第二十八話:情緒不安定
第二十八話:情緒不安定
暗闇。世界は、暗闇に包まれている。
「……」
暗い、暗い。目を開けても、閉じていても、自分の瞳は光の欠片すら映さない。
おそらくは“ホール”の内側だろう部分に手を這わせ、記憶していたボタンを押してカバーを開く。
カーペットに素足をおろし、まだ慣れない部屋を手探りで扉まで歩いていく。“ホール”を設置した部屋は爺ちゃんが使っていた寝室で、普段は近付きもしない部屋なので勝手がよくわからない。
爺ちゃんの死と共にぶつかりそうな物は全て片付けたから心配はないのだが、ふらふらしながら扉の取っ手に手をかけて、ようやくそこから慣れた部屋、自分の部屋兼、居間となっている部屋まで歩いて行く。
部屋まで行き着く為の歩数は身体がはっきりと覚えていて、今度はしっかりとした足取りで部屋に入る。
「ふー……」
声は無く、長い吐息が零れ落ちる。
長い夢から目覚めた感覚。あながち間違いではないその感覚と共に、自分自身を覚醒させるためだけにテーブルの上に置いておいたゴーグルを手探りで装着する。
ぷつぷつという起動音。揺らぐ視界が暗い部屋を映し出し、ぼんやりと宙を見つつソファに座ったまま顎を反らして上を見る。
暗い、暗く静かな部屋。誰の訪ねもない闇の中。テストプレイは明日の午後3時からで、それまではVRの通常使用は可能なものの、もう一度あの夢を見ることは叶わない。
長い長い夢から覚めて、変化の無い日常へと帰還した自分。それを意識すればするほど虚しさが押し寄せて、自分がこんなにもVRというものにのめり込んでいたことを意識する。
夢のようだった。いや、自由な夢そのものだろうか。こうして夢から覚めてみれば、ルーさんやあんらくさん、ニコさんやアンナさん達の存在が、途端におぼろげになってくる。
夢の中の住人でしかないのだ彼等は。少なくとも自分にとっては。現実では会うこともなく、話をすることもなく、そもそもルーさんが前埜優太という有名人であること自体が余計にその感覚に拍車をかける。
自分は本当にあんな有名人と一緒にいたのだろうか、まさか本当に夢だったのではないのだろうかと。そう思わずにはいられないのだ。
まさかそんな有り得ない。自分の世界は閉じきっていて、そんな凄い人達と関わる余裕も切っ掛けもありはしない。
一度そう思ってしまえば、慣れない感情は止まらない。走馬灯のように「長い1日」が駆け巡り、暗い部屋の「映像」が例えようもなく嫌になって、電源を切って乱暴にゴーグルを毟り取る。
手荒く放り投げたゴーグルが、床で転がり音を立てた。これが「あんぐら」の中であったなら、物を投げない! とルーさんが叱ってくれるのに――。
そんな浅ましい思考すら嫌になり、とめどなく「今日の経験」だけがよみがえる。
ルーシィと話したことも、初めてVRの中で走って動いて戦ったことも、ギリー達と契約したことも、ルーさんと会ったことも、魔術を唱えて戦ったことも、あんらくさんと会ったことも、たくさんの本を読んで知ったことも、ニコさんに会って助けたことも、アンナさんにホットケーキを作ってもらったことも、今まで知らなかったゲームの常識を知ったことも、銃の詳しい使い方まで知ったことも、ギリー達と同じ名前の銃を買ったことも、薬屋のおっちゃんと仲良くなったことも、通り魔を撃退したことも、偶然ユースケと知り合ったことも、学習性AIの知らなかった一面も、そしてそれを認めたことも、全部が、全部――
――ただの夢だったのでは、ないのだろうかと。
自分はただ“ホール”に横たわり、本物の夢を見ていただけではないのだろうかと。
そう、誰も自分が仮想現実という空間にいて、本当に生きた人間や学習性AIと会話していたと証明できるものは何も無い。少なくとも、今ここには。
経験した全てのことが、今の自分には証明できない。翌日になって再び都合の良い夢が見られるのなら少しは違うのかもしれないが、それだって自信が無い。
何故? 何故って、そう。関わりが無いからだ。現実で、この暗い部屋でただソファに座っているこの現実で、関わる術が無いからだ。現実では、何一つ関わりが無い。
――――本当は、全部。都合の良い幻だったのではないのだろうか。
「……」
そこまで思った瞬間に、生暖かい涙が頬を伝った。
声が出ない。泣き声すら上げられない。誰にも悲しみを訴えられない。寂しさというのだろうか、悲しさと、一体何が違うのだろうか。
目をいっぱいに見開くのに、昔見たはずの世界は映らない。真っ暗、暗闇。開いていても閉じていても、自分を孤独に追い込む嫌な黒。
誰か声をかけてくれないだろうか。誰もいない世界なんて、ただ悲しいだけじゃないか。自分の代わりに誰か泣いてくれないだろうか。声を上げて泣けないんだ。どうして声が出ないのかもわからないんだ。
耐え切れない感情が胸の内を吹き溜まり、大声を上げたいのに声にならないまま大口を開ける。
「――――!」
掠れた息、声無き絶叫。
不意に絶望が自分の足を引っ張って、淵でふらふらしていた自分を引きずりこむ。声を上げているつもりでも、必死に叫んでいるつもりでも、声は出ない。聞こえない。
どうしてだろう、昔はちゃんと見えたのに。火事のせいで目が見えなくなる前は、もう少しちゃんと世界が見えたのに。声もしっかり出せたのに。
視界が闇に閉ざされてから、世界すらもちゃんと見えやしない。心の視野まで狭くなって、どうやって生きていったらいいのかわからなくて、ただ深く考えないようにして生きているだけ。
夢じゃない確証が欲しい。VRの中ではなく、この現実で答えが欲しい。ばたばたと涙が落ちる。首筋を伝って気持ちが悪い。
どうして泣いているのかもわからない、どうしたのだろう、どうして悲しいのだろう。いや違う、寂しい、寂しい――――寂しい?
