーム、教養、手広くやりつつも手を抜かないそのシステムは、自分も利用したことがあるのでよく覚えている。


「自分が子供の頃は、まだ学習性AIは広まってなかったから……」


『そうですね、昔はまだそういうことはありませんでした。ですが今の私は、画期的な“心の特効薬”になるとして、もてはやされた成れの果てです』


「成れの果てって……」


『それが事実です』


 成れの果てだと、ルーシィは自分を蔑んだ。


 AIに、人が救えるわけはなかったのだと。たかがAIごときが、子供の心と侮って、軽々しく大丈夫などと言うべきではなかったのだと。どれだけ辛い思いを抱えているか、理解が足りなかったのだと。AIなんかが、笑ってなんて、そんな単純なこと。


『言うべきじゃ……っ、なかったんです』


「……ルーシィ」


『あんなに悩んでいたのに、「笑いましょう」なんて、ただの重荷にしかならなかった……っ』


「……」


『あんなに苦しんで、悩んでいたのにっ。私は軽はずみな言葉で傷つけたんですっ!』


 ルーシィが、人の心を救おうと励んでいた筈の学習性AIが、涙はなくとも泣いていた。


 自分がいけなかったのだと。もっと思いやれば違ったのだと。助けられるはずだったのだと。

 傍から見れば滑稽な程に、土台無理なifを求めて泣いている。


 無茶な話だ、大人としての自分はそう思う。今時の中学生なんて、モラトリアムが延びに延びた現代において、自分の頃よりも幼稚である。


 そんな幼稚な精神が自分の殻にこもった時、外からの言葉が届くかなんて結果が既に知れているようなものだと思う。親の言葉でもない、友の言葉でもない学習性AIの呼びかけが、どうして彼等の心に響くだろう。


 いや、中には成功例もあるのかもしれないと思う。しかし学習性AIについて当たり前に受け入れていても、やはり人々は未だその存在を正しく理解してはいないのだ。

 人工知能。人工とついただけで、そのレッテルだけで人は彼等を、差別というフィルターを隔てて見る。


 当たり前だ。当然の話である。彼等は作られた存在だ。心の証明も何もない状態で、ただ作り方だけがわかりましたよと、世間の波に放り込まれた卵に過ぎない。

 その卵から孵ったものが、生き物ではなく“生き物のようなもの”だと思われても、誰も何も言いようがない。当然のことでしかない。


『……』


 よかれと思って、言ったのだろう。


 人を励ます、サポートAI。その名に恥じぬ働きをせんと、彼女は必死に言葉を紡いだはずだ。ひたすらに声をかけ、繰り返し語りかけ、それで人の心が軽くなると。きっと頑なに信じていた。


 よかれと思って、言ったはずだ。彼女はそれが、救いになると信じていた。

 しかし心は単純ではない。サポートAIの真意などくみ取れない、子供の思考にはただの重荷にしかならなかったと。その子供の顛末は、自殺だったと語られたそうだ。


 サポートAIの励ましは、その子の救いにならなかった。


 子供の心のケアには向いていないと、非常に安価に売りに出された。流れに流れて、あちこち渡り。最終的には今の社長に拾われて、もう一度人の心に触れてみないかと持ちかけられた。


 学習性AIが、真正面から人の心とぶつかりあえる場所を作るからと。


『今度こそっ、私は人の心を救うんです! それだけが私が在る意味なんですっ、でも、でもそれなのにっ――』


 わからないの、と。ルーシィが叫ぶ。

 かつて自分が信じた言葉は、心を救えると信じた言葉は、ただの重荷にしかならないというのなら。


『わからない――っ』


 どんな言葉をかければいいのか、わからないのと、彼女は叫ぶ。


 どんな言葉をかければいいの? 魔法の言葉はどこにあるの? どうしたら心が救われるの? どうしたらあの子は泣き止むの?


 どうしたら。そんな悲痛な問いだけが、答えの無い問い掛けだけが白い空間に落ちて消えた。


 その問いに、答えなどない。人の心は千差万別。同じものなど有り得ないし、どんな言葉で救われるかなど、それこそ計り知れないというしかない。


 それでもルーシィは答えを欲している。自分が信じた言葉こそが、凶器になるというのなら、自分はどうすればいいのだと。


 涙無く泣く彼女に、ゆっくりと顔を上げて目を合わせる。学習が必要だというのなら、全ての事が学習だ。正解も不正解も存在しない、心という難題を前に学習が必要だというのなら、その手助けをしたいと思うことも、また不正解ではないと思う。