「――――」
息が止まる。呆然と、泣きながら目を見開く。
寂しい? 寂しい、寂しい。
「(――――さみしい)」
声にならない吐息が零れ、唇が音を準えてゆっくり動く。
寂しい。
寂しい。
寂しい。
(誰か――)
助けてと思う前に、自分はゴーグルを引っ掴み、涙を拭って駆けだした。
玄関までは身体が憶えているから問題なく、そこから先はゴーグルを手荒に装着して電源を入れる。
身一つで、何の準備もなく、置きっぱなしの新品に近い靴を履く。踵を入れることすらもどかしく、鼻を啜って玄関の扉を開ける。どうせこの監視カメラを掻い潜り、泥棒なんて入らないとそこだけは冷静に考えて、鍵すらかけずに外に出る。
見慣れない住宅街を尻目にひた走る。外に出ないからと多少の運動をしていた身体は思うよりも速く走れて、電子の映像が追いつかないままじりじりと揺れる。
何も考えずにただ走って、走って、気分も落ち着いてきた頃に自分の足も限界を訴えて震えはじめる。慣れない運動に息が弾み、ぜぇぜぇと荒い息をつきながら立ち止まる。
「……」
顔を上げれば公園だろうか。小さくもなく大きくもない公園が目に入り、ちょうどいいからベンチにでも座ろうと冷静さを取り戻し歩いて行き――、
「――――!?」
乱暴な衝撃と共に視界が闇へと暗転し、驚きと共に身を固くする。急に見えなくなった視界に混乱したまま身構えれば、笑い声と共に何かを地面に叩き付ける音。
がしょんというその音の正体に思い当たり、さぁっと嫌な予感に青褪めていく。笑い声はあっという間に遠ざかり、1人おろおろと首を振る自分だけがぽつりと取り残される。
(しまった――)
しまった、抜かった、どうしよう。
おそらくは愉快犯だ。前にもこんなことがあったのだ。まだ外の怖さも知らない頃、ふんふんとゴーグルをつけてお出掛けをした帰りに事件は起きた。
人通りの少ない路地を歩いていたら後ろから、突然ゴーグルを剥ぎ取られて捨てられたのだ。当然、急に見えなくなったことに驚いて、しかも自分は声が出ないので叫ぶ事も出来やしなかった。
その時はたまたま近くにいた人が逃げる犯人を不審に思い捕まえてくれたのだが、人通りが少ない路地で背後から忍び寄り、盲目の人がつけているゴーグルを面白半分に奪って壊すという事件は多くはないが、少なくもないらしい。
犯人は大抵が非行少年という奴で、面白半分にやるのだという。突然ゴーグルを奪われて壊される側が、どんな思いをするのかなど考えずに、ただどういう反応をするか見たかったからと、それだけの理由でやるのだそうだ。
警察からは人通りの少ない場所は通らないように、それか出かける時は必ず誰かと一緒に出掛けるようにと注意を受け、被害者なのに微妙な気分になったのを覚えている。
なのに――。
(ちくしょう、ガキ共めっ。見えてたら蹴りの1つでも入れるのにっ!)
――すっかり忘れて、鍵も端末もカードも何も持たずに家を飛び出した顛末がこれだ。
急に暗くなった視界に慌てて、ぐるぐると回ったせいで方向すらもわからなくなり、これでは家に帰れない。まっすぐ走っていただけとはいえ、どの道を走ってきたのかすら今やわからないという間抜けぶり。
まさしく途方に暮れるというのが正しい状態で、どうしようもなく立ち尽くす。知らない道で見えない状態に陥ることが、どんな意味を持つのか知っているからこそ違う恐怖がわきあがる。
(……どうしよう、どうしよう)
このままではまずい、だが声はでない。若干の冷静さを取り戻した自分の中で、ふらふらと歩いて迷子になるより、近くに壊れたゴーグルが落ちているこの場所の方が事情を一発で理解してもらえるという意見と、いやこんな人が通らない過疎の道で、一体何時間待つ気なんだという意見がせめぎ合う。
結局どうしようもないままおろおろと道路に立ち尽くし、最終的にぐすぐすしながらしゃがみこんだ時に、ふと人の気配がして顔を上げる。
「……?」
まさか愉快犯が戻ってきたのかと身構えれば、呆れたような溜息と共にそっと腕を掴まれて、ゆっくりと立ち上がることを要求される。
善意の他人か、それとも愉快犯の更なる追い打ちか悩みながら立ち上がれば、ぽんぽんと腰を叩かれる。わけがわからず首を傾げ、声が出ませんと喉を押さえて首を横に振れば、悩んでいるような沈黙の後、親が子供にやるように手を繋いで歩き出す。
あんまりにも自然な動作と、繋いだ手の温かさに心のどこかで安心して、手を引かれるままに歩き出す。手を繋いでいても暗闇を歩くのは怖いもので、もう片方の手でぎゅっとその腕に縋れば堅い感触。これはどう考えても男の人だと思いながら、不思議な安心感と共に大人しくついていく。
色々と聞きたいことはあるが、多分悪い人ではない、多分と思い。縋るものが何も無い自分は間抜けにも彼に従って歩いて行く。
道を曲がることは無いので、多分家までの道だろうと直感するが、だとしたらまさか家から飛び出して走っているところを見られたのだろうかと途端に恥ずかしさでいっぱいになる。
恥ずかしい、それは恥ずかしいと思いながら、ぐいぐいと腕を引っ張るもその人は立ち止まらない。ただ真っ直ぐ歩くだけで、振り返る気配すらない。
「……!」
再びぐっと力を込め、腕を強く引けば舌打ちと共に立ち止まる。掌を引き、その手にゆっくりと指で文字を書く。
どこへ?
簡潔な文字。たった3文字の疑問に、彼はやっぱり答えずに歩き出す。
歩き出した途端に香る、良い匂い。何とも言えない香りと共に手を引かれ、勢いで歩き出すも答えはない。
再び強く腕を引けば、舌打ちだけが返ってくる。善人なのかそうでないのか、よくわからない人だと思いながらただついていく。
しかしながらもう一度、諦め悪く腕を掴んでぐいと引けば、ついにその人は苛立ちと共に声を上げ、自分はその意外性に思わず立ち止まる。
「――何よもう、馬鹿みたいに走ってて襲われた間抜けのくせに! 家まで送るから黙ってついて来てれば良いのよ!」
「……」
あれ? 性別間違えた?
あまりにも意外な出来事に連打され、泣いていたのが馬鹿みたいに感じる中。自分はそれこそ間抜けのように目を丸くし、“彼”の声を初めて聞いた。
独特のハスキーボイス。自分が掴む腕の感触はどう考えても男なのに、女言葉で喋る彼。何が起きているかわからないまま、ずんずんと進むその手に引かれ、心中で疑問が吹き荒れたまま家の玄関にぽいと放られる。
「迂闊に外に出るんじゃないわよ!」
と、捨て台詞のようなそんな言葉と共に去っていった彼は一体何なのか。ぺたりと玄関に座り込んだまま、未だ真っ暗闇の中で呆然とそれだけを考える。
3秒程考えたが、わからないという結論が出た。とりあえず儀式のように鍵を閉め、落ち着く為に居間に戻り、予備のゴーグルを装着してようやく大事な事を思い出す。
(……ゴーグル回収するの忘れた)
壊れている可能性のが高いが、それでも望みをかけて回収するべきだったと唸りつつ、ずるずるとソファに座り込み項垂れる。
揺らぐ視界。ようやく見える状態になった安堵感と共に、再びの疑問がわきあがる。
誰だ、あれ。
自分はその後1時間も。何も持たずに外に出たことも、鍵をかけずに飛びだした事も、予備のゴーグルすら持たずに出かけたことの反省もせず、ただひたすら彼のことについて悩んでそして。
「……!」
何時の間にか、寂しいと思っていたことすら忘れていたことにようやく気がついたのだった。呆れるほど単純に、笑えるほど呆気なく、自分はこの一時だけ寂しさを忘れていた。
繋いだ手の温かさを思い出し、不思議な気分でそっと手を見る。まだ記憶に残る温もりは、妙に心を落ち着かせた。
その温かさを忘れないように、ぎゅっと自分で自分の手を握りながら立ち上がる。扉を出て、廊下を歩き、“ホール”の元へ。
何も明確な理由もなく、ただ落ち着きたいからという名目でゴーグルを外し横になり、ログインボタンを押して目を閉じる。
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