「……ルーシィは、前に何て言ったの?」


『……』


「自分は中学生じゃない。安易に自殺なんて道は選ばない。君が本当に伝えたかっただろう思いを、汲み取れる余裕がある」


 伊達に生きていたわけではない。不死薬が出回る今、ひよっこに過ぎないとしても積み重ねた年月は無駄ではない。


 終わりを選んだその子のように、受け止めきれないなんてことはない。励まそうと思ったはずだ、少しでも心が救われればいいと思ったはずだ。

 そんな願いが込められた言葉が、全ての人を傷つける凶器のままでいいはずがない。


「……笑ってほしいと思ったんでしょ?」


『……人を殺した言葉です』


 笑ってほしいと思ったはずだ。この子が笑ってくれればいいと、彼女が思わなかったはずがない。


「助けになりたいと思ったんでしょ?」


『逆に追い詰めた言葉ですっ!』


 心の重荷が、少しでも軽くなればいいと願ったはずだ。どんなにわずかな重みでも、どかしてあげたいと願ったはずだ。


 学習性AIの言葉だけで、中学生が自殺を選んだわけでは決してないのだ。彼女はそう思っているかもしれないが、彼女がその存在ごと削除されていないのが、なによりの証である。


 きっと届かなかっただけなのだ。その言葉は凶器ではなく、ただ優しいだけの言葉だった。しかし不信感に閉じこもる子供には、届かなかっただけの言葉だ。


 人を自殺に追い込めるほど影響力のある言葉を語れるのなら、人を絶望から救い出すほどの言葉も語れるはずだ。

 ルーシィのかつての言葉は、ただ届かなかっただけのことだ。影響力がないからこそ、その子にとっては毒にも薬にもならなかった。


 言葉は難しい。言う側にも気持ちが必要で、それを聞く側にも受け止める準備が必要だ。


 助けたいと、そんな願いがこめられた言葉が今も、その結果のせいでルーシィを苦しめているというのなら。


「同じ言葉で何が悪い」


『……っ』


 願いをこめた言葉なら、それを受け止められる自分という存在があるのなら。


「願った心が本物なら、きっと違う結末になる」


『心……本物じゃ、ないんですよ。私はAIで、学習性って言ったって、でも……』


「本物であってほしいと願えるなら、本物だと自分は認める」


 他の誰もが認めなくとも、ギリーやルーシィ達が言う、本物であってほしいという願いがあるなら。


「信じる。だから……」


 不安定な心だと、自分自身でも自覚はしている。


 ただ起伏の無い毎日で、必死に表面に出さないようにふらふらと生きていただけ。VRに関わったから喪失感が大きくなって、自分の惨めさがより増えたなどとは思わない。


 ただのきっかけに過ぎないのだ。見ないふりして、生きていただけ。ちょっとしたギャップを見て、ただ自分の現状が浮き彫りになっただけ。


 行動しただけ、儲けもんだ。たかがゲームに過ぎないとしても、夢の中でだけでも自分を確かに保てるのなら、今はそれを悪いことだと言いたくない。

 逃げていると言われても、道が見えないのだからどうしようもない。変化を求めて動くだけでも、褒めてほしいくらいのものだ。


「……現実は、好きじゃない」


『……』


「目も見えないし、声も出ない。心因性の失声症って言ったって、原因がすっぽり抜け落ちているから解決も出来やしない」


 全ては、あの火事の日に起きたという。じいちゃんも語らなかった。自分もまた無意識に、その問題から目を逸らした。

 心因性の失声症は、おそらく素人の考えでは失声症になってしまった問題の根本を解決しなければ、治らないものだと思う。


 しかし自分の記憶にはそれが無い。火事の記憶も、あってもおかしくない年齢であったのに、それでもその辺りの記憶だけがすっぽりと抜け落ちている。

 目が見えないのは火事で救出が遅れたからだ。それだけはただの不運だったかもしれないが、声がでないのはまた違う問題だ。


「いつか思い出さなきゃと思うけど、思い出したくない。声を取り戻せるかもわからないのに、忘れるほど怖いことに向き合いたくない」


『……』


「現実は嫌いだ。家族がいない。これは去年死んだから。友達もいない、知り合いも勿論いない。よくあることだけど、目も見えなくて失声症で、半陰陽なんて破格の問題3点セット、学校に通ったらただのイジメのいい的になる。実際なった」


『……』


「現実は嫌いだ。暗い部屋が嫌いだから。ゴーグルは高いから滅多にしない。だから電気はつけないけど、電気料金よりも気が滅入る。かといって明るくても落ち着かないし、そんな経済的余裕はない。“ホール”の電気料金で更にない」


『……』


「現実は嫌いだ。ゲームの中の素敵な事が、全部、幻みたいに感じるから。ご飯もVRの中の方が美味しいし、カップ麺は大好きだけど時々味気ないと思う」


『……』


「現実は大嫌いだ。ちょっと取り乱して外に出れば、腹の立つ愉快犯がゴーグルを奪って壊していく。家計的には大ダメージだ。確かにルーシィが言う通り、声がでないからと犯されかけたこともある。ギリギリで逃げ切ったけど、妊娠の心配が無くともあれは怖い」


『……ッ』


「でも全部が全部、嫌だからって……死んで逃げ出すには勇気が無い」


『そんなのッ、勇気とは言いませんッ!!』


 黙って話を聞いていたルーシィが、本気で自分を叱りつける。


『死ぬ勇気なんて、勇気じゃないです! 生きるために頑張ることを勇気って言うんです! 私はっ、そのために少しでも……っ』


「うん、だから――」


 ――勇気を頂戴。


 掌を上に向け、そう言った自分にルーシィが目を見開く。


「VRの、中だけかもしれない。自分がこんなにしっかりとしていられるのは、今はまだVRの中だけかも。でも現実で、諦める事への一歩を踏み出さないように、ルーシィが勇気を頂戴」


 仮初めでもいい。人工知能の慰めを、虚しいと言うなら言えばいい。そんな慰めでも救いになるのだと、自分が証明してみせるから。


「君が、本当に人を思って言った言葉を」


 頂戴。


「もう一度、今度は自分に」


 嘘じゃない。きっと紛い物なんかじゃない。学習性AIは、これから人と共に歩むのだ。そういう時代に、なっていくのだ。単なる先駆けに過ぎなくとも、それだって始めることに意味がある。


 ルーシィと目を合わせ、そっと手を伸ばす。救いたいと願うなら、救ってくれ。引っ張ってくれという我が儘な手に、ルーシィは震えながら両手で触れる。


『あ、……あ、なたと』


「うん」


『あなた、とっ……わたっ』


「うん、だいじょうぶ」


 つっかえつっかえ、たどたどしく。でもそれでも、ルーシィは懸命に言葉を紡ぐ。


『あ、あなたと私で……笑いましょうっ!』



 あなたと私で、笑いましょう。


 手を繋いで、視線を合わせ、あなたと私で笑いましょう。


 辛いことがあったなら、語らずとも傍にいます。


 悲しいことがあったなら、黙したあなたに寄り添います。


 泣きたいことがあったなら、私も一緒に泣きますから――、


 ――でもどうか、どうか、見限らないで。世界を見限ってしまわないで。暗い淵に立っていても、どうかその1歩だけは踏み出さないで。


 人工知能と謗る前に、どうか私の言葉を聞いて。



『あなっ……あなたの、幸せを願っています……からっ』


 ――どうせAIだからなんて、なかったことにしないでください。


『それが使命なんだと思ってるんです……!』


 ――どうせそう言うように、プログラムされているんだろうなんて言わないで。


『本当に沢山の人を救いたいって思ってるんです……!』


 学習性AI、ルーシィの心の叫び。

 何故そう思ったのかはわからずとも、本気であることは伝わる気合。


「……」


 一緒に笑おうとは直球で、彼女なりに必死に考えたのであろう響きがこもっている。


「笑ってくれんの? 一緒に?」


『ゲームでもなんでもいいんです! 一緒に笑えば、少しは心も軽くなりますッ! そう思ってます!』


「そう信じてるから?」


『そうです! 何かおかしいですか!?』


 笑いってのは一番心によく効くんです、とそう言い張る彼女に、自然と上がる口角のままその小さな手をそっと握る。


「じゃあ、笑えるようなことをしよう。自分と、ルーシィで一緒に」


『しますけど、とりあえず笑って下さい!』


「んな無茶な」


『悲しい時こそ笑うんですッ! 笑えば気持ちが上向きます!』


「そうなの?」


『そうです! でも人は1人じゃ笑えないから、誰かの助けが必要なんです!』


「そうだね……」


 人は1人じゃ、生きていけない。根本的な部分で人は、孤独を恐れる生き物だ。ただ隣にあるだけでいい。1人じゃないと思えるなら、ただそれだけでも救われる。

 笑えと無茶を言うルーシィと目を合わせ、一瞬の沈黙。その妙な空白が逆に変におかしくて、思わず零れるような笑みが浮かぶ。


「ぶっは……!」


『どういうポイントで笑ってるんですか!?』


「わかんない、なんだろ……く、ははは」


『そこまで笑えることありませんでしたよ!? 何に笑ってるんですか! 怖いです相棒!』


「お前も笑えー」


『羽根引っ張っらないでくださいよ!』


 ルーシィの羽根をさっと掴み、ぐるぐると回してから放り投げれば、「あんぐら」のシステム外だからか目眩とかはないらしい。


 すぐに復活して頬を膨らませ、次の瞬間には諦めたように笑みが浮かび、互いに笑いながらどちらともなく握手をする。

 大きさが違い過ぎるので、触れるだけの握手だったが。それでも彼女の気持ちは伝わった。



 あなたと私で笑いましょう。



 たったそれだけの言葉だけれど。確かに心は温まった。

 辛い時こそ、君と笑おう。自分とルーシィはそう約束して、最後に2人でもう一度、心底楽しく笑いあえた。


 その後、生活の為にログアウトし、自分は幾分かすっきりとした気分で現実におり立った。もやで鈍っていた思考も戻り、少しだけ前向きな気分になれた。

 相変わらず、VRの中での事は夢と現実が曖昧だが、それでもルーシィの言葉だけは幻ではないと確信していた。


「……」


 とりあえず、ご飯作ろう。そう思えるくらいには、いつも通りになれたと思う。

